春秋時代96 東周定王(一) 鼎の軽重を問う 前606年

今回から東周定王の時代です。
 
定王
匡王が在位六年で死に、弟の瑜が立ちました。これを定王といいます
 
定王元年
606年 乙卯
 
[] 春正月、魯で郊牛の口に傷があったため、他の牛を卜って選びました。
郊牛とは郊祭で犠牲に使う牛です。郊祭は郊外で収穫を祈るために天を祀る儀式です。犠牲に使われる牛は卜によって選ばれました。卜の前は「牛」といいますが、卜で選ばれたら「牲」とよびます。
新たに「牲」が選ばれましたが、その牛も死んでしまいました。
魯はこの年、郊祭をせず、三望の儀式だけを行いました。「三望」とは東海・泰山・淮水の祭りです。
本来、三望は郊祭の一環とされているため、郊祭をしないのに三望だけを行ったのは非礼とされました。

同じようなことが魯釐公三十一年(東周襄王二十四年・前629年)にもありました。

[] 前年死んだ東周の匡王が埋葬されました。
春の事ではありますが、具体的に何月かはわかりません。天子の埋葬は崩御七カ月後というきまりがありました。匡王が死んだのは前年十月なので、春三月に埋葬したとしても速すぎるようです。
 
[] 晋成公が鄭を攻めて(鄭北)に至りました
鄭が晋と講和し、晋の士会が盟を結びました。
 
[] 楚荘王が陸渾の戎を討伐しました。
陸渾の戎は允姓で、かつては秦と晋の間に住んでいました。その辺りの地名を「陸渾」といいます。東周襄王十五年638年)、秦と晋が陸渾の戎を伊川に遷しました。その後、伊川周辺の地も陸渾に改名されました。楚が討伐したのは伊川周辺に住む陸渾の戎です。
楚軍は雒(洛水)に至り、武威を示すために周の国境で閲兵しました。
 
楚の北上を恐れた東周定王は、大夫・王孫満を送って楚子(荘王)を慰労させました。この時、楚荘王が王孫満に九鼎の大小・軽重を問いました。九鼎とは九州(中国全土)を象徴して作られた九つの鼎で、それを擁する者が天子の資格を持つとされました。「鼎の軽重を問う」というのは九鼎の移動が可能かどうかを確認することであり、天子の地位が周から楚に移ることを暗示しています。
王孫満が楚荘王に言いました「大切なのは徳であり、鼎そのものの大小・軽重ではありません。昔、夏朝に徳があったので、遠方の物を図にして明らかにし、九牧(九州の長官)に金(銅)を献上させ、鼎を鋳て各地の物をその上に描いたのです。百物を鼎に図示し、民に神や姦(怪物)を教えたので、民が川沢や山林に入っても螭魅罔両(魑魅魍魎)のような悪い物に遭うことがなくなり、上下が協調して天の恵みを得ることができるようになりました。しかし桀が昏徳だったため、鼎は商に遷されました。その後、六百年が経ち、商紂も暴虐だったため、鼎は周に遷されたのです。徳が明るく美しければ、鼎がたとえ小さくても、重くて動かせません。逆に民の主が姦悪で昏乱なら、いくら鼎が大きくても軽くなるのです。天祚(天の福)とは明徳の者に与えられるものであり、それを変えることはできません。成王が鼎を郟(東周の都・洛邑に定めた時、世代を卜ったら三十世と出ました。また、年を卜ったら七百年と出ました。これは天が定めた命です。確かに周の徳は既に衰えましたが、天命はまだ改まっていません。鼎の軽重を問うべきではありません。」
楚荘王は兵を還しました。
 
以上は『春秋左氏伝(宣公三年)』の記述を元にしました。
史記・楚世家』は少し異なります。
楚軍が洛に至り、周の近郊で閲兵をしたため、周定王は王孫満を派遣して楚荘王を慰労させました。
荘王が九鼎の大小軽重を問うと、王孫満は「大切なのは徳であり、鼎ではありません」と答えます。
荘王が言いました「九鼎の威に頼る必要はない。楚国にある戟の先の部分を集めるだけで、九鼎を作るには充分だ。」
すると王孫満はこう言いました「君王よ、お忘れですか。昔、虞夏(帝舜の時代と夏王朝の隆盛によって、遠方が全て帰順し、九牧が金(銅)を献上しました。そこで鼎を鋳造し、各地の鬼神百物を図して、民に神姦(神と妖異)の違いを教えたのです。後に桀が徳を乱したため、鼎は殷に移り、六百年経ってから、殷紂が暴虐だったため、鼎は周に遷りました。徳が美しく明らかであれば、鼎は小さくても重くて運ぶことができません。逆に姦悪で昏乱していたら、鼎が大きくても軽くなります。成王が鼎を郟洛邑に遷した時、卜では三十世・七百年と出ました。これは天が定めた命です。周の徳は衰えたとはいえ、天命はまだ改まっていません。鼎の軽重は、問うべきではありません。」
楚荘王は兵を還しました
 
春秋時代の諸侯には、天下を統一して唯一の主になる、という意識はほとんどありませんでした。大国間の勢力はほぼ均衡しており、また統治能力にも、広大な天下を治めるには限界があったためです。天下統一の機運が生まれるのは戦国時代に入ってからです。
ただし、楚が周王室を直接脅かしたこと、しかも中原諸侯がこの事件に介入しなかったことは、周政府の弱体化を更に浮き彫りにしました。
 
[] 夏、楚が鄭を攻めました。鄭が晋と講和したためです。
 
[] 秋、赤狄が斉を侵しました。
 
[] 宋文公二年(東周匡王四年、前609年)、文公が同母弟・須と昭公の子を殺し、武氏と穆氏を放逐しました。
国外に逃げた武氏と穆氏は、曹に協力を求めて宋を攻撃しました(具体的な時間は不明です)
 
秋、宋が反撃して曹を包囲しました。
 
[] 冬十月丙戌(二十三日)、鄭穆公が在位二十二年で死にました。
 
以下、穆公の出生と即位に関する話です(一部は東周襄王四年・649年にも書きました)
穆公の父・文公には燕姞という賤妾がいました。ある日、燕姞は夢で天から蘭の花を与えられました。天はこう言いました「余は伯鯈南燕の祖。姞姓)だ。汝の祖である。蘭を汝の子にしよう。蘭は国香(国内で匹敵するものがない香)をもつ。人々は蘭を愛するように汝の子を愛すであろう。」
暫くして文公が後宮で燕姞を見つけます。文公は燕姞を気に入り、蘭を与えて御幸しました。
やがて、妊娠した燕姞が文公に言いました「妾(私)は不才ですが、幸い子ができました。もし誰かに疑われるようなことがあったら、いただいた蘭を証拠にさせてください(「賤妾の出身なので文公の子ではないと疑う者がいたら、御幸する前にいただいた蘭を証拠にしてください。そうすれば妊娠してから生まれるまでの月日が計算できるはずです。」または、「妾は天の声に応じて子ができました。御行の前に蘭をいただいたことがその証拠です」)。」
文公は同意し、産まれた子に蘭と名付けました。これが穆公です。
 
文公は鄭子(子儀。文公の叔父)の妃である陳嬀と姦通して子華と子臧を産みました。しかし子華は南里で殺され(東周襄王九年・644年)子臧は陳と宋の間で殺されました襄王十七年・636年)
文公は江国からも妃を娶って公子・士が産まれましたが、公子・士は楚に朝見した時、楚人に酖毒を飲まされ、葉(楚地)に至って死にました。楚は江を滅ぼしたため(東周襄王三十年、623年)、江女が産んだ公子を嫌ったようです。
文公は蘇国からも妃を娶り、子瑕と子兪彌が産まれました。しかし子兪彌は早逝します。子瑕は文公と大夫・洩駕に嫌われていたため楚に奔り(東周襄王二十四年、629年)、後に楚と共に鄭を攻めて殺されました(襄王二十六年、前627年)
 
諸公子との関係がうまくいかなかった文公は、残った公子も国から追放しました。公子・蘭は晋に奔ります。後に晋文公が鄭を討伐すると、公子・蘭も従いました。
鄭は晋に講和を求め、晋は公子・蘭を太子に立てることを要求します。鄭の大夫・石癸(字は甲父)が言いました「姫姓と姞姓は一緒になるべきであり、その子孫は必ず繁栄するという。姞は吉人の意味であり、その先祖は后稷の元妃(正妻)だ。公子・蘭の母は姞姓である。晋の要求は天が公子・蘭に道を開くために降したものではないか。彼を国君にしたら子孫が繁栄するだろう。先に彼を迎え入れれば寵を得ることもできる。また、主公の夫人が産んだ子は誰も残っていない(実際にはこの時、公子・瑕がまだ生きています)庶子の中で公子・蘭に勝る者もいない。今、我が国は危機に面しているが、晋は公子・蘭を帰国させようとしている。これ以上の講和の条件は無いだろう。
石癸は孔将鉏、侯宣多と共に公子・蘭を迎え入れて大宮(鄭の祖廟)で誓いを行い、鄭の太子に立てました。晋は鄭と講和しました(東周襄王二十二年・630年参照)
 
この年(前606年)、穆公が病に倒れてこう言いました「蘭が死んだらわしも死ぬ。わしは蘭によって生きているのだ。」
果たして、蘭が刈られると穆公は死んでしまいました
 
楊伯峻の『春秋左伝注』によると、蘭が刈られた原因について三つの説があるようです。一つは蘭の季節が過ぎ、花も実も成ったため、ある人が刈り取ったところ、穆公が死んでしまったという説です。もう一つは穆公自身が自分の生死と蘭(天命)には関係がないことを試すため、蘭を刈らせたら死んでしまったという説です。最後は誰かが誤って蘭を刈ってしまったため、穆公が死んでしまったという説です。

いずれにしても、蘭の故事は穆公の即位が天命によるものだったということを物語っています。

穆公の子・夷が跡を継ぎました。これを霊公といいます。
 
年内中に穆公が埋葬されました。当時の諸侯は死んで五カ月後に埋葬することになっていたため、礼から外れたことでした。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代97 東周定王(二) 食指が動く 楚の若敖氏 前605年