春秋時代 楚荘王

資治通鑑外紀』が『国語』『韓非子』『淮南子』『説苑』から楚荘王や申叔時、太子等に関する故事を引用しています。

春秋時代103 東周定王(八) 楚の陳討伐 前598年

本編では書けなかったので、ここでまとめて紹介します。

 

まずは『国語・楚語上』からです。

荘王が大夫・士亹を太子・審(または「箴」。後の共王)の傅(教育官)に任命しようとしましたが、士亹は「臣は不才なので役に立ちません」と言って辞退しました。

荘王が「汝の善によって太子を善に導くことができるはずだ」と言っても、士亹はこう言いました「善になるかどうかは太子しだいです。太子が善を欲すれば、善人が集まります。善を欲しなければ、善人がいても用いることができません。堯の子に丹朱がおり、舜の子に商均がおり、啓夏王朝の王。禹の子)の子に五観がおり、湯商王朝初代王。成湯)の子に太甲がおり、文王の子に管・蔡がいました。この五王は皆、大きな徳を持っていましたが、姦子が産まれたのです。これは五王が子孫の善を欲しなかったからではなく、五子に能力がなかったからです。民の乱なら臣でも教導できます。蛮・夷・戎・狄は久しく服従せず、中国(中原諸国)が用いることができません(臣に彼等の教導を命じてください)。」

しかし荘王は士亹を太子の傅に任じました。

 

士亹は大夫・申叔時(申公)に意見を求めました。申叔時が言いました「春秋(歴史)を教えることで、善を勧めて悪を抑え、太子の心を戒勧することができます。先王の世系を教えることで、明徳の王が顕揚され、幽昏の王が廃されることを分からせ、太子の徳行を励まし、相応しくない言動を制限することができます。詩詩経を教えることで、先人西周成湯・文王・武王・周公・召公等)の徳を明らかにし、太子の志向を導くことができます。礼を教えることで、太子に上下の法則を理解させることができます。楽(音楽)を教えることで、穢れを除き、軽率から穏重に変えることができます。令(法令)を教えることで、百官の職責を把握させることができます。治国に関する善言を教えることで、徳を明らかにし、先王が明徳によって民に接したことを分からせることができます。故志(故事)を教えることで、成敗の道理を把握して自分の身を戒めさせることができます。先王の訓典を教えることで、宗族が寛容で和睦すれば発展できることを理解させ、道義に従わせることができます。

もしこのように教えても従わず、行動を改めないようなら、言葉によって事物を比喩しながら諫め導き、賢良の人材に補佐させるべきです。行動を改めてもそれが根付いていなければ、あなたが自ら身体を動かして導き、典刑(法規・刑法)を教えて身につけさせ、慎重かつ篤実な態度で接して、学んだことを根付かせるべきです。もしすでに学んだことが根付いているのに、精通していないようなら、自分が欲することを他者にも施す忠恕の心を教え、長く安泰でいられるためには信が必要であることを教え、人や物との関係を適切にすることで義を教え、等級を明らかにすることで礼を教え、恭倹(親に対する態度)を明らかにすることで孝に導き、恭敬と警戒によって事が成功する道理を教え、慈愛を明らかにすることで仁に導き、人や物を利することで文(文治・文徳)を教え、害を除くことで武(武治・武徳)を教え、意を尽くし民情に従った裁判をすることで刑罰の道理を教え、正徳(人に対して公正であること)を示して褒賞の原則を教え、精神を集中した厳格な態度を身につけることで、事に臨む時の姿勢を教えます。これでも成果が上がらないようなら、師傅となることはできません。

詩を読むことで教育を補佐し、威儀(礼義)によって教育を援け、礼貌によって相手に影響を与え、自ら行動することで教えを全面的に身につけさせ、節義を定めて行動を規制し、恭敬によって監督し、勤勉を励まし、孝順な心で受け入れさせ、忠信の心で啓発し、徳音(名声)によって善行を奨励します。このように教える側が全てを備えているのに、教わる側がそれに従わないようなら、教えを授けるべき相手ではありません。そのような人は成功できないものです。また、夫子(太子)が即位したら、あなたは引退するべきです。自ら退けば尊敬を得ることができますが、そうしなければ憂いを招くことになるでしょう。」

 
 
次は韓非子・外儲説右上』からです。

(楚)荘王は「茅門(宮門)の法」を作り、こう宣言しました「群臣・大夫・諸公子が入朝する時、馬蹄が霤(屋根の下の雨水が落ちる場所)を踏んだら、廷理(刑獄の官)は車轅(馬車の馬が牽く部分)を断ち、御者を処刑せよ。」

ある日、太子(恐らく審。後の共王)が入朝した時、馬蹄が霤を踏んだため、廷理が太子の車轅を伐り、御者を処刑しました。怒った太子は入宮すると、荘王に泣きついて言いました「私のために廷理を殺してください。」

しかし荘王はこう言いました「法とは宗廟を敬い、社稷を尊ぶためにある。法を定め、令に従い、社稷を尊敬することができるのは、社稷の臣である。なぜ彼を殺すことができるのだ。法を犯し、令を廃し、社稷を尊敬しない者は、臣下でありながら国君を凌駕し、下が上を侵すことになる。臣下が国君を凌駕したら、君主は威信を失い、下が上を侵したら、上の地位が危うくなる。威信を失い位を危うくしたら、社稷を守ることができない。そのようになったら、わしは何を子孫に残せるというのだ。」

反省した太子は走って帰り、自分の宮室を出て三日間野宿してから、北面再拝して死罪を請いました。

 

もう一つの説があります(同じく『韓非子・外儲説右上』からです)

楚王(恐らく荘王)が緊急で太子を招きました。楚国の法では、馬車は茆門(茅門)を通ってはならないことになっています。ちょうどこの時、雨が降っており、宮庭に水が溜まっていました。そこで太子は車に乗ったまま茆門に至ります。すると廷理が言いました「車が茆門に至るのは違法です。」

太子が言いました「王が緊急で呼んでいる。水たまりがなくなるのを待つことはできない。」

太子は前に進もうとしました。それを見た廷理は殳(槍のような武器)で太子の馬を刺し、馬車を破壊しました。

太子は宮中に入ると泣いて王に言いました「宮廷には水たまりが多かったので、車を駆けさせて茆門に至りました。しかし廷理に『違法だ』と言われ、臣の馬が殺され、車も破壊されました。彼を誅殺してください。」

王はこう応えました「前には老主(楚王)がいるのに、彼は規則を守り、後ろには儲主(後継ぎ。太子)がいるのに、迎合しなかった。崇高なことだ。本物の法を守る牙(能臣)である。」

楚王は廷理の爵位を二級進め、後門から太子を去らせて過ちを繰り返さないように諭しました。

 
 
次は淮南子・道応訓』からです。

楚の令尹・子佩が荘王に宴席を設けることを請い、荘王は同意しました。そこで子佩は強台という場所で酒宴の準備をします。しかし荘王は現れませんでした。

翌日、子佩が殿下に立ち、北面して荘王に言いました「君王は既に同意したのに、来られませんでした。臣に罪があるのでしょうか?」

荘王はこう答えました「わしは汝が強台で準備をしたと聞いた。強台は、南は料山を望み、方皇湖に隣接し、左は長江、右は淮水が流れている。このような素晴らしい場所で宴を開いたら、享楽のために死の悲哀を忘れてしまうだろう。わしのように徳が薄い者が、そのような快楽を享受してはならない。楽しみに溺れて帰ることを忘れてしまうのではないかと恐れたのだ。」



次は韓非子・喩老』からです。

楚荘王が越を討伐しようとしましたが、杜子が諫めて問いました「王が越を討とうというのは、なぜですか。」

荘王が答えました「越の政治が乱れ、兵が弱っているからだ。」

杜子が言いました「臣は智が目と同じであることを心配します。目は百歩外の物を見ることができますが、自分のまつ毛を見ることはできません。王の兵は秦・晋に敗れ、数百里の地を失いました。これは兵が弱いからです。今、荘蹻が国内で盗を行っていますが、官吏は禁じることができません。これは政治が乱れているからです。王の弱乱は、越の下ではありません。それでも越を討伐しようというのは、智が目と同じだからです。」

荘王は出兵をあきらめました。

 
 
次は『説苑・奉使(巻十二)からです。

楚荘王が晋を攻撃しようと思い、豚尹(恐らく大夫。あるいは官名)を送って晋を偵察させました。

豚尹が帰国して言いました「討伐するべきではありません。晋国は、上の者は国政を想い、下の者は生活を楽しんでいます。しかも、沈駒という賢臣がいます。」

翌年、荘王は再び豚尹を送って偵察しました。

豚尹が帰国して言いました「晋を討つべきです。賢人は既に死に、国君の周りにいる者の多くが阿諛追従しています。また、晋君は楽(音楽・歓楽)を好み、礼がありません。下の者は窮乏し、上の者を怨んでいます。上下が離心しているので、師を興して討伐すれば、民が必ず叛します。」

『説苑』は荘王が進言に従って出兵し、晋に勝利したと書いています。しかしこれがいつの戦いを指すのかは不明です。名君としての荘王を描くために作られた架空の話かもしれません。