春秋時代107 東周定王(十二) 楚の䔥討伐 前597年(4)

今回で東周定王十年が終わります。
 
[] 邲の戦いの前、鄭の石制(子服)が楚と内通して出兵を誘いました。鄭を分裂させて半分を楚に与え、半分は公子・魚臣(僕叔)を擁立して政権を握るためです。
辛未(恐らく七月二十九日)、鄭が公子・魚臣と石制を殺しました。
 
[] 鄭襄公と許昭公が楚に入朝しました。
 
史記・晋世家』には「に帰順したばかりだったため、楚を恐れた。そこでを援けて晋を攻めた」とあります。これは鄭が邲の戦いに参加して楚軍を援けたことを意味します。しかし鄭が完全に楚に帰順したのは、邲の戦いで晋が大敗してからのことだと思われます。
 
史記・秦本紀』には、邲で晋に大勝した楚荘王は覇を称え、諸侯と会盟したと書かれています。しかし具体的にいつ、どの国と会盟をしたのかは、『史記・楚世家』にも『春秋左氏伝』にも書かれていません。
当時、前年一度滅ぼされた陳は楚に服従しており、鄭と許も帰順しました。この年の末には衛も陳を援けて晋との盟約に背きます(但し、衛はすぐに晋と講和します)。宋も三年後に楚と講和します。
荘王が諸侯を集めて会盟を開いたかどうかははっきりしませんが、中原諸侯を服従させて事実上の覇権を確立したことは確かです。荘王は春秋五覇の一人に数えられています。
 
『説苑・君道(第一)』には邲の戦い後の楚荘王に関する記述があります。
楚荘王は鄭を帰順させ、晋軍にも大勝しました。この戦いでは、楚の将軍・子重が三回進言しましたが、三回とも満足できる内容ではありませんでした。
荘王は凱旋する時、申侯(恐らく申公。申叔時)の邑を通りました。申侯が食事を準備してもてなします。しかし日中になっても荘王は食事をとりませんでした。申侯は自分に落ち度があると思い、恐れて謝罪します。すると荘王はこう言いました「わしはこう聞いたことがある。『国君が賢人なら、能力がある者が国君を援けて王業を成すことができる(例えば周武王です)。国君が中君(普通)でも、能力がある者が国君を援けて覇業を成すことができる(例えば斉桓公・晋文公です)。しかし国君が下君(劣る)で、しかも群臣が国君に劣るようなら、その国は滅ぶ。』わしは下君である。そして群臣(子重等)にも不穀(国君の自称)に勝る者はいない。このままでは国が滅ぶのではないか。世には聖人が絶えることなく現れ、国には賢人が絶えることなく現れるものだ。しかしわしだけは聖人や賢人を得ることができない。わしのように生きている者が、なぜ食事などできようか。」
 
荘王は常に自分を戒めようと心がけていました。『説苑・君道』にもう一つの説話があります。
当時、楚では天変地異が起きず、平穏な日々が続いていました。そこで、荘王は山川に祈祷してこう言いました「天は私を忘れたのですか。」
当時の人々は、国君の過ちを戒めるために天変地異が起きると考えていました。それがないということは、通常の国君なら自分の政治が素晴らしいためだと考えるところですが、荘王は天が自分を忘れているために、戒めを与えようとしないのだと考えました。
『説苑』は「このように天に戒めを求めることができた荘王は、諫言に逆らうことなく、安泰の時でも危難を忘れることもなかった。だから覇業を成すことができた」と評価しています。
 
[] 秋、晋軍が帰還しました。
荀林父が死罪を請い、景公が同意しようとしましたが、士渥濁(士貞子)が諫めて言いました「城濮の役で晋師は三日間に渡って楚の食糧を費やしましたが、文公は憂色を解きませんでした。左右の者が『喜事が訪れた時に憂いていますが、憂事があったら逆に喜ぶのですか』と問うと、文公は『得臣(楚の令尹・子玉)がまだ生きているから憂いはなくならない。捕えられた獣でもあきらめずに戦おうとする。一国の相であればなおさらだ』と言いました。しかし楚が子玉を殺したため、文公は喜んで『わしを害する者がいなくなった』と言いました。これは晋の再勝(楚軍に勝ったのが一勝、令尹を殺したのが二勝です)であり、楚の再敗になります。得臣を殺した楚は二世(成王・穆王)に渡って我が国と戦うことができませんでした。今回、天は晋に大きな警告を与えたのかもしれません。しかし更に林父を殺したら、楚の勝利を重ね、我が国は久しく楚と戦う力を失うことになるでしょう。林父が主君に仕える時、進めば忠を尽くすことを考え、退けば過失を補うことを想っています。彼は社稷の衛(守り)です。殺してはなりません。彼の失敗は日食や月食と同じです。たとえ過失があっても、日や月の光明を損なうことはありません。」
景公は荀林父に元の官職を与えました。
 
[] 冬、楚荘王が䔥討伐に向かいました。宋の華椒が蔡軍を率いて䔥を援けます。
 
楚の申公・巫臣(申県の尹。字は子霊。屈が氏なので屈臣ともいいます)が荘王に言いました「多くの師人将兵が寒さに苦しんでいます。」
そこで荘王は三軍を巡視し、自ら将士に触れて慰労しました。三軍の士気が上がり、䔥に迫ります。
 
䔥人が楚の熊相宜僚(熊相が氏)と公子・丙を捕えました。楚荘王は「二人を殺すな。我々は兵を退く」と伝えましたが、䔥人は二人を殺してしまいます。
怒った荘王は䔥を包囲攻撃しました。
 
䔥の大夫・還無社が楚の司馬・卯(大夫)を通して知人の申叔展(楚の大夫)を呼び出しました。申叔展は還無社に会うとこう聞きました「麦麯(薬酒の一種)があるか?」
還無社が「無い」と答えたため、申叔展は「山鞠窮(薬草の一種)があるか?」と聞きなおしました。
還無社はやはり「無い」と答えます。
申叔展は「河魚腹疾(風湿。湿気による関節の病)になったらどうするつもりだ?」と聞きました。
この会話は隠語で成り立っています。䔥と楚は対峙していたため、二人は友人でありながら普通に会話ができませんでした。麦麯と山鞠窮はどちらも湿気による疾病を治す薬です。申叔展が二つの薬の有無を聞いたのは、翌日、楚の総攻撃が始まるから沼澤を通って逃げろ、という意味があります。しかし還無社はそれに気づかず、「無い」と答えました。そこで申叔展はもっとわかりやすくするために、病の名を出しました。
その意図に気付いた還無社が言いました「枯れた井戸を探してくれ。」
申叔展が言いました「茅草の縄を井戸の傍に置いておけ。井戸に向かって哭くのが合図だ。」
 
十二月戊寅(初八日)、䔥が滅ぼされました。
申叔視は茅の縄が置かれた井戸を見つけ、中に向かって号哭します。井戸の中に隠れていた還無社は無事助け出されました。
 
[] 晋の原縠、宋の華椒、衛の孔達と曹人が清丘(衛地)で盟を結びました。「困難がある国を援け、二心を持つ国を討伐する」と約束されます。
しかしこの約束はすぐ破られます。
 
当時、陳が楚に従っていたため、宋が盟約に従って陳を攻撃しました。
すると衛の孔達がこう言いました「先君の約言がある(衛成公と陳共公は友好関係にあり、東周襄王二十七年・前626年に晋が衛を攻めた時、陳は衛に協力を約束しました)。もし大国(晋)が攻めてきたら、私が死ねばいい。」
衛は陳を援けるために兵を出しました。

[] 『史記・韓世家』はこの年に晋で趙朔が殺され、程嬰、公孫杵臼がその子・趙武をかくまったとしています。『趙世家』に詳しく書かれています。
但し、『春秋左氏伝』にはこの出来事に関する記述がなく、戦国時代に造られた伝説ともいわれています(東周簡王三年・583年参照)。 
『春秋左氏伝』からは趙朔の没年はわかりません。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代108 東周定王(十三) 楚の宋討伐 前596~595年