春秋時代92 東周匡王(四) 晋鄭の講和 前610年

今回は東周匡王三年です。
 
匡王三年
610年 辛亥
 
[] 春、晋の荀林父、衛の孔達、陳の公孫寧、鄭の石楚が宋を討ち、国君(昭公)弑殺を譴責しました。
しかし宋で即位した文公が晋に賄賂を贈って服従を示すと、晋はその地位を認めて兵を還しました。
 
[] 夏四月癸亥(初四日)、魯が小君・声姜(文公の母。前年八月に死亡)をやっと埋葬しました。
当時、斉が度々魯に兵を向けていたため、儀式が遅くなりました。
 
[] 斉懿公が魯の北境(または「西境」。もしくは両方)を侵しました。魯の公子・遂(襄仲)が斉に盟を請います。
六月癸未(二十五日)、魯文公が斉懿公と穀で盟しました。
 
[] 晋霊公が黄父(一名「黒壌」)で蒐(狩猟。閲兵)を行い、諸侯を扈に集めました。宋との和平が目的です。しかし成果はなかったようです。
魯は斉と戦っていたため会に参加しませんでした。
 
晋霊公は鄭が二心を抱いて楚に従っていると思い、鄭穆公との会見を拒否しました。そこで鄭の子家(公子・帰生)が執訊(通信使)を派遣して趙宣子(趙盾)に書を届けました。
「寡君(鄭の国君)は即位三年後に蔡侯を招き、共に貴君に朝見することにしました。九月、蔡侯が敝邑(鄭国)を経由して貴国に行きましたが、敝邑は侯宣多の難があったため(東周襄王二十二年・630年、侯宣多によって公子・蘭が太子に立てられました。太子・蘭が即位して穆公になると、侯宣多が専横して政治を乱れさせたようです)、寡君が貴国を訪問することはできませんでした。十一月になって侯宣多を滅ぼしたので、やっと蔡侯と朝見したのです。十二年六月には帰生が寡君の嫡子・夷(鄭の太子)を補佐し、楚に服従している陳侯と共に貴君を朝することを相談しました。十四年七月には寡君がまた貴国に朝見し、陳の事(陳と晋の講和)を調停しました。こうして十五年五月、陳侯が敝邑を経由して貴君を朝見することになったのです。往年(昨年)正月には燭之武が貴国に行きました。これは嫡子・夷を貴国に朝見させるためです。八月には寡君がまた貴国を朝しました。陳と蔡は楚と密接していますが、貴国に対して二心を抱こうとしないのは、敝邑の働きがあるからです。敝邑は貴君に従順であるのに、なぜ疑いから免れることができないのでしょうか。
寡君が位に即いてから、貴国の襄公に一度朝見し、貴君(霊公)に二度朝見しました。嫡子・夷も孤(鄭穆公)の複数の臣と共に頻繁に絳(晋都)を訪れました。敝邑は小国ですが、その誠意は他に並ぶ国がありません。今、大国(晋)が『汝等は我々を満足させていない』と言っていますが、敝邑が滅ぼされたとしても、これ以上できることはありません。
古人はこう言いました『首を恐れ尾を恐れる。身体はいくつ残るのか(「畏首畏尾,身其余幾。」始めと終わりだけを恐れて途中を恐れなかったら、中を失ってしまう。だから常に恐れを抱かなければならない、という意味で、鄭の晋に対する態度を表します)。』また、こういう言葉もあります『鹿は死ぬ時、自分を守る場所を選ばない(「鹿死不擇音。」追いつめられた鹿は何でもするという意味です)。』小国が大国に仕える時、大国に徳があれば小国は人(相手を恐れる存在)になります。しかし大国が不徳なら、小国は鹿になります。危険な場所を奔走している時、何を選ぶことができるでしょう。貴国の要求に限度がないようなら、我々は自分の滅亡を知ることになります。そうなったら敝邑は全ての兵を準備して鯈(晋と鄭の国境の地)で貴君の命を待ちましょう。
先君の文公は二年六月壬申、斉に朝見し、四年二月壬戌、斉のために蔡を攻めました。また、楚とも講和をしました。大国の間に生存して強令に屈するのは、我々の罪でしょうか。大国がこのような事情を考慮しないようなら、我々は命から逃げるところがありません(鄭が斉と楚の双方と和を結んだ時、斉は鄭を譴責しませんでした。晋が鄭の態度を譴責するのなら、鄭は滅ぶしかありません)。」
 
晋の大夫・鞏朔が鄭に入って講和し、趙穿と公壻池が人質として鄭に入りました。
 
[] 秋、魯文公が穀から還りました。
 
[] 周の甘(恐らく王子帯の子孫。王子帯は周恵王の子です)戎族を邥垂で破りました。戎族が酒を飲んでいる隙をついた勝利でした。
 
[] 冬十月、鄭の太子・夷と石楚が人質として晋に入りました。
 
[] 魯の公子・遂(襄仲)が斉に入り、穀の結盟を拝謝しました。
 
公子・遂は帰国してから文公にこう言いました「斉人が魯の麦を食べるつもりだ(魯を攻撃する)という噂を聞きましたが、恐らく無理でしょう。斉君の語は偸(適当。厳粛ではない様子)です。かつて臧文仲(臧孫辰。文仲は字)はこう言いました『民の主が偸であったら必ず死ぬ』。
 
 
 
次回に続きます。