春秋時代105 東周定王(十) 邲の戦い(中) 前597年(2)

前回の続きです。
 
[(続き)] 楚荘王は北上してに駐軍しました
沈尹(沈県の尹。一説では「沈」は「寝」と同じで、後に寝丘に封じられた令尹・孫叔敖を指すといわれていますが、はっきりしません)が中軍を、子重(公子・嬰斉)が左軍を、子反(公子・側)が右軍を率い、黄河で馬に水を飲ませてから引き上げようとした時黄河で水を飲むというのは北上して中原に至ったことを天下に示します)、荘王が晋の出兵を知りました。
荘王は退却を考えましたが、嬖人(寵臣)・伍参が決戦を主張しました。
令尹・孫叔敖は交戦に反対してこう言いました「我が軍は昨年、陳を攻め、今年も鄭を攻めました。大事(戦争)が続いています。もし晋と戦って勝てなかった場合、伍参を殺してその肉を食べれば憂さ晴らしができるというのでしょうか。」
伍参が言いました「戦って勝てたら孫叔が無謀ということになります。勝てなかったら、私の肉は晋軍にあるので、どうして食べることができるでしょう。」
孫叔敖は車と旗を南に向けて撤退の準備をしました。
伍参が荘王に言いました「晋で政事を行っている者(荀林父)は新しいので、政令・軍令が行き届いていません。その佐を勤める先縠は剛愎で仁がないので、命に従わないはずです。晋の三帥は専権したくてもできず、命に従うにもまともな命を出す者がいません。上がこのようなのに、衆(兵)は誰に従うというのでしょうか。この戦いは、晋師が必ず敗れます。そもそも、国君(楚王)が臣(晋の卿大夫)から逃げるようでは、社稷の恥となります。」
荘王は孫叔敖に北進を命じ、管に駐軍しました。
 
晋軍は敖山と鄗山の間に陣を構えました。
鄭の卿・皇戌が晋の陣に入って言いました「鄭が楚に従ったのは社稷を存続させるためであり、二心を抱いたわけではありません。楚師は勝利を重ねて驕っているため備えがなく、しかも遠征が長引いているので疲弊しています。貴国が楚を撃てば、鄭師もそれに続きます。楚師は必ず敗れます。」
先縠が言いました「楚を破って鄭を服す好機です。同意すべきです。」
欒書(欒武子)が言いました「楚が庸に勝って以来(東周匡王二年・前611年参照)、その君は国政を怠ったことが一日もなく、民には生きることの難しさや、禍は予測ができないことを諭していつも警戒の心を持たせています。軍においても将兵の管理を怠ったことはなく、勝利を保つのは難しいこと、紂商王朝最後の王)は百勝したのに亡んだこと、若敖や蚡冒(どちらも楚の先祖)が篳路藍縷で(柴車に乗り粗末な服を着て)山林を伐り開いたことを繰り返し教えています。箴(訓戒)にはこうあります『民の生活は勤勉にかかっており、勤勉であれば窮乏しない(民生在勤,勤則不匱)。』これらのことから、楚が驕慢になっているとはいえません。先大夫・子犯はこう言いました『師が直であれば(道理があれば)壮であり、曲であれば(道理がなければ)老である。』今、我々には徳がなく、更に楚の怨みを招いています。我々が曲であり、楚に直があるので、楚師を老疲労している)とはいえません。楚君の戎(軍)は二広に分けられ、一広は一卒(三十乗)を擁し、一卒も左右両偏に分けられています。日が明けたら右広が先に車に乗って戦いに備え、日中(正午)になったら左広に換わります。夜になったら内官(王の近臣)が順番に警戒しています。このような楚師を備えがないとはいえません。子良は鄭の良臣であり、師叔は楚の崇(尊貴な人)です。師叔が楚に入って盟を結び、子良が人質として楚にいるので、楚と鄭は親しい関係にあります(二心がないというのは偽りです)。鄭が我が軍に戦いを勧めるのは、我が軍が勝ったら我が軍に附き、我が軍が負けたら去るためであり、我々を占卜として利用しようとしています。鄭の言葉に従ってはなりません。」
趙括と趙同が言いました「師を率いて来たのは敵を求めるためです。敵に勝って属国を得るのに、何を待つのですか。彘子に従うべきです。」
荀首が言いました「原(趙同)と屏(趙括)は自ら禍を求めています。」
趙朔(趙荘子が言いました「欒伯(欒書)の言こそ素晴らしいものです。その言に従えば、晋国は長く存続できるでしょう。」
 
楚の少宰(官名)が晋陣に来て言いました「寡君(楚荘王)は幼い時に凶事に遭い、文を成すことができません(当時の外交上の決まり文句です。飾ることができないので、直接意見を述べる、という意味です)。二人の先君(楚の成王と穆王)がこの道を通ったのは(鄭を攻めたのは)、鄭に教訓を与えてその国を安定させるためでした。晋の罪を得るつもりはありません。二三子(あなた達)が久しくここにいるのは不要です。」
士会が答えました「昔、平王は我が先君・文侯に『鄭と共に周室を援けよ。王命を廃してはならない』と命じました。今、鄭がそれに従わないから、寡君(晋景公)が群臣を送って鄭に罪を問うたのです。貴国の候人(官吏。ここでは少宰)を煩わせるつもりはありません。恭しく君命を拝すだけです(「楚君の命に逆らうつもりはありません」または「晋君の命を完遂するだけであり、楚と戦うつもりはありません」)。」
これを知った先縠は士会が楚にへりくだりすぎていると思い、趙括を送って楚の少宰にこう伝えました「行人(賓客に対応する官。ここでは楚の使者に答えた士会)の言には誤りがある。寡君は群臣を派遣し、大国(楚)を鄭から駆逐するように命じてこう言った『敵から逃げてはならない。』我々は君命から逃げることはできない。」
 
楚荘王は和平をあきらめず、改めて使者を送りました。晋の荀林父も講和に同意し、会盟の日が決められます。
ところが楚の許伯と楽伯、攝叔が晋に「致師(戦いを挑むこと)」しました。許伯が車を御し、楽伯が弓矢を持って左に、攝叔が戈と盾を持って右に乗ります。
許伯が言いました「致師というのは、御者は旗が傾くほど車を疾駆させ、敵営に近接して還るものだと聞いた。」
楽伯が言いました「致師というのは、車左は良矢で敵を射ち、御者が車を降りたら御者の代わりに轡を取り、馬を整えたら還るものだと聞いた(致師では車右が車から下りて敵陣に乗り込み、その間に御者が馬の向きを変えて帰還の準備をしました)。」
攝叔が言いました「致師というのは、車右が敵営に入って馘(殺した敵兵の左耳)を取り、捕虜を得て還るものだと聞いた。」
三人は晋陣に突進し、それぞれの役を果たして引き上げました。
晋軍が三人を追撃して左右から挟撃します。
楽伯が左右の兵や馬を射たため、晋軍の動きが止まりました。しかし楽伯の矢も一本しか残っていません。すると突然、麋鹿が現れました。楽伯が狙いを定めて射た矢は麋鹿の背に命中します。
晋の鮑癸が追いつくと、楽伯は攝叔に麋鹿を献上させました。攝叔が鮑癸に言いました「まだその時期ではありませんが(麋は夏に献上する動物とされました。この時、周暦では六月ですが、晋暦では四月の初夏なので、献上するべき時期ではありませんでした)、献上するべき禽獣が現れないので、これを従者の膳にしてください。」
鮑癸は兵を止めて言いました「車左は射術を善くし、車右は辞を善くする。彼等は君子(立派な人物)だ。」
三人とも無事に帰還しました。
 
かつて晋の魏錡(呂錡。厨武子。厨は采邑。魏犨の子、または孫)は公族大夫の地位を求めましたが、得ることができなかったため不満を持ち、晋師の失敗を望んでいました。上にいる者が失敗すれば昇格の機会が巡ってくるからです。
魏錡は主戦派として致師の任務を買って出ましたが、荀林父に拒否されました。しかし使者として楚陣に行くことは許可されました。そこで魏錡は交戦を要求するために楚陣に赴きました。
 
趙旃(趙穿の子)も卿の地位を望みましたが得ることができなかったため不満を持っていました。また、楚の致師(楽伯等)を逃したことにも怒って出陣を請いましたが、許可されませんでした。そこで会盟を請う使者として楚陣に行くことを願い出て許されました。
 
魏錡と趙旃が楚陣に向かった時、郤克(郤献子)が言いました「二人は不満を持っています。備えをしておかなければ必ず敗れます。」
先縠が言いました「鄭人が戦いを勧めても従おうとせず、楚人が講和を求めても関係を改善できない。出征しながら一定の策略がないのに、備えを増やしても役には立たない。」
士会が言いました「備えをしておいた方がいい良い。二子がもしも楚を怒らせたら、楚はそれを機に我が軍を襲うだろう。備えがなければすぐ滅ぼされてします。まずは備えをしておいて、楚に悪意がないと分かった時点でそれを解き、盟を結んでも損することはない。また、楚に悪意があっても備えがあれば敗れることはない。そもそも、普段、諸侯と会う時でも軍衛を除くことはない。これは警(警戒・警護)というものだ。」
士会は鞏朔と韓穿に命じて敖山の七カ所に伏兵を置かせました。また、趙嬰斉は部下を送って黄河に舟を準備させました。しかし先縠は動きませんでした。
 
 
 
次回に続きます。

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