春秋時代93 東周匡王(五) 魯の政変 前609年

今回は東周匡王四年です。
 
匡王四年
609年 壬子
 
[] 春、斉懿公が魯への出兵の日を発表しましたが、病に倒れました。医者が懿公に言いました「秋までもたないでしょう。」
 
これを聞いた魯文公は「斉侯の命が出兵の日までもたなければいい」と言って占いをさせました。
叔彭生(叔仲恵伯)が令亀(卜者に占いの内容を伝えて亀で占わせること)します。卜楚丘が占って言いました「斉侯は出兵まで持ちませんが、病が原因ではありません。また、主君(魯文公)はそれ(斉懿公の死)を聞くことがなく、令亀をした者(叔彭生)も咎を受けます。」
 
二月丁丑(二十三日)、魯文公が台下で死にました。台というのは宮中の高台のようです。寝室や病室で死んだのではなく、異常な死を遂げたことを示しています。一説では泉台(二年前に蛇が現れた台)を指すともいいます。
 
[] 秦康公が在位十二年で死に、子の共公が立ちました。
共公の名は、『春秋』では「稲」ですが、『史記・秦本紀』の「索隠」では「」、『史記・十二諸侯年表』では「和」と書かれています。
 
[] 斉懿公がまだ公子だった頃、邴(または「丙戎」)の父と田を争って負けたことがありました(または、狩りで獲物を競って負けたことがありました)。懿公は即位すると既に死んだの父の死体を掘り出し、刖刑(脚を切断する刑)に処しました。しかしは自分の僕(御者)に任命します。
更に懿公は閻職の妻を奪いましたが、閻職を驂乗(馬車に同乗する者)に任命しました。
 
夏五月、懿公が郊外の申池で遊びました。と閻職が池で水浴びをします。するとが閻職を鞭で殴りました。閻職が怒ると「他人が妻を奪ったのに汝は怒らなかった。汝を鞭で一度打ったくらいで、なぜ怒るのだ」と言いました。
閻職が言い返しました「父が刖刑にされたのに、それを怨むこともできない者が何を言うか。」
二人は懿公への怨みを語り合い、暗殺を計画します。
戊戌(十五日)、邴と閻職は懿公を殺して竹林に死体を棄てました。その後、国都に帰り、宗廟に杯を並べて暗君の死を報告してから斉を去りました。
 
斉人は懿公の子を擁立せず、桓公の子・元(懿公の兄。東周頃王六年、613年参照)を国君に立てました。これを恵公といいます。
桓公で、衛姫です。少衛姫は斉の乱を避けて衛にいました

斉人が懿公の子を擁立しなかった理由を、『史記・斉太公世家』は「懿公は即位してから驕慢になり、が帰しなかった」と書いています。『史記・十二諸侯年表』にも懿公二年(東周匡王二年・前611年)に「民心を得られず」とあります。
 
[] 六月癸酉(二十一日)、魯が文公を埋葬しました。斉も儀式に参加しました。
 
秋、魯の公子・遂(襄仲)と叔孫得臣(荘叔)が斉に行きました。公子・遂は斉恵公の即位を祝賀し、叔孫得臣は斉が文公の葬儀に参加したことに拝謝しました。
 
魯文公には二妃がいました。長妃は斉女で、太子・悪(『春秋左氏伝』『史記・魯周公世家』『資治通鑑外紀』では「悪」。『資治通鑑前編』では「赤」)と視を産みました。次妃は敬嬴といい、俀(『春秋左氏伝』『史記・魯周公世家』では「俀」。『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』では「倭」)を産みました。敬嬴は文公の寵愛を受け、しかも公子・遂(襄仲)と親しくなります。公子・俀が成長すると敬嬴は公子・遂に俀を託しました。
文公死後、太子・悪が即位することになりましたが、公子・遂は公子・俀を国君に立てようとしました。しかし叔彭生(叔仲恵伯)が反対します。そこで公子・遂は斉恵公に会った時、公子・俀の即位を許可するように求めました。
斉恵公は即位したばかりで魯との関係を強化したいと思っていたため、公子・俀の即位に同意します。本来、太子・悪の母は斉出身だったため、恵公は太子の即位を支持していましたが、太子が国君になるのは当然のことなので、斉に対して感謝をする必要がありません。そこで、敢えて国君になる資格がない公子・俀を即位させて、斉の影響力を大きくしました。
 
冬十月、公子・遂が太子・悪と公子・視を殺して公子・俀を立てました。これを宣公といいます。
 
公子・遂が君命と称して叔彭生を召しました。叔彭生の宰(卿大夫の家臣の長)・公冉務人(公冉が姓)が言いました「入宮したら殺されます。」
叔彭生が言いました「君命によって死ぬのならよい。」
公冉務人が言いました「君命なら死んでもいいでしょう。しかし君命が本物ではないのなら、聴く必要はありません。」
叔彭生は諫言を聞かず入宮し、殺されて死体を馬糞の中に埋められました。
公冉務人は叔彭生の家族を連れて蔡に奔り、叔彭生の子・皮を立てて叔仲氏を継続させました。
 
文公夫人・姜氏は二人の子を殺されたため斉に帰りました。途中、魯の市で泣いて訴えました「天よ、仲(襄仲)は無道です!嫡子を殺して庶子を立てました!」
それを見た市の人々も憐れんで涙し、魯人は姜氏を哀姜とよぶようになりました。

史記・魯周公世家』は「この後、魯の公室が衰弱し、三桓が強くなる」と書いています。三桓とは魯桓公の子である慶父、叔牙、季友の子孫で、それぞれ孟孫氏、叔孫氏、季孫氏を名乗っています。
 
[] 魯の季孫行父が斉に行きました。
 
[] 莒紀公(名は庶其)には太子・(莒僕)と季佗が産まれました。紀公は季佗を愛したため、太子・僕を廃しました。すると莒僕は紀公を殺し、宝玉を持って魯に出奔しました。
魯宣公は僕人(官名)を送って季文子正卿・季孫行父)に書を送ります。そこにはこう書かれていました「莒の太子はわしのためにその君を殺し、宝玉を持って帰順した。わしを非常に慕っているからである。本日中に一邑を与えよ。命に逆らってはならない。」
僕人が書を届ける途中、里革(太史・克)に遭遇しました。里革は内容を書き換えます「莒の太子はその君を殺し、宝玉を盗んで出奔してきた。彼は自分の凶悪を知ることなく、我々に近づこうとしている。わしのために夷(東夷)に放逐せよ。今日中に行え。命に逆らってはならない。」
書を受け取った季文子は司寇に命じて莒僕を追放させました。
翌日、司寇が宣王に報告すると、宣公は僕人を譴責しました。僕人は里革が命令書を書き換えたことを話します。
宣公は里革を捕えて言いました「君命に逆らった者の刑を、汝は聞いたことがあるか?」
里革が答えました「臣は死を持って筆をとったのです。それが何の罪に当たるか、知らないはずがありません。しかし、『法を破壊する者は賊であり、賊を匿う者は臧であり、宝を盗む者は宄(内に潜む奸人)であり、宄がもたらす財を使う者は姦(大悪)である毀則者為賊,掩賊者為藏,竊宝者為宄,用宄之財者為姦)』といいます。臣下は主君を藏姦の者としてはならないので、命令を書き換えました。臣は君命に逆らったので、処刑されて当然です。」
宣公は「寡人が貪婪であった。汝の罪ではない」と言って釈放しました。

莒では季佗が即位しました(恐らく厲公です。東周簡王九年・前577年に触れます)
 
以上は『国語・魯語上』の記述です。
『春秋左氏伝(文公十八年)』にもこの時のことが書かれていますが、『国語』とは少し異なります。長いので別の場所で紹介します。

春秋時代 莒僕の出奔

 
莒国に関して、『資治通鑑外紀』は「紀公・庶其から己姓を名乗ったが、誰からこの姓を与えられたのかは分からない」と書いています。莒は少昊の子孫として西周武王によって封侯された国で、元は嬴姓でした。
 
[] 二年前、宋で昭公が殺され文公が即位しました。
そこで武氏(武公の子孫)と穆氏(穆公の子孫)が昭公の子を擁し、司城・須(文公の同母弟)を主にして謀反を計画しました。
 
十二月、陰謀を知った文公が弟の須と昭公の子を殺し、戴公・荘公・桓公の族人(戴族は皇・楽・華三氏、荘族は仲氏、桓族は向・魚・蕩・鱗四氏)に命じて、司馬・子伯(華耦。この時は既に死んでいます)の館で武氏を攻撃させました。武氏と穆氏の族人は国を逐われます。
文公は公孫師(荘公の孫)を司城に任命しました。
暫くして司寇の公子・朝が死ぬと、楽呂(戴公の曾孫)を司寇に任命しました。
このように積極的に諸公子を用いることで公族間の争いを収束させ、国内の人心を安定させました。

以上は『春秋左氏伝(文公十八年)』の記述です。『史記・宋微子世家』は少し異なり、こう書いています。
昭公文公の同母弟を擁し、公、(穆)、戴荘公、桓公の子孫と共に乱を起こしました。文公はこれを全て誅殺し、公と公のを追放しました

 
 
次回に続きます。