春秋時代111 東周定王(十六) 郤克と䔥同叔子 前592年

今回は東周定王十五年です。
 
定王十五年
592年 己巳
 
[] 春正月庚子(二十四日)、許昭公(許男・錫我)が在位三十年で死にました。その子・寧が継ぎます。これを霊公といいます。
 

[] 二月丁未(初二日)、蔡文侯が在位二十年で死に、その子・固が立ちました。景侯といいます。

[] この春(『史記・斉太公世家』は斉頃公六年春としていますが、七年の誤りです)、晋景公が郤克を斉に送って斉頃公を会盟に招きました。
斉頃公は婦人(頃公の母・䔥同叔子。または䔥同姪子。䔥は国名。同叔は䔥の国君の字。子は娘の意味)を帳(これは『春秋左氏伝』の記述。『史記・晋世家』では「楼上」)に隠して、使者として入国した郤克の様子を窺わせました。郤克が堂に登ると、房(堂の左右の部屋。中央の部屋は正室といいます)にいた䔥同叔子が笑い声を挙げました。
怒った郤克は晋に帰る途中、恥辱に報いることを黄河に誓いました。
 
以上は『春秋左氏伝(宣公十七年)』の記述です。
『春秋穀梁伝(成公元年)』はこの時の事をもう少し詳しく書いています。
斉を訪ねたのは晋の郤克だけではなく、魯、衛、曹からも使者が来ました。それぞれの使者には特徴があります。魯の季孫行父は禿、晋の郤克は眇(片方の目が見えないこと。または片方の目が小さいこと)、衛の孫良夫は跛(びっこ)、曹の公子・手は僂(ひどい猫背)でした。四人が同時に斉を聘問すると、斉頃公は四人を案内する担当に、それぞれの特徴に合わせた者を選びました。禿の者が禿の季孫行父を案内し、眇の者が眇の郤克を案内し、跛の者が跛の孫良夫を案内し、僂の者が僂の公子・手を案内します。台上でその様子を見ていた䔥同姪子は、声をあげて笑いました。四人の客は怒って退出し、後日報復することを約束します。
この出来事を知った斉の有識者達は、「斉の患がここから始まった」と噂し合いました。
 
史記・晋世家』は晋・魯・衛の使者三人が斉を訪れたとしており(曹がいません)、体の特徴も異なります。晋の郤克は僂、魯の使者は蹇(跛。または「謇」と同じでどもり、衛の使者は眇です。斉はこの三人の特徴と同じ特徴を持つ者を導客に選びました。
怒った郤克は黄河まで来ると「斉に報いることがないなら、河伯が見よ河伯が咎をくだせ)!」と言いました。
 
『春秋公羊伝(成公二年)』には、晋の郤克と魯の藏孫許(藏宣叔)が同時に斉を訪問したと書かれています。一人は跛で一人は眇だったとあるので、郤克は跛、藏孫許は眇だったようです。
 
諸説ありますが、郤克が嘲笑されたことは確かなようです。
郤克は先に晋に帰り、部下の欒京廬を斉に留めてこう言いました「任務が成功しなかったら、復命する必要はない。」
斉頃公を会盟に呼び出すことができなかったら帰国してはならない、という意味です。
 
晋都に帰った郤克は斉討伐を請いましたが、晋景公は拒否しました。郤克は私属(自分の士兵)を率いて斉を討つことを請いましたが、景公はこれも許可しませんでした。

史記・晋世家』によると、景公は郤克に「子(汝)の怨みによって国を煩わせるわけにはいかない」と言いました。
 
[] 夏、許が昭公を埋葬しました。
 
[] 蔡が文公を埋葬しました。
 
[] 『春秋』にはこの年(魯宣公十七年)の六月癸卯に日食があったと書かれていますが、楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年六月には癸卯の日がないようです。十年前の魯宣公七年の誤りではないかといわれています。長い年月を経て、記録された竹簡や木簡の場所が入れ替わってしまったようです。
 
[] 斉頃公は上卿の高固(高宣子)を筆頭にして、晏弱(晏桓子)、蔡朝、南郭偃を晋との会盟に派遣しました。しかし一行が歛盂に至った時、高固は晋の怒りを恐れて逃げ帰りました。
 
六月己未(十五日)、晋侯(景公)・魯公(宣公)・衛侯(穆公)・曹伯(宣公)と邾子が断道(晋地)で会いました。楚に帰順した宋・鄭・陳等の討伐について相談します
その後、巻楚(断道と同じ場所。またはその付近)で諸侯は盟を結びました。
斉の晏弱等も到着しましたが、晋は会盟への参加を拒否し、逆に野王で晏弱を、原で蔡朝を、温で南郭偃を捕えました。
この時、ちょうど使者として野王を通った苗賁皇が晏弱に会いました。苗賁皇は苗棼皇とも書きます。楚の子越椒の子ですが、東周定王二年(前605年)に若敖氏が滅ぼされた時、晋に出奔して苗邑を与えられました。
晋都に帰った苗賁皇が景公に言いました晏子に何の罪があるのですか。かつて諸侯が我が先君に帰順した時は、遅れることを恐れるように集まりましたが、今の諸侯は晋の群臣に信義がないと言って二心を抱くようになりました。斉君は礼遇されないことを恐れて国を出ず(会に参加せず)、四子を派遣することにしました。しかし斉君の左右の者が『国君が行かなければ、使者が捕えられます』と進言したため、高子(高固)は斂盂で逃げ帰りました。残った三子はこう言いました『我々の安全ために国君間の友好を断つくらいなら、死んだ方がいい。』だから危険と知っても会盟に来たのです。我々は彼等を厚遇し、我が国に来た者に好意を持たせるべきです。それなのに逆に彼等を捕えてしまいました。これでは斉人の進言(使者が捕えられる)が正しくなってしまいます。これは我が国の過ちではありませんか。過ちを犯しながら改めず、久しくそのままにしておいたら後悔を招くだけで利はありません。逃げ帰った者に理由(使者は捕えられるということ)を与え、来た者を害して諸侯を恐れさせても、何の役にも立ちません。」
景公は納得し、わざと晏弱の監視を緩めさせました。晏弱は斉に帰ります。
蔡朝と南郭偃も翌年帰国します。
 
[] 秋、魯宣公が断道の会から帰国しました。
 
[] 八月、晋師(恐らく景公を守って断道に入った軍)が帰還しました。
 
士会(随会。范武子。始めは随に封じられ、後に范に封じられたため、随武子、范武子といいます)が告老(退職)を考え、子の士燮(文子)を招いて言いました「燮よ、喜怒が礼に則っている者は少なく、逆の者は多いという。『詩経(小雅・巧言)』に『君子が怒ったら、乱は速やかに収まる。君子が喜んでも、乱は速やかに収まる(君子如怒,乱庶遄沮。君子如祉,乱庶遄已)』とある。君子の喜怒とは禍乱を鎮めることができるのだ。しかし禍乱は、収めることができなければますます大きくなる。郤子(郤克)は斉によってもたらされた禍乱を収めようとしているのではないか。余は既に老いた。郤子の志を満足させてやろうと思う。そうすれば郤子によって禍乱も収められるかもしれない。汝は二三子(諸大夫)に従い、恭しく彼に仕えよ。」
士会は引退し、郤克が政治を行うことになりました。
 
以上は『春秋左氏伝(宣伝十八年)』を元にしました。『国語・晋語五』にも士会の言葉が書かれています。
士会は朝廷から帰ると子に言いました「燮よ、人を怒らせたら必ず報復を受けるという。郤子の怒りは激しいので、斉に対して怨みを晴らすことができなければ、晋において発散しようとするだろう。しかしもし権力をもたなかったら、怒りを発散することもできない。余は政権を還し、彼の怒りを晴らさせてやろうと思う。国内の矛盾が国外の矛盾にすり替えられてはならない(国外に対する怒りが国内への不満に変わってはならない)。汝は二三子(諸大夫)に従い、君命を奉じ、恭敬に勉めよ。」
こうして士会は引退しました
 
『国語・晋語五』は引退後の士会と士燮の話も紹介しています。
ある日、士燮が遅くなってやっと朝廷から帰りました。士会がその理由を聞くと、士燮はこう言いました「秦から客が来て(隠語・謎かけ)を出しました。諸大夫が答えることができなかったので、私が三つ答えました。」
すると士会が怒って言いました「大夫は答えられなかったのではない。父兄(年配者)に譲ったのだ。汝は童子でありながら、三回も先を争って答えたのか。わしが晋国にいなかったら、汝は生きていられないだろう。」
士会は杖で士燮を打ち、冠の上についた笄(簪)が折れるほどでした。
 
[] 冬,十一月壬午(十一日)、魯宣公の同母弟・叔肸が死にました。
 
 
 
次回に続きます。