春秋時代 莒僕の出奔

莒紀公が太子・(莒僕)を廃したため殺された事件を書きました。

春秋時代93 東周匡王(五) 魯の政変 前609年

本編は『国語・魯語上』の記述を元にしましたが、ここでは『春秋左氏伝(文公十八年)』の内容を紹介します。

 
莒紀公には太子・穆と季佗が産まれました。紀公は季佗を愛したため、太子・僕を廃しました。
元々、紀公は礼から外れた行いが多かったため、莒僕は国人の援けを得て紀公を殺しました。その後、莒僕は国の宝玉をもって亡命し、魯宣公に贈ります。
宣公が莒僕に言いました「今日中に一邑を与えよう。」
しかし季孫行父(季文子)が司寇に命じて莒僕を国境の外に駆逐させ、「今日中に任務を終了させよ」と言いました。

宣公が使者を送って季孫行父に理由を聞くと、季孫行父は太史・克(史克。または「里革」)を派遣してこう答えました「かつて大夫・臧文仲は行父(季文子。私。当時の人は自分の名を自称に用いました)に国君に仕える礼を教えました。行父はその教えに従って行動しています。背くわけにはいきません。臧文仲はこう言いました『主君に礼を用いる者を見つけたら、孝子が父母を養うように仕えよ。主君に礼を用いない者を見つけたら、鷹鸇(猛禽)が鳥雀(雀)を駆逐するように誅殺せよ。』先君・周公も『周礼(佚書)』を作ってこう言いました『礼によって徳を観察し、徳によって事(事業)を行い、事(事績)によって功を量り、功によって民から食(采邑の収穫)を得る(則以観徳,徳以処事,事以度功,功以食民)。』また、『誓命(佚書)』にはこうあります『礼を損なう者は賊といい、賊を匿う者は藏(隠す)といい、財産をくすねる者は盗といい、器(玉器等の宝物)を盗む者は姦という。藏の名を得て姦の物を自分の物とするのは、大きな凶徳であり、赦されるべきではない。『九刑』に記録して後世に伝えるべきである(毀則為賊,掩賊為藏,竊賄為盗,盗器為姦。主藏之名,頼姦之用,為大凶徳,有常無赦,在九刑不忘)。』行父は莒僕を観察しましたが、学ぶべきところはありませんでした。孝・敬・忠・信は吉徳であり、盗・賊・藏・姦は凶徳です。莒僕の孝・敬に関しては、君父を殺したので真似するべきではありません。忠・信に関しては、宝玉を盗んだのであてはまりません。その人は盗賊であり、その宝器は姦兆(姦悪の象徴)です。彼を助けてその物を得たら、我々が藏(罪人を匿うこと)になります。このような態度で民を教化したら、民は昏乱し、学ぶことがなくなります。莒僕の行いには善がなく、全て凶徳に属します。よって、彼をここから去らせるべきです。

昔、高陽氏(顓頊)には八人の才子(子は子孫の意味です)がいました。蒼舒・隤大臨・尨降・庭堅・仲容・叔達です。彼等は斉(中正)・聖(精通)・広(寛大)・淵(深遠)・明明智・允(守信)・篤(篤実)・誠(誠実)の人物だったため、天下の民から八愷(愷は「和」の意味)と称されました。高辛(帝嚳)にも八人の才子がいました。伯奮・仲堪・叔献・季仲・伯虎・仲熊・叔豹・季狸です。彼等は忠(忠誠)・粛(敬粛)・共(恭勤)・懿(端正)・宣(周密)・慈(慈祥)・恵(慈愛)・和(寛和)の人物だったため、天下の民から八元(元は「善の長」の意味)と称されました。この十六族は代々美徳を受け継ぎ、名声を損なうことがありませでした。堯は彼等を用いることができませんでしたが、舜が堯の臣として仕えていた時、八愷を推挙して后土(地官)を担当させました。その結果、八愷は時節に逆らうことなく百事を行い、天も地も安定させることができました。また、舜は八元を推挙して四方に五教を広めさせました。その結果、父は義を語り、母は慈愛を持ち、兄は友愛し、弟は恭敬になり、子は孝を尽くすようになり、国内外を安定させることができました

昔、帝鴻氏黄帝には不才の子がいました。義を隠し、賊を匿い、凶徳な行いを好み、醜悪な者と交わったため、天下の民は彼を渾敦(または「渾沌」。「渾」は濁った水、「敦」は障害が厚くて道が通じない様子)とよびました。少皥氏黄帝の子)にも不才の子がいました。信を損ない、忠を廃し、悪言を巧みに飾り、讒言に慣れて悪人を助け、盛徳の者を陥れたため、天下の民は彼を窮奇(行いが劣悪で奇を好む)とよびました。顓頊氏にも不才の子がいました。教え導くことができず、良言を話さず、指示すれば頑なに逆らい、放置すれば悪を行い、明徳を侮り、天の常道を乱したため、天下の民は彼を檮杌(頑迷な悪人)とよびました。この三族は代々凶行を続け、その悪名を広げていきました。しかし堯は彼等を除くことができませんでした。縉雲氏(太古の氏族)にも不才の子がいました。飲食を貪り、財貨を愛し、奢侈で私欲を恣にし、満足することなく財産を蓄え、孤寡(孤児や寡婦に施すことなく、貧民を憐れむことがなかったため、天下の民は三凶に匹敵するとして饕餮(饕は財に貪欲なこと。餮は食に貪欲なこと)とよびました。後に舜が堯に仕えると、四門を開いてこの四凶族を駆逐し、渾敦・窮奇・檮杌・饕餮を四裔(四方の辺境)に放って魑魅(魑魅魍魎。辺境の妖怪)を防がせました。堯が死んでから天下は一心になって舜を天子に奉戴しましたが、これは十六相を抜擢して四凶を除いたからにほかなりません。『虞書尚書・舜典)』は舜の功を述べてこう書いています『謹んで五典(五教)を行わせ、人々は五典に従うようになった(慎徽五典,五典克従)。』これは正しい教化を行ったからです。またこうも書いています『百事を行い、全て時節に適していた(納于百揆,百揆時序)。』これは事(事業・政治)を疎かにしなかったからです。『四門を開いて、四門を睦まじくした(賓于四門,四門穆穆)。』これは凶人を除いたからです。舜は二十の大功によって天子になりました。今、行父は一人の吉人を得ることもできませんが、一人の凶人を除くことができました。舜の功の二十分の一にあたります。これなら罪(国君の命に背いた罪)から逃れることができるでしょう。」