春秋時代94 東周匡王(六) 晋覇権の衰え 前608年

今回は東周匡王五年です。
 
匡王五年
608年 癸丑
 
[] 春正月、魯宣公が正式に即位しました。
 
[] 魯の公子・遂(東門襄仲)が宣公の命を受けて斉に夫人(姜氏)を迎えに行きました。宣公の婚姻のためです。
三月、公子・遂が姜氏と共に帰国しました。
 
[] 夏、魯の季孫行父(季文子)が斉に行き、財物を納めて会盟を求めました。
 
[] 晋が河曲の戦い(東周頃王四年・前615年)で趙盾に従わなかった者を懲罰しました。大夫・胥甲父(胥甲。下軍の佐)が衛に追放されます。胥甲父の子・胥克が胥氏を継ぎました。
胥甲父に仕えていた大夫・先辛は斉に奔りました。
 
[] 魯宣公と斉恵公が平州で会見し、宣公の魯君としての地位を確認しました。
魯の公子・遂が斉に入り、謝意を伝えました。
 
六月、魯宣公が斉恵公の支持を得て即位できたことを感謝し、済水以西の田(地)を斉に譲りました。
 
[] 秋、邾子が魯に来朝しました。宣公が即位したためです。
 
[] かつて宋が昭公を殺したため、晋の荀林父が諸侯の軍を率いて宋を討伐しましたが、宋文公が晋の盟を受け入れて帰順したため、晋は宋文公の即位を認めて兵を還しました(東周匡王三年・前610年参照)
また、晋が扈で諸侯と会した時には、魯のために斉討伐が決定されましたが、斉から賄賂を贈られた晋はそれを受け入れて兵を還しました(東周匡王元年・前612年参照)
鄭穆公は「晋と組むべきではない(信用できない)」と言うと、楚と盟を結びました。
 
陳共公が死んだ時(東周頃王五年・前614年)楚は陳の葬儀に参加しませんでした。怒った陳の霊公は晋と盟を結びました。
 
秋、楚荘王が陳を攻め、更に宋を侵しました。
晋の趙盾が陳と宋を援けるために出兵すると、楚は兵を還しました。
そこで晋軍は棐林(恐らく鄭の北)に進み、宋公(文公)・陳侯(霊公)・衛侯(成公)・曹伯(文公)も軍を率いて合流しました。
晋を中心とする連合軍は鄭に向かいます。
 
楚の蔿賈が鄭の救援に向かい、北林(鄭地)で連合軍と遭遇して晋の解揚を捕えました。晋軍は退却しました。
当時、晋霊公が驕侈だったため、政治を行っていた趙盾(趙宣子)がしばしば諫言しましたが、霊公は態度を改めませんでした。晋は内政の乱れのため、楚と対等に戦う余裕がありませんでした。
 
解揚は後に釈放されました。

『春秋左氏伝』にはありませんが、『史記・楚世家』は「を攻めて五百乗を奪った」と書いています。

[] 晋は秦との講和を望みました。そこで趙穿が霊公に言いました「我々が崇国(秦の属国)を攻めれば、秦は崇を援けようとするでしょう。それをきっかけに講和を要求することができます。」
冬、趙穿が崇を攻撃しましたが、秦は講和に応じませんでした。
 
[] 晋が北林の役の報復のため、宋と共に鄭を攻撃しました。
 
 
 
次回で匡王の時代が終わります。