春秋時代102 東周定王(七) 夏氏の乱 魯の卿大夫 前599年

今回は東周定王八年です。
 
定王八年
599年 壬戍
 
[] 春、魯宣公が斉に朝見し、暫くして帰国しました。
魯が斉に服したため、済水西の地(東周匡王五年・前608年参照)を返還しました。
 
[] 夏四月丙辰(朔日)、日食がありました。
 
[] 己巳(十四日)、斉恵公が在位十年で死に、子の無野が立ちました。頃公といいます。
 
恵公の時代は崔氏が恵公の寵愛を受けていました。崔氏は姜姓で、崔は采邑名です。
『春秋』経文では「崔氏」と書かれていますが、『春秋左氏伝(宣公十年)』や『史記・斉太公世家』では「崔杼」としています。しかし崔杼は五十一年後に斉荘公を殺害するので、恐らく同一人物ではありません。当時は崔杼ではなくその父・崔夭の代だと思われます。
 
崔氏は斉国において大きな影響力を持ったため、上卿の高氏(高固)や国氏(国佐)に疎まれました。
恵公が死ぬと、崔氏は二氏の圧力を受けて衛に出奔しました。
 
[] 魯宣公が斉に行き、恵公の葬儀に参加しました。
五月、魯宣公が帰国しました。
 
[] 癸巳(初八日)、陳霊公と孔寧、儀行父が夏氏(夏姫)の屋敷で宴を開きました。
霊公が儀行父に「徴舒は汝に似ている」と言うと、儀行父は「主君にも似ています」と応えました。徴舒は夏姫の子で、父は御叔といいます。
夏徴舒は霊公等の戯言を耳にし、強く憎みました。
霊公が夏氏の部屋を出ると、夏徴舒は馬厩から矢を射て霊公を殺します。孔寧と儀行父は楚に奔り、霊公の太子・午は晋に出奔しました。
夏徴舒が自ら陳侯に立ちました。
 
[] 滕は宋に従ってきましたが、この頃、晋に頼って宋に背くようになりました。
六月、宋が滕を攻撃しました。
 
[] 魯の公孫帰父(襄仲の子。字は子家)が斉に行きました。
斉恵公が埋葬されました。
 
[] 前年、鄭が楚を破りましたが、報復を恐れて講和しました。
そのため晋・宋・衛・曹が鄭を攻撃しました。
鄭が諸侯と講和したため、諸侯は兵を還しました。
 
[] 秋、周定王が卿士・王季子(劉康公。劉は食邑で康公は字。定王の子、または同母弟)を魯に送って聘問しました。王季子は魯の卿大夫に礼物を贈ります。魯の上卿である季孫行父季文子季友の孫、斉仲無佚の子)仲孫蔑孟献子仲慶父の曾孫、公孫敖の孫、孟文伯・穀の子)は倹朴でしたが、下卿の叔孫僑如叔孫宣子。叔牙の曾孫、荘叔得臣の子)と大夫の公孫帰父東門子家。荘公の孫、東門襄仲之子)は奢侈でした
 
王季子が帰国すると、定王は魯の卿大夫で誰が賢人かを聞きました。王季子はこう答えました「季・孟(季孫氏と仲孫氏)は魯で長く存続し、叔孫・東門は亡びるでしょう。たとえ家が亡ばないとしても、その身が禍から逃れることはできません。」
定王がその理由を聞くと、王季子はこう言いました「臣は臣らしく、君は君らしくなければならない(為臣必臣,為君必君)といいます。寬(寛大)・粛(厳粛)・宣(公正)・恵(仁愛)とは主君の姿です。敬(忠敬)・恪(謹格)・恭(恭順)・倹(倹朴)とは臣下の姿です。寬によって本(民衆)を保ち、粛によって時を過ごし(時期に応じてやるべきことを完遂させ)、宣によって教えを施し、恵によって民を和すことができます。寛によって本が保たれれば国が固まり、粛によって時機に応じた動きをすれば功を無駄にすることなく、宣によって教えを施せば遍く広まり、恵によって民が和せば豊かになります。本が固まり、功が成り、施しが行きわたり、民が豊かになれば、民を長く保つことができるので、不可能なことはありません。敬とは君命を受ける姿勢であり、恪とは業を守る姿勢であり、恭とは給事(政務を処理すること)の姿勢であり、倹は用(財)を不足させないための姿勢です。敬によって命を受け入れれば違えることなく、恪によって業を守れば怠ることなく、恭によって給事すれば死を遠ざけ(刑を受けることがなくなり)、倹によって用を満たすことができれば憂いを遠ざけることができます。命を受けて違わず、業を守っても怠らず、死から離れ、憂を遠ざけることができれば、上下の間に間隙がなくなり、どのような任務にも堪えることができるようになります。上にいる者が政務を貫徹し、下にいる者が与えられた任務に堪えることができれば、長世に渡って安泰を保つことができます。魯の二子は倹であり、用を満たすことができます。用が満たされれば一族が守られます(倹約によって自分の財を満足させることができれば、民から搾取することなく、宗族が国人の支持を得ることになります)。しかし二子は侈(奢侈)でした。侈は困窮した者を憐れむことができず、困窮した者が施しを得ることができなければ、必ず憂いが訪れます。しかも人臣でありながら上を顧みることなく、自身を富ませようとしたら、国家はその負担に堪えることができません。これは滅亡の道です。」
定王が「滅亡はいつだ?」と聞くと、王季子はこう言いました「東門(大夫)の位は叔孫(下卿)に劣りますが、叔孫よりも奢侈です。二君に仕えることはないでしょう。叔孫(下卿)の位は季・孟(上卿)に劣りますが、季・孟より奢侈です。三君に仕えることはないでしょう。それぞれが早死すれば家の滅亡は防げるかもしれませんが、そうでなければ害悪が増え、必ず家を滅ぼすことになります。」
 
東周定王十六年(前591年)、魯宣公が死ぬと、公孫帰父は国を逐われて斉に出奔しました(宣公一人にしか仕えることができませんでした)
東周簡王十一年(前575年)、叔孫僑如宣伯も斉に出奔しました。魯成公が死ぬ二年前に当たります(宣公と成公に仕えることはできましたが、次の襄公に仕えることはできませんでした)
 
[] 魯の公孫帰父が邾国を攻めて繹を取りました。
邾国は東周頃王五年(前614年)繹を国都にしました。しかし、今回魯が占領したのは、国都ではなく同名の邑のようです。
 
[十一] 魯で大水(洪水)がありました。
 
[十二] 魯の季孫行父(季文子)が斉を聘問しました。
 
[十三] 冬、魯の公孫帰父(子家)が斉に行きました。魯が小国の邾を侵したことに斉が介入するのを避けるためです。
斉は国佐を魯に送って聘問しました。
 
[十四] 魯を飢饉が襲いました。秋の大水が原因のようです。
 
[十五] 楚荘王が鄭を攻撃しました。鄭が晋と講和したためです。
晋の士会が鄭を援けて楚師を潁水北で撃退します。
諸侯の軍も鄭を守りました。
 
[十六] 鄭の子家が死にました。
鄭人が幽公の乱(幽公は鄭霊公。東周定王二年・前605年参照)を起こした子家の一族を攻撃します。子家の棺は破壊され、族人は駆逐されました。
幽公を改葬して諡号を「霊」に改めました。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代103 東周定王(八) 楚の陳討伐 前598年