春秋時代101 東周定王(六) 夏姫 前600年

今回は東周定王七年です。
 
定王七年
600年 辛酉
 
[] 春正月、魯宣公が斉に行き、暫くして帰国しました。
 
[] 周定王が魯に聘問するよう要求しました。
夏、魯の仲孫蔑(孟献子。公孫敖の孫。文伯・穀の子)が京師に入って周定王を聘問しました。
定王は仲孫蔑に礼があったため、財物を下賜して厚くもてなしました。
 
[] 斉恵公が萊国を攻撃しました。
 
[] 秋、魯が根牟国を占領しました。
根牟国は楊伯峻の『春秋左伝注』によると魯東北に位置する小国で、恐らく魯の附庸国です。『資治通鑑外紀』は東夷の国としています。
 
[] 八月、滕昭公が死に、子の文公が立ちました。『資治通鑑外紀』は昭公の名を「毛」、文公の名を「繍」としています。
 
[] 九月、晋侯(成公)・宋公(文公)・衛侯(成公)・鄭伯(襄公)・曹伯(文公)が扈(鄭地)で会しました。晋を中心とする連合国に従わない勢力を討伐するためです。
 
陳侯(霊公)が楚を恐れて会に参加しなかったため、晋の荀林父が諸侯の軍を率いて陳を討伐しました。
 
辛酉(『春秋左伝注』によると、この年の九月は辛酉の日がないようです)、晋成公が扈で死にました。在位年数は七年です。
荀林父は兵を退きました。
 
晋では成公の子・(または「」「孺」)が即位しました。これを景公といいます。
晋景公時代の勢力図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
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[] 冬十月癸酉(十五日)、衛成公が在位三十五年で死に、子の(または「速」)が立ちました。穆公といいます
 
[] 宋が喪中の滕を包囲攻撃しました。
 
[] 楚が鄭を攻撃しました。『春秋左氏伝(宣公七年)』には「厲の役が原因」と書かれていますが、「厲の役」がいつの戦いを指すのかがわかりません。
 
晋の郤缺が軍を率いて鄭を援け(『史記・晋世家』では、晋の将帥は荀林父になっています)、鄭襄公は柳棼(鄭地)で楚軍を破りました。
鄭の国人は皆喜びましたが、子良(公子・去疾)だけは憂いて言いました「これは国の災だ。わしが死ぬ日は近いだろう。」
 
[] 陳霊公が孔寧、儀行父(どちらも卿)と共に夏姫と姦通しました。
夏姫は鄭穆公の娘で、陳の大夫・御叔に嫁ぎました。この頃、御叔は既に死んでいます。御叔との間に夏徴舒という子ができました。
「夏」氏の由来は御叔の采邑が夏という邑だったためという説と、徴舒の祖父の字が子夏だったためという説があります。
 
霊公と孔寧、儀行父の三人は夏姫の衵服(下着)を身につけて朝廷で戯れました。
大夫・洩冶(または「泄冶」)が霊公を諫めて言いました「公卿が淫を宣揚したら、民を導くことができません。国君の名声にも影響するので、衵服を片づけるべきです。」
霊公は「過ちを改めよう」と言いましたが、すぐ孔寧と儀行父に話しました。二人は洩冶の誅殺を請い、霊公は黙認します。
洩冶は殺されてしまいました。
 
諫言を聞かれなかった泄冶の言葉が『説苑・君道(巻一)』に書かれています。
陳霊公の淫行を知った泄冶は嘆いてこう言いました「陳は滅ぶだろう。私は何回も主君を諫めてきたが、主君は諫言を聞かないばかりか、ますます威儀を失っている。上に立つ者が下の者を教化するのは、風が草をなびかせるのと同じだ。東風が吹けば草は西に倒れ、西風が吹けば草は東に倒れる。風が吹く方向によって、草がなびく方向も決まるのだ。だから国君の行動は慎重でなければならない。曲がった木は真っ直ぐな影を得ることができない。人君がその行いを正さず、その言葉に慎重でなければ、帝王の号を保つことも、後世に美名を留めることもできない。だから『易』にはこう書かれている『君子(国君)は家の中にいても、その言が善なら、千里の外に影響を与えることができる。近くにいる者ならなおさら影響を受けやすい。逆に、君子が家の中にいても、その言が不善なら、千里の外の者からも憎まれる。近くにいる者ならなおさら君子を憎むはずだ。君子の言とは自分の身から出て民に拡げられる。近くでとった行動も、遠くで影響を見ることができる。言行とは君子の枢機(要)であり、枢機が発せられたら栄辱に関係する。このように、君子は居ながらにして天地を動かすことができるので、その言行は慎重にしなければならない。君子の言行によって天地が動いたら、万物が変化するのである。』また、『詩経・大雅・抑』にはこうある『言葉は慎重にしなければならない。恭敬かつ威儀があれば、誰もが帰心し称賛する(慎爾出話,敬爾威儀,無不柔嘉)。』これはまさに我が君に対して言っている言葉だ。今、我が君は行動を慎まず、逆に淫行放縦でいる。たとえ国が滅ばないとしても、我が君は弑殺されるだろう。」
これを聞いた霊公は妖言とみなして泄冶を殺しました。
 
 
 
次回に続きます。

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