春秋時代104 東周定王(九) 邲の戦い(前) 前597年(1)

今回から東周定王十年です。四回に分けます。
 
定王十年
597年 甲子
 
[] 春、陳の国内が安定したため、やっと霊公を埋葬しました。
 
[] 厲の役(一説では東周定王四年・前603年の楚が鄭を攻めて講和した戦いを指すといわれていますが、はっきりしません)で鄭襄公は逃げ帰りました。この時から楚は鄭に対して不信感を積もらせています。
前年、鄭は楚と辰陵で会盟しましたが、その後また晋に服しました。
 
本年、楚荘王が鄭を攻撃しました。城の包囲は十七日間に及びます。
鄭人が「行成(講和)」を卜うと、「不吉」と出ました。改めて「大宮(太廟)に臨んで大哭し、巷街に車を出す」と卜うと「吉」と出ます。「巷街に車を出す」というのは、「城中に戦車を連ね、陣を構えて徹底抗戦の姿勢を見せる」という説と、「鄭を棄てて他の地に遷る姿勢を見せる」という説があります。
そこで、鄭の国人(城内の民)は太廟で大哭し、陴(城壁の低くなった場所)を守る将兵も城壁の上で大哭しました。兵車や馬車が城内の街路に並べられます。
それを知った楚荘王は一時兵を退き、その間に鄭人は城を修築しました。
 
暫くして楚軍が再び鄭城を包囲しました。
三カ月後、鄭城が攻略されます。楚荘王は皇門(恐らく外城の門)から入って逵路(大通り)に至りました。鄭襄公は肉袒(上半身の服を脱ぐこと)し、羊を牽いて楚荘王を迎え入れます。
鄭襄公が言いました「孤(私)は天を奉じず、君王に仕えることができず、逆に君王を怒らせて敝邑に招いてしまいました。これは孤の罪なので、全ての命に従います。我々を捕虜として江南の海浜に放逐するとしても、その命に従います。敝邑を諸侯に分け与え、我々を臣妾(奴隷)に落としたとしても、その命に従います。しかし、もしも以前の友好を考慮し、孤が厲王・宣王・桓公・武公の福を受け桓公は鄭国の祖。武公はその子。西周厲王は桓公の父で、宣王によって桓公が鄭に封じられました)社稷を滅ぼすことなく、九県として(「九県」は「諸県」の意味です。楚に滅ぼされた小国は楚の県になります。『鄭世家』は「不毛の地を下賜して」と書いています。「不毛の地」は「肥沃ではない土地」の意味です)君王に仕えることができるとしたら、それは君王の恩恵によるものであり、孤の願いでもあります。しかし敢えてそれを望むことはできません。心中を正直に述べさせていただきましたが、君王のお考えに従います。」
楚荘王の近臣が言いました「鄭を赦してはなりません。国を得たのに捨てる必要はありません。」
荘王が言いました「鄭の君は人の下に立つことができる。必ず信によって民を用いることができるだろう。鄭はまだ滅びる時ではない。」

これは『春秋左氏伝(宣公十二年)』の記述です。『史記・鄭世家』はこう書いています。
の群臣が言いました「からここまで士大夫が久しく労をなしてきました。、国を得たのにそれを棄てるのはなぜですか?」
が言いました「伐(討伐)とは不服の者を討つものだ。既に服したのだから、これ以上望むことはない。」
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
楚王は自ら兵を率いて三十里撤退し、鄭の講和を受け入れました。楚の潘(字は師叔)が鄭に入って盟を結び、鄭の子良が人質として楚に送られます。
 
夏六月、晋が鄭を救うために動き始めました。中軍は荀林父(桓子)が将に、先縠(先軫の子。または先軫の子は先且居で、先且居の子が先縠。彘を采邑としたため彘子ともいいます)が佐に、上軍は士会が将に(かつては趙盾が中軍の将、郤缺が上軍の将でしたが、趙盾が死んでから郤缺が中軍の将になって国政を掌りました。その後、中軍の将は荀林父に継がれました)、郤克が佐に、下軍は趙朔が将に(以前の下軍の将は欒盾で、趙朔は下軍の佐でした)、欒書(欒盾の子)が佐になります。趙括と趙嬰斉(二人とも趙盾の異母弟)が中軍大夫に、鞏朔と韓穿が上軍大夫に、荀首(荀林父の弟)と趙同(趙括と趙嬰斉の同母兄)が下軍大夫に、韓厥(恐らく韓万の玄孫)が司馬に任命されました。
 
晋軍が黄河に至った時、鄭が既に楚と講和したと知り、荀林父は退却を考えてこう言いました「既に鄭の救援に間に合わないのに、出兵によって民を煩わしている。敢えて戦う必要はないだろう。楚が還ってから動いても遅くはない。」
士会(隨武子)が賛成して言いました「用師(用兵)とは、相手の状況を確認してから動くものといいます。徳・刑・政・事(事務・事業)・典典礼・規則)・礼を守っている相手は敵にしてはならず、戦ってもなりません。楚軍が鄭を討伐した時は、その二心に怒り、その卑(屈する姿)を憐れみました。叛したら討伐し、服したら赦すという姿には、徳も刑も備わっています。叛す者を討つのは刑です。服す者を懐柔するのは徳です。楚はこの二者を両立させています。以前、楚は陳を攻め、今回また鄭を攻めましたが、楚の民は疲労を感じず、楚君も怨みを集めていません。これは政に経(道理)があるからです。楚師は整然と陣を構え、商農工賈(商は行商の人。賈は店を持つ人)はその業を廃れさせず、卒乗(歩兵と車兵)は互いに和しています。これは諸事が互いに足を引っ張ることがないからです。蔿敖(叔孫敖)が宰(令尹)になってから、楚国の令典(法典)を整理したので、軍が動いたら、右軍は主将の轅(車の馬や人が牽く部分)に従って進み、左軍は草を集めて露営の用意を進め、前軍は茅旌(旗の一種)を持って不測の事態に備え、中軍は策謀を練り、後軍は精鋭が守るようになりました。百官は全て旗物に従って動き、軍政は命令を待たなくても整っています。これは楚が典を滞りなく使うことができるからです。楚君が抜擢する人材は、内姓(同姓)は親族を選び、外姓(異姓)は功績がある者を選び、徳がある者を漏らすことなく、労のある者に賞が行き届かないこともありません。老人には恩恵があり、旅客には施しがあります。君子も小人も尊卑によって服章(服飾)が決まり、貴人は尊ばれ、賤人の間にも等級があり、厳しく守られています。これは礼に逆らっていないからです。徳が立ち、刑が行われ、政が成り、事が時節に応じ、典に従い、礼が順である相手を敵にすることはできません。可能と判断したら前進し、難を知ったら退く、これは軍の善政です。弱小を兼併して愚昧を攻める、これは武の善経(道理)です。今は軍を整理して、武備を蓄えるべきです。弱小で愚昧な者は他にもいます。敢えて楚を相手にすることはありません。かつて仲虺(成湯の左相)がこう言いました『乱れた国を取り、亡ぶべき国を攻める(取乱侮亡)。』これは弱小を兼併することを意味します。『汋詩経・周頌・酌)』にはこうあります『王師は輝いている。彼等を率いて昏暗を取る(於鑠王師,遵養時晦)。』これは愚昧な国を討伐することを意味しています。『武詩経・周頌・武)』にはこうあります『商王朝を滅ぼした武王の功績に並ぶ者はいない(無競惟烈)。』弱小な諸侯を服従させ、愚昧な諸侯を討伐し、武王の業に努めることができればそれで充分です。」
しかし先縠が反対して言いました「晋が諸侯に霸を称えることができるのは、師(軍)に武があり、臣に力(能力)があるからです。諸侯を失ったら力があるとはいえません。敵がいるのに戦おうとしなければ、武があるとはいえません。我々のせいで霸権を失うくらいなら死ぬべきです。師を整えて出征しながら、敵が強大だと聞いて退くようでは、丈夫とはいえません。軍の帥に任命されながら、丈夫ではない選択をするのは、あなた達にはできても、私にはできません。」
先縠は中軍佐に属す兵を率いて黄河を渡りました。

以上は『春秋左氏伝(宣公十二年)』の記述です。『史記・晋世家』は先縠の言葉をこう書いています「を援けに来たのですから、至らないわけにはいきません。引き返したら離心を招きます。」
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
荀首(知荘子。知季。「知」は「智」と同じ。荀首は智を采邑にしました)が言いました「先縠の師は危険だ。『周易』には『師』が『臨』に変わるという卦があり、『出兵は律(法令)によって行われる。律が明らかでなければ否蔵となり、凶である』と解釈されている。秩序を守って事を行い、完成させることを『臧』という。それに逆らったら『否蔵』だ(「否蔵」とは規則に従わず勝手な行動をとって失敗することのようです。以下、易の解説が続きますが、難しいので省略します)。帥(元帥)がいるのに従わないことほど凶兆はない。我が軍が敵に遭遇したら敗れるだろう。彘子はその原因なので、たとえ生きて還れたとしても、大咎から逃れることはできないはずだ。」
 
韓厥(韓献子)が荀林父に言いました「彘子が偏師(一部の兵)を率いて難に陥ったとしたら、あなたの罪が大きくなります。あなたは元帥でありながら、師(軍)が命に従いません。これは誰の罪ですか。属国(鄭)を失ったうえに師を滅ぼしたら、重い罪になります。あなたは進軍を命じるべきです。全軍で戦ってもし敗れても、敗戦の責任は分担できます。一人で全ての罪を被るより、六人で罪を分けた方がまだましでしょう。」
荀林父は全軍に前進を命じました。
 
 
 
次回に続きます。