春秋時代95 東周匡王(七) 大棘の戦い 晋霊公の死 前607年

今回で東周匡王の時代が終わります。
 
匡王六年
607年 甲寅
 
[] 春、鄭の公子・帰生が楚の命を受けて宋を攻撃しました。宋の華元と楽呂が鄭軍を防ぎます。
二月壬子(楊伯峻『春秋左伝注』によると、この年二月に壬子の日はありません)、両軍は大棘(宋地)で衝突しました。戦いは宋軍の大敗に終わり、華元が捕えられ、楽呂は戦死しました。宋の甲車(兵車)四百六十乗が奪われ、二百五十人が捕虜となり、百人が殺されます。
 
宋の狂狡がある鄭人と戦った時、鄭人は井戸の中に逃げました。狂狡は戟を逆に持って鄭人を井戸の中から救い出します。ところが鄭人は隙をついて狂狡を捕えてしまいました。
君子(知識人)は狂狡を批判してこう言いました「礼を失って命に背いたのだから、捕虜になっても当然だ。戦場においては、果毅(果敢・剛毅)を示して命に従うことを礼という。敵を殺すことが果(果敢)であり、果を達成させることが毅(剛毅)である。その逆を行ったら殺されることになる。」
 
大棘の戦いが始まる数日前、華元は羊を殺して将兵を労いました。しかし華元の御者・羊斟(または「羊羹」)には羊肉が与えられません。
戦いが始まると羊斟が華元に言いました「先日の羊はあなたが政しました(制しました。主宰しました)。今日の事は私が政します。」
羊斟は華元を車に乗せたまま鄭の陣営に入ります。華元は鄭軍に捕えられ、宋軍は大敗しました。
君子は羊斟を謗ってこう言いました「羊斟は正しい人ではない。個人的な怨みによって国を敗れさせ民に害をもたらした。これ以上重い罪があるだろうか。『詩経(小雅・角弓)』に『善の心を持たない人(「人之無良」。『詩経』の原文は「民之無良」)』とあるが、まさに羊斟のことをいっているのだろう。彼は自分を満足させるために民を害した。」
 
宋は兵車百乗と文馬(毛並みが鮮やかな馬)四百頭を鄭に贈って華元との交換を求めました。しかし兵車や文馬が半分ほど贈られた時、華元は脱出しました。
華元は宋城の門外に至ると、自分の身分を告げて中に入りました。そこで叔牂(羊斟)に遭遇します。華元が羊斟に言いました「汝が敵陣に駆けたのは、馬のせいか?」
羊斟は「馬ではありません。人のせいです」と言うと、魯に出奔しました。
 
後日、宋で城を修築した時、華元が指揮をとって巡視しました。すると労役に従事する人々が歌い始めました「大きな目と腹を持ち、甲を棄てて帰って来た。顔中は髭だらけ、甲を棄てて巡視に来た(睅其目,皤其腹,棄甲而復。于思于思,棄甲復来)。」
立派な外貌をしながら、捕虜になって逃げ帰って来た華元を嘲笑う歌です。
華元は驂乗(馬車の同乗者)にこう応えさせました「牛がいれば皮があり、犀も牛も欠かさない。甲を棄てて何が悪い(牛則有皮,犀兕尚多,棄甲則那)。」
人々が応じました「牛皮はあるが、(高価な)漆はどうする(従其有皮,丹漆若何)。」
華元は驂乗に「行こう。相手の口が多すぎる」と言って去りました。
 
[] 秦が晋を攻撃しました。崇の役(前年)の報復です。秦軍は焦を包囲しました。
 
夏、晋の趙盾が焦の救援に向かいました。秦は兵を退いたようです。
晋軍はそのまま陰地を発し、諸侯(宋・衛・陳)の軍と合流して鄭を侵しました。大棘の役の報復です。
史記・鄭世家』はこの年に「晋が趙穿を攻撃させた」と書いています。この時の事を指すと思われます。

今度は楚の椒が鄭の救援に向かい、「諸侯を得るためには困難を恐れてはならない」と言って鄭に駐軍しました。
趙盾は「彼椒。若敖氏)の宗族が楚で権力を争っている。間もなく倒れるだろう。今回は我々が退いて彼等をますます驕慢にさせ、その禍を大きくしてやろう」と言って撤兵しました。
若敖氏は二年後に内乱で滅ぼされます。
 
[] 晋霊公は国君にふさわしくなく、重税をかけて宮殿の彫刻や壁画を作らせたり、楼台に登って弾弓を打ち、逃げる人の姿を見て遊んでいました。
宰夫(国君の料理を作る官)が熊蹯(熊掌)を料理した時には、まだ煮足りなかったため怒って殺し、蒲草で編んだ箱に入れて、婦人に運び出させました。婦人が朝廷を通った時、趙盾と士会(士季。随会)が箱から出た手を見つけたため、婦人に問い詰めました。二人は霊公の暴虐を知って憂い、趙盾が諫言しようとしました。すると士会が言いました「あなたが諫言して、もしも主公が聞き入れなかったら、今後、諫言できる者がいなくなってしまいます。まず私に行かせてください。」
 
士会が中庭で二回諫言しましたが、霊公は無視します。しかし堂の下まで来て三回目の諫言をすると、霊公は仕方なく士会を見て「わしは過ちを知った。今後改める」と約束しました。
士会は稽首して言いました「人は誰でも過ちを犯すものです。過ちを犯しても改めることができれば、最大の善といえます。『詩経(大雅・蕩)』に『良い始まりは難しくないが、良い終わりは珍しい(靡不有初,鮮克有終)』とありますが、これは過ちを犯した時、それを補える者が極めて少ないことを表現しています。
主君に良い結果が生まれれば、社稷が安定します。群臣だけが主君に頼っているのではありません社稷のためにも善を行ってください)
詩経(大雅・烝民)』にはこういう句もあります『天子に過失があった時、仲山甫西周宣王の卿士。宣王中興を実現させました。覇者として周王を援けるべき立場にいる晋霊公が仲山甫にあたります)だけが補える(袞職有闕,惟仲山甫補之)。』このように過ちとは補うことができるものです。国君が過ちを改められれば、袞(天子や上公の礼服。ここでは諸侯の地位。または社稷を失うこともありません。」
しかし霊公は結局行動を改めませんでした。
 
趙盾もしばしば諫言しました。霊公は趙盾を憎むようになり、鉏麑(または「沮麛」「鉏之彌」等)に趙盾暗殺を命じました。
ある日の早朝、鉏麑が趙盾の家に行くと、寝室の戸は既に開かれており、趙盾は朝廷に行くために正装していました。但し、朝早いため、座ったまま寝ています。
鉏麑は寝室から離れると嘆息して言いました「趙孟は恭敬の人だ。恭敬を忘れることがないのは(朝早くから入朝の準備を済ませていることが主君や国に対する恭敬を示します)社稷の重鎮としての姿勢だ。社稷の重鎮を害すのは不忠である。しかし主君の命を棄てるのも不信である。どちらか一つを犯すくらいなら、死んだ方がいい。」
鉏麑は趙盾の庭に育った槐の木に頭を打ちつけて自殺しました。
 
秋九月、霊公が趙盾を酒宴に招きました。甲兵を隠して趙盾を襲うつもりです。趙盾の車右・提彌明がそれを知り、小走りで台に登るとこう言いました「臣下が国君の宴に参加した時、三爵(三杯)を超えたら非礼となります。」
提彌明は趙盾を抱えて席から去ろうとしました。すると霊公は獒(凶暴な犬)に趙盾を襲わせました。提彌明が戦って獒を殺します。趙盾が言いました「主公は人を用いず犬を用いた。いくら強暴でも犬では役に立たない。」
この時、霊公が隠した甲兵も現れました。趙盾は戦いながら脱出します。提彌明は殺されました。
 
以前、趙盾が首陽山で狩りをして翳桑(地名。または大きな桑の木の下)で休みました。そこで倒れていた霊輙人名。『史記・晋世家』は「眯明」としていますが、上述の「提彌明」と音が近いので、恐らく混同しています)に会います。趙盾がどうしたのかと聞くと、霊輙は「三日間、食事をしていません」と答えました。
趙盾は食事を与えました。
すると霊輙は半分を残します。趙盾がその理由を聞くと、こう答えました「私は仕官するために游学して三年になるので、家に残した母の存否もわかりません。今、近くまで帰ってきたので、残りを母に譲ることをお許しください。」
趙盾は霊輙に全て食べさせ、更に食物を袋に入れて与えました。
その後、霊輙は霊公の甲士になりました(『史記・晋世家』では「宰夫になった」としています)
霊公が趙盾を襲った時、霊輙も参加していましたが、逆に趙盾を守って霊公の士と戦います。難を逃れた趙盾は自分を助けた者が誰か気がついていません。そこでなぜ助けたのか問うと、霊輙は「私は翳桑の餓人です」と言って去りました。

以上は『春秋左氏伝(宣公二年)』の記述です。『史記・晋世家』は少し異なります。
趙盾に助けられた祗眯明霊輙)は晋の宰夫になりました。
九月、晋霊趙盾を進めました。士を隠して趙を襲うつもりです。公宰・祗眯明がそれを知り、趙が酔い潰れるのを恐れてこう言いました下に酒を賜る時は、(酒器)が三巡したら止めることになっています。」
眯明趙盾を先に歩かせてから逃れようとしました。
この時、霊が用意した甲がまだ集まっていなかったため、獒)という大きな犬を放ちました。祗眯明は趙を守って犬を殺します
が言いました「を棄てて犬を用いるとは、たとえ獰猛でも役には立たない。」
しかし趙盾は祗眯明に助けられていることに気付いていません。
が甲趙盾を襲わせると、祗眯明が反撃しました。甲は前に進めず、その間に趙は脱出します
眯明なぜ助けたのか問うと、眯明は「私は桑下餓人ですと言いました。
趙盾がを聞きましたが、眯明応えずに去りました
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
乙丑(二十六日)、趙穿(『史記・晋世家』は趙盾の兄弟としていますが、恐らく誤りです。どういう関係かははっきりしません)が桃園で霊公を殺しました。
逃走中の趙盾は国境を出ることなく、朝廷に帰って卿に復帰します。
史記・晋世家』は「趙盾はかねてから尊敬されており、の支持を得ていた。霊はまだ若く、しかも奢侈だったため、が帰心していなかった。だから容易に弑殺できた」と書いています。
 
太史・董孤が「趙盾がその君を弑殺した(趙盾其君)」と記録して朝廷で発表すると、趙盾は「これは間違いだ」と言いました。
すると董孤はこう言いました「あなたは正卿でありながら、逃走しても国境を越えず(亡命せず)、戻っても賊を討伐しません。あなたでなくて誰がやったというのですか。」
趙盾は嘆息して言いました「『詩経(邶風・雄雉)』に『自分の懐念のために(国を出ることができず)、憂いを作ってしまった(我之懐矣,自詒伊慼)』とあるが、これは私のことだ。」
 
後に孔子はこう言いました「董孤は古の良史(優れた史官)だ。事実を隠すことがない。趙宣子(趙盾)は古の良大夫だ。法によって悪名を受け入れた。しかし国境を出ていれば(晋国での地位を棄てて亡命していれば)悪名から逃れることもできただろう。惜しいことだ。」
 
趙盾は趙穿を周に送って公子・黒臀を迎え入れました。黒臀は襄公の弟、文公の少子で、母は周女です。
十月壬申(初三日)、黒臀が武宮(武公廟)を朝して即位しました。これを成公といいます。
 
驪姫の乱が起きた時、晋は諸公子を国内から駆逐することを神に誓いました。そのため、文公の子も襄公の子も国外にいました。
成公が即位すると官職と田地を卿の嫡長子に与えて「公族(公族大夫)」にしました。また、他の子にも官職を与えて「餘子(官名)」とし、庶子にも官職を与えて「公行(官名)」とします。こうして晋には公族・餘子・公行の三職ができました。


趙盾が異母弟・趙括を公族大夫にするように請い、成公にこう言いました「彼は君姫(趙衰の妻・趙姫。文公の娘)が愛した子です。もし君姫氏がいなかったら、臣は狄人のままでした(趙姫は叔隗が産んだ趙盾を趙衰の後継者に立てさせました。東周襄王十七年・前636年参照)。」
成公はこれに同意します。
冬、趙盾が「旄車の族」になりました。「旄車」は国君が乗る車です。「旄車の族」というのは、戦時になったら国君の車を指揮する任務を負う餘子の官になります。趙盾は趙衰の嫡子として公族大夫になるはずでしたが、趙括に譲ったため、自ら餘子になりました。

こうして趙括が公族大夫として趙氏を率いることになりました。

[] 冬十月乙亥(初六日)、東周匡王が死にました。弟の瑜が跡を継ぎます。これを定王といいます。

[] この年、長狄の瞞が斉を攻撃しましたが、斉の大夫・王子成父が長狄僑如の弟・栄如を捕えて殺し、その首を周首(斉邑)の北門に埋めました。
また、衛も末弟の簡如を捕えました(東周頃王三年・616年参照)



次回から東周定王の時代です。

春秋時代96 東周定王(一) 鼎の軽重を問う 前606年