春秋時代109 東周定王(十四) 楚と宋の講和 前594年

今回は東周定王十三年です。
 
定王十三年
594年 丁卯
 
[] 春、魯の公孫帰父が宋で楚荘王に会見しました。
 
[] 前年九月から楚に包囲されている宋は、晋に楽嬰斉を派遣して急を告げました。
晋景公が援軍を送ろうとしましたが、伯宗が言いました「いけません。古人はこう言いました『たとえ鞭が長くても、馬の腹には届かない(「雖鞭之長,不及馬腹。」たとえ晋が強くても楚と戦う力はない、という意味です)。』天は楚に道を開きました。いくら晋が強大だといっても、天に逆らって争うことはできません。こういう諺もあります『高いも低いも心しだい(高下在心)。』川沢は汚水を受け入れ、山林は猛獣害虫を匿い、美玉も傷を隠すものです。国君も垢を含む(恥を忍ぶ)ことができてこそ、天の道に応じているといえます。主公は時を待つべきです。」
景公は出兵をあきらめました。但し、解揚(『史記・鄭世家』によると子虎を宋に派遣して「晋師は既に出発しており、もうすぐ到着する(楚に降伏してはならない)」と伝えさせました。
 
ところが解揚は鄭を通った時に鄭人に捕まり、楚に渡されます。
楚荘王は解揚に厚く賄賂を与え、宋人に逆の内容を伝えるように命じましたが、解揚は拒否しました。荘王はあきらめず、三回命じた結果、解揚はやっと同意しました。
解揚は楚の楼車に登り、城壁に接近すると、宋人に向かってこう叫びました「晋師は既に出発した!もうすぐ到着する!」
怒った荘王は解揚を殺すために人を送り、こう伝えました「汝は不穀(帝王の自称)に同意したのに、なぜ背いたのだ。わしに信がないのではない。汝が信を棄てたのだ。速やかに刑を受けよ。」
解揚が答えました「国君が命を制定することを義といい、臣が命を実行することを信といいます。信は義によって成り立ち、それを行うことで利をもたらします。利を失わない方法を考え、社稷を守るのが民の主です。義には二信がなく(義を行う者は二つの信を持たない。一つの義には一つの信しか存在しないので、二つの信を持ったら二心を抱いたことになります)、信には二命がありません(信を行う者は二つの命を受けません)。貴君は臣に賄賂を贈りました。これは命(信に二命がないこと)を知らないからです。君命を受けて国を出たからには、死んでも君命を廃さないものです。賄賂を受け入れていいはずがありません。臣が貴君に同意したのは、成命のため(晋景公の命を成すため)です。死んで成命できるのなら、それは臣の福というものです。寡君(晋景公)には信臣がおり、下臣は死に場所を得たのですから、これ以上望むものはありません。」
荘王は解揚を釈放して帰らせました。

以上は『春秋左氏伝(宣公十五年)』の記述です。『史記・鄭世家』にも書かれています。
に登った解揚は城に向かってこう叫びました晋は宋を援けるために国中のを動員した!危急に面しても、に降ってはならない!晋はすぐ到着する!
荘王は激怒して解揚を殺そうとしました。
解揚が言いましたを制定できることをといい、を受けられることをといいます。私は君命を受けて国を出ました。たとえ死んでも信を失うことはできません。」
が言いました汝はわしと約束したのに背いた。どこにがあるのだ。
解揚が言いました「王と約束したのは我がを成すためです。」
処刑に臨んで解揚が楚軍に言いました「人となった以上、を尽くしてを得ることを忘れるな!」
楚王の諸が諫めたため、荘王は解揚を釈放しました。
晋は帰国した解揚の位を上卿にしました
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
夏五月、九ヶ月間包囲を続けた楚師が宋から退却しようとしました。
すると、申犀が荘王の馬前で稽首して言いました「毋畏(申犀の父・申舟)は死ぬと知っても王命を廃しませんでした(前年参照)。しかし王は自分の言を棄てるのですか。」
荘王は答えられませんでした。
荘王の僕(御者)を勤めていた申叔時が言いました「家を建てて田を耕せば、宋は必ず命を聞きます。」
荘王はこれに従い、宋城の周りに家を建て、耕作を始めました。持久戦の構えです。
 
城内の宋人は既に疲弊しています。持久戦を恐れた宋人は夜の間に華元を派遣しました。華元は楚陣に侵入し、子反の床に登って寝ていた子反を起こします。
華元が言いました「寡君(宋文公)が私を送ってあなたに困難を伝えさせました。寡君はこう言っています『敝邑は食糧も薪も尽きた。しかし国と共に滅ぶことがあっても、城下の盟を受け入れることはできない(降伏して国を譲ることはできない)。三十里兵を退くようなら、楚君の命を聴こう(楚に服従しよう)。』」
華元の侵入に恐れを抱いた子反は、華元と盟を結んで荘王に報告しました。
荘王は軍を三十里撤退させます。
宋は約束を守って楚と講和し、華元が人質になりました。両国が盟を結んで言いました「我が国が汝を騙すことなく、汝が我が国を騙すこともない(我無爾詐,爾無我虞)。」
こうして宋も楚に服従しました。
華元は暫くして宋に帰国します(東周定王二十一年・前586年)
 
以上は『春秋左氏伝(宣公十五年)』の記述です。『史記・宋微子世家』には子元と荘王の会話が書かれています。
を包囲して五カ月が経ち、城中の食糧がなくなりました。そこで華元の間に将・子反に会い、城中の様子を語って撤兵を請いました
子反はそれを楚荘に報告します。
楚荘王が城中の様子を問うと、子反は城中が飢えに苦しんでいることを話しました
は華元の正直な情報に信義があると評価し、「我がの食糧も二日分しかないと言って兵を退きました
 
史記・楚世家』は楚荘王が華元を「君子だ」と評価しています。


[] 赤狄の潞子(潞国の主。隗姓)・嬰児の夫人は晋景公の姉でした。
潞では酆舒が専権し、夫人を殺して潞子の目に傷を負わせました。
怒った晋景公が赤狄を討伐しようとしましたが、諸大夫が反対して言いました「いけません。酆舒には三つの儁才(優れた才能。詳細は不明です)があります。後の人の代になるまで待つべきです。」
しかし伯宗が言いました「討伐するべきです。狄には五罪があるので、三つの儁才で補うことはできません。祭祀を行わないこと、これが一つ目です、酒を好むこと、これが二つ目です。仲章を用いず黎氏の地を奪ったこと(黎氏の地は商代に黎国があった場所です。仲章という賢人の諫言を聴かず、その地を奪ったようです)、これが三つ目です。我が国の伯姫を虐げたこと、これが四つ目です。その君の目を傷つけたこと、これが五つ目です。彼は自分の才に頼って徳を広げず、罪を増やしています。後代になったら、徳義を敬い奉じ、神や人に恭しく接し、天命を守って国を興隆させてしまうかもしれません。そうなったらいつまで待とうというのですか。今罪がある者を討伐せず、後の機会を待とうとしていますが、今後、相手が道理を持つようになったら、手が出せなくなります。才と衆に頼るのは亡国の道です。商紂はこうして滅びました。天が時節に反すこと(冬に暑くなったり夏に寒くなること)を災といい、地が物に反すこと(諸物が通常の性質を失うこと)を妖といい、民が徳に反すことを乱といいます。乱が起きたら妖と災が生まれます。だから『正』という文字は逆さにすると『乏(窮乏・滅亡)』になるのです(小篆では「正」を左右逆にすると「乏」に近くなります)。このように常道から反した事は、全て狄にそろっています。」
景公は同意し、兵を起こしました。
 
六月癸卯(十八日)、荀林父が赤狄を曲梁で破りました。
辛亥(二十六日)、潞が滅びました。晋軍は嬰児を連れて兵を還します。
この戦いで、長狄焚如(僑如の弟。東周頃王三年・616年参照)も晋に捕えられました。
 
暫くして酆舒が衛に逃げましたが、衛は晋に送り返し、酆舒は晋で殺されました。
 
[] 周で王孫蘇と召氏(召伯)、毛氏(毛伯。三人とも周王の卿士)が政権を争いました。
王孫楚は王子・捷(王札子)を使って召戴公(戴公は諡号と毛伯・衛(衛は名)を殺し、召襄公(襄公は諡号。戴公の子)に召公を継がせました。
 
[] 七月、秦桓公が晋を攻撃し、輔氏(晋地)に駐軍しました。
壬午(二十七日)、晋景公が稷(晋地)で治兵(演習)し、狄の領地を奪い、黎侯(上述。赤狄の潞に土地を奪われました)を立てて兵を還しました。
晋軍が雒(晋地)に至った時、魏顆(魏犨の子)が輔氏で秦軍を破り、力人(力士)・杜回を捕えました。
 
以前、魏犨(魏武子)には嬖妾(寵愛する妾)がいましたが、この妾には子ができませんでした。魏犨が病になると、子の魏顆に「わしが死んだら必ず改嫁させよ」と命じます。
しかし病が重くなると、「必ずわしと共に殉葬せよ」と命じました。
魏犨の死後、魏顆は妾を別の家に嫁がせてこう言いました「疾病は乱となる(精神が混乱する)。わしは治(精神が安定している状態)の命に従う。」
輔氏で秦軍と衝突した時、魏顆は一人の老人が草を結んでいるのを見ました。戦闘中、秦の杜回は結ばれた草に躓いたところを捕えられました。
その夜、魏顆は夢で老人に会いました。老人はこう言いました「余は、汝が改嫁させた婦人の父だ。汝が先人の治命(魏犨が正常だった時の命)に従ったから、余はそれに報いたのだ。」

尚、魏顆は魏犨の嫡子ではないようです。『史記・魏世家』によると、魏犨の死後は魏悼子が継ぎました。
魏悼子は拠点をに置きます。
魏悼子の後は魏絳が継ぎましたこれを荘子といいます。
また、『世家(秦嘉謨輯補本)』では魏犨を武仲(州と犨は近い音です)としており、武仲の子が荘子となっています。
 
[] 晋景公が荀林父に狄臣千室(狄の奴隷千人とその土地)を与え、士伯(士渥濁。三年前、荀林父を処刑することに反対しました)にも瓜衍(地名)の県を与えてこう言いました「わしが狄の土地を得ることができたのは、汝の功だ。汝がいなければ、わしは伯氏(荀林父。字が伯だったため、「伯氏」とよばれました)を失っていた。」
羊舌職がこの褒賞を高く評価して言いました「『周書尚書・康誥)』に『用いるべきを用い、敬うべきを敬う(庸庸祗祗)』とあるが、このことを指すのだろう。士伯は中行伯(荀林父)を用いるべきだと知り、国君はそれを信じた。だから士伯の言を用いたのだ。これは徳を明らかにするということだ。文王が周を興したのも、このおかげだ。『詩経(大雅・文王)』に『天下に利を施して周を建てる(陳錫哉周)』とある。文王は百姓に利を与えることができたのだ。この道(庸庸祗祗)に従うことができれば、大事を成功できる。」
 
晋景公は趙同を周に送って狄の俘(捕虜)を献上しました。しかし趙同の態度が不敬だったため、劉康公(王季子)が言いました「十年も経たずに原叔(趙同)は大咎を受けるだろう。天がその魄(魂)を奪ったようだ。」
 
[] 秋、魯で螽害がありました。
 
[] 魯の仲孫蔑が斉の高固と無婁(詳細位置不明)で会見しました。
 
[] 魯が始めて「税畝」の制度を始めました。
周代は井田制が行われていました。土地は私田と公田に分けられ、民農奴は私田で得る収穫で生活し、同時に無償で公田を耕してその収穫を国に納めました。しかし人口が増え、土地が開拓され、農具の発達などによって生産力が向上すると、私田が増えて井田制が崩壊していきました。そこで魯は井田制を廃止し、農地一畝(面積)ごとに税をかけることにしました。
これは納税制度の一大改革でしたが、当時は反発が大きく、戦国時代に書かれた『春秋左氏伝(宣公十五年)』も「畝に税をかけるのは非礼である。穀物の収穫は藉法(田を貸す制度。井田制)から出てはならない。畝に税をかけるのは、国が財を求めるための手段であり、礼から外れている」と評価しています。
 
東漢後漢時代に編纂された『漢書・食貨志(巻二十四上)』にもこう書かれています。
「周室が衰退したため、暴君や汚吏が国境を無視するようになり、徭役が重くなり、政令が信用を失った。上下は互いに騙し合い、公田を耕す者もいなくなった。そこで魯宣公が『税畝』の制度を始めたが、『春秋』はこの制度を非難している。この後、上の者はますます貪婪になり、民に怨まれ、災害が発生するとすぐに禍乱(民衆の反乱)が起きるようになってしまった。」
 
[] 冬、魯で蝝(蝗の幼虫)が発生しました。
秋の螽害と冬の蝝害のため、飢饉が魯を襲います。
『春秋左氏伝(宣公十五年)』は税畝の制度に対する天の警告と解釈しています。