春秋時代 楚荘王と孫叔敖(一)

資治通鑑外紀』は東周定王三年604年)『新序』『説苑』等に書かれた楚荘王や孫叔敖に関する故事を複数記載しています。

春秋時代98 東周定王(三) 前604~602年

本編では書けなかったので、ここで二回に分けて紹介します。
 

まずは『新序・雑事第四』からです。
晋軍が楚を攻めて三舎(三日間の行軍距離。九十里)を進みました。晋軍の進撃は止まりません。
楚の諸大夫が迎撃を進言すると、楚荘王はこう言いました先君の時代は、晋が楚を攻撃することがなかった。しかし孤(国君の自称。私)の代になったら、晋が楚を攻めるようになった。これは寡人(私)の責任である。諸大夫を辱める(煩わせる)わけにはいかない。」
すると諸大夫はこう言いました「先君の時代は、晋が楚を攻撃することがありませんでしたが、臣等の代になってから、晋が楚を攻撃するようになりました。これは臣等の罪です。迎撃をお命じください。」
荘王は涙をぬぐって起きあがると、諸大夫に拝礼しました。
これを聞いた晋人は「君臣ともに過ちが自分にあると言って譲らず、国君が臣下に対してへりくだることができる。これは上下一心、三軍同力というものだ。攻撃するべきではない。」
晋軍は夜の間に兵を還しました。
 
 
次は『新序・雑事第一』からです。
楚荘王の夫人を樊姫といいました。
ある日、荘王が遅い時間になってやっと朝廷から帰りました。樊姫がその理由を聞くと、荘王はこう言いました「賢(相は令尹の意味)と話をしていたら、いつの間にか遅くなってしまった。」
樊姫が「賢相とは誰を指すのですか」と聞くと、荘王は虞丘子の名を挙げました。
樊姫が口を隠して笑い出したため、荘王が理由を問います。樊姫はこう言いました「妾(私)は幸いにも妻として王に仕えていますが、王の愛情を独占したくないのではなく、王の義節を損なうことを恐れるので、妾と同等の位の者(妃嬪)を数人、王に進めました(一人の女性に寵愛を独占させると、国が乱れる原因になると考えられていました)。しかし虞丘子は十数年も相を勤めながら、一人の賢人も推挙していません。賢人を知りながら進めないのは不忠です。賢人を知ることができないのなら不智です。これを賢相といえるでしょうか。」
翌日、荘王は朝廷で虞丘子に樊姫の言葉を伝えました。
虞丘子は稽首すると「樊姫の言の通りです」と言って辞職し、孫叔敖を推挙しました。
孫叔敖が相になってからは、国が富み、兵が強くなり、ついに荘王は霸を称えることができました。これは樊姫の功績です。
 
 
『説苑・至公(第十四)』には虞丘子の言葉が書かれています。上述の内容とは少し異なります。
令尹・虞丘子が荘王に言いました「公に奉じて法を行えば、栄誉を得ることができますが、能力が少なく行いが薄ければ(行いに徳がともなっていなければ)、上位を望むことはできず、仁と智で名を知られることがなければ、顕貴も栄華も望むことはできず、才能がなければ、その地位に留まってはならないといいます。臣は令尹を勤めて十年になりますが、国の政治が良くなることはなく、獄訟は止むことなく、能力のある士人を抜擢することもできず、淫禍(姦悪)を除くこともできませんでした。久しく高位にいながら、賢人が進む道を塞ぎ、いたずらに俸禄を受けとり、貪欲に限りがない臣の罪は、法官によって審理させるべきです。臣は秘かに国内の俊才を探しており、郷下に住む士・孫叔敖を見つけました。彼はやせ細って弱弱しい外貌をしていますが、その能力は豊富で、しかも欲を持ちません。国君が彼を登用して国政を任せれば、国はうまく治まり、士民が帰心することでしょう。」
荘王が言いました「汝が寡人を助けたおかげで、寡人は中国の長となり、辺境にまで政令を行き届かせ、ついに諸侯に霸を称えることができたのだ。汝がいなくなったらどうすればいいのだ。」
虞丘子が言いました「久しく禄位に留まることを貪といいます。賢能の者を進めないことを誣(主君を騙すこと)といいます。官位を他者に譲らないことを不廉といいます。この三者を避けることができなければ不忠です。人臣でありながら不忠だったら、君王は何をもって忠とするのでしょうか。臣は官位を退きます。」
荘王は同意し、虞丘子に采地三百戸を与えて「国老」と号させました。
孫叔敖が代わりに令尹になります。
 
暫くして、虞丘子の家人が法を犯したため、孫叔敖が逮捕して処刑しました。
虞丘子は喜んで入朝し、荘王に言いました「臣が言った通り、孫叔敖には国政を任せることができます。国を奉じて私党を作らず、刑戮を行って曲げることがないのですから、彼は公平な人物です。」
荘王は「彼は夫子(あなた。相手に尊敬をこめた呼称)がわしに与えたのだ」と言って虞丘子に感謝しました。
 
 
次は『説苑・敬慎(巻十)』からです。
叔敖が令尹になると、楚国の吏民が皆、祝賀に来ました。しかし一人の老人は、粗末な服と白冠を身につけて、遅れて弔いに来ました。孫叔敖が衣冠を正して老人に言いました「楚王は臣の不肖(能力がないこと)を知らず、臣に吏民の垢(令尹。謙遜した言い方)を委ねました。そのため人々は皆、祝賀に来ましたが、あなただけは遅れて弔問に来ました。何か教えをいただけるのでしょうか。」
老人が言いました「身分が貴くなり人に対して驕る者は、民が去っていきます。官位が高くなり権力を専断する者は、主君に憎まれます。俸禄が厚くなっても満足しない者は、近くに災難が潜んでいます。」
孫叔敖が再拝して言いました「謹んで命を受け入れます。これ以上の教えもお聞かせください。」
老人が言いました「地位が高くなってもますますへりくだること、官職が大きくなればなるほど細心になること、俸禄が厚くなっても慎重になり、利益を求めないこと、あなたはこの三者を守るべきです。それができれば、楚を治めるには充分です。」
孫叔敖は「素晴らしいお言葉です。謹んで記憶します」と言いました。
 
 
これとほぼ同じ話が『韓詩外伝(巻七)』にもあります。
叔敖が狐丘丈人(恐らく狐丘という地の老人)に会いました。
狐丘丈人が言いました「三利があれば必ず三患があると言います。あなたは御存知ですか?」
孫叔敖は恐れを抱いた顔をして言いました「小子(私)は聡明ではないので、知ることができません。三利・三患とは何でしょうか?」
狐丘丈人が言いました「爵位が高い者は人に嫉妬され、官職が大きい者は主に嫌われ、俸禄が厚い者は怨みを集めます。これを三利・三患といいます。」
叔敖が言いました「私は、爵位が高くなればなるほど、志をますます下に置き(下の者のことを考え)、官職が大きくなればなるほど、心をますます小さくし(慎重になり)、俸禄が厚くなればなるほど、広く施しを行おうとしています。これで患を逃れることができるでしょうか。」
狐丘丈人が言いました「素晴らしいことです。あなたの言ったことは、堯や舜のような聖人でも実行できないことを苦痛にしたものです。」
 
 
 
次回に続きます。