春秋時代108 東周定王(十三) 楚の宋討伐 前596~595年

回は定王十一年と十二年です。
 
定王十一年
596年 乙丑
 
[] 莒が晋に頼って斉に逆らいました。斉が莒を攻撃しました。
 
[] 夏、楚荘王が宋を攻めました。楚が䔥を攻めた時、宋が䔥を援けたからです。
君子は「清丘の盟(前年)においては、宋だけが非難から逃れることができる」と言いました。清丘の盟に参加した晋、宋、衛のうち、宋は楚と対立し、楚の同盟国である陳も討伐しましたが、衛は逆に陳を援け、晋は楚に攻撃された宋を援けなかったためです。
 
[] 秋、魯で螽害がありました。
 
[] 晋の先縠は前年の邲の戦いで消極的な荀林父の指揮に不満を持ちました。先穀自身は主戦論者だったため、敗戦の責任も大きく、国人の風当たりが強くなっています。
そこで政変を画策し、赤狄と結びました。
赤狄は晋を攻めて清(清原)に至りました。
冬、晋景公が邲の敗戦と清の戦い(赤狄の侵攻)の罪を問い、先縠と族人を皆殺しにしました。
 
以上は『春秋左氏伝(宣公十三年)』の記述を元にしました。『史記・晋世家』は少し異なります。
主戦派の先穀は河上での大敗の罪を問われて誅殺されることを恐れたため、翟(狄)に奔り、翟と共に晋攻撃を謀りました。しかし晋が先にそれを知ったため、先穀は族滅されました。
 
[] 清丘の盟を破って衛が陳を援けたため、晋が使者を送って衛を譴責しました。晋の使者は衛に居座り、「罪が明らかにならなければ、師(軍)を動員することになる」と言いました。
衛の孔達が穆公に言いました「社稷の利になるのなら、私を使って釈明してください。罪は私にあります。私が執政をしているのですから、大国の譴責を他の者に押し付けることはできません。私が死にます。」
翌年に続きます。
 
 
 
定王十二年
595年 丙寅
 
[] 春、衛の大夫・孔達が首を吊って死にました。
衛穆公は孔達の死によって晋の歓心を買い、諸侯に伝えました「寡君(私)には不令(不善)の臣・孔達がおり、敝邑(衛)と大国(晋)の関係を悪化させた。よってその罪に服させたことを宣言する。」
しかし衛は孔達が成公を補佐して多くの功績を残してきたことを知っていたため、その子(得閭叔穀)に妻を娶らせて父の官位を継がせました。
 
[] 夏五月壬申(十一日)、曹文公が在位二十三年で死に、子の彊(または「廬」)が即位しました。これを宣公といいます。
 
[] 夏、晋景公が鄭に兵を向けました。邲の戦いで鄭が楚に附いたためです。
荀林父が言いました「整然とした我が師の武威を示せば、鄭は自ら帰順するでしょう。」
晋は鄭討伐を諸侯に宣言した後、蒐(閲兵)して兵を還しました。
 
荀林父の思惑は外れ、晋を恐れた鄭は子張(穆公の孫)を楚に送りました。人質として楚にいた子良は仁徳の人材だったため、子張と交代して鄭に呼び戻されます。
鄭襄公も自ら楚に入って晋の対応を相談しました。

以上は『春秋左氏伝(宣公十四年)』の記述です。『史記・晋世家』は「を援けたため、晋が鄭を攻めた。当時、が盛況だったため、晋軍は河上黄河沿岸)で退けられた」と書いています。
 
[] 楚荘王が申舟(文之無畏)に斉を聘問させ、「宋を通る時、宋に道を借りてはならない」と命じました。
また、公子・馮を晋に聘問させ、「鄭を通る時、鄭に道を借りてはならない」と命じました。
申舟は東周頃王二年(前617年)孟諸で宋昭公の僕を鞭打ったため、宋に憎まれています。申舟が荘王に言いました「鄭は昭(聡明)で宋は聾(愚か)です。晋に行く者(鄭を通る者)は害されませんが、私は必ず殺されるでしょう。」
荘王が言いました「汝が殺されたら、わしが宋を討伐してやろう。」
申舟は子の申犀を荘王に会わせて、自分が殺された後の宋討伐を約束させます。
 
斉に向かった申舟は宋で捕えられました。
宋の華元が言いました「楚の使者が我が国を通りながら道を借りないとは、我が国を自分の領土と見なしているからだ。それは我が国が亡んでいることを意味する。この使者を殺したら、楚は必ず我が国を討伐する。楚が討伐すれば我が国は亡ぶだろう。どちらにしても、滅亡は同じことだ。」
華元は申舟を殺しました。
 
それを聞いた楚荘王は袖を払って立ち上がって出陣します。従者が慌てて後を追い、窒皇(宮殿の前庭)で靴を履かせ、寝門(宮殿の門)の外で剣を渡しました。荘王が蒲胥(地名)の市まで来た時、やっと車が追いついて荘王を乗せました。
 
秋九月、楚荘王が宋を包囲しました。
 
『太平御覧・酒下(巻八百四十五)』に宋を攻撃する楚陣の様子が描かれています。
荘王が宋を包囲した時、荘王の厨房では肉が腐り、樽の酒も時間が経って飲めなくなっていました。将軍・子重が言いました「今、国君の厨房では肉が腐って食べることができず、樽の酒も既に飲むことができなくなっています。しかし三軍の士は、皆、飢色を浮かべています。これで勝つことができるでしょうか。」
荘王はすぐに「士に酒を与え、賢人に食事を与えよ」と命じました。
 
[] 曹が文公を埋葬しました。
 
[] 冬、魯の公孫帰父が斉襄公と穀で会見しました。そこで晏桓子とも会い、魯について語って楽しみました。
後に晏桓子が高固(高宣子)に言いました「子家(公孫帰父の字)は亡命することになるでしょう。彼は魯における寵を大切にしすぎています。寵にこだわれば貪欲になり、貪欲になったら人を陥れようとし、人を陥れようとしたら人も彼を陥れようとします。一国が彼を陥れようとした時、逃げないわけにはいきません。」
 
[] 魯の仲孫蔑(孟献子)が宣公に言いました「小国が大国の罪を免れるには、聘問と献物をするべきだといいます。よって、宮庭に旅百(百件の礼物)を並べ、朝見して功を立てる必要があります。容貌・采章(羽毛等の装飾品)や嘉淑(美しい礼物)、加貨(通常の貢物以外の礼物)は、大国の罪から逃れるためにあるのです。大国の譴責を受けてから財物を贈っても間に合いません。今、楚は宋を包囲しています。主君は状況を良く考えるべきです。」
宣公は納得しました。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代109 東周定王(十四) 楚と宋の講和 前594年