春秋時代112 東周定王(十七) 魯の政変 前591~590年

今回は東周定王十六年と十七年です。
 
定王十六年
591年 庚午
 
[] 春、晋景公と衛の世子・臧が斉を攻撃して陽穀に至りました。
斉侯(頃公)は晋侯(景公)と繒(詳細位置不明)で盟を結びます。斉の公子・彊が人質として晋に送られました。
晋は兵を還しました。
 
両国が結盟したため、晋は前年捕えた蔡朝と南郭偃の監視を緩めました。二人は斉に帰りました。
 
[] 魯宣公が杞国を攻めました。
 
[] 夏、魯宣公が楚に使者を送って出兵を請いました。斉を討伐するためです。
 
[] 秋七月、邾がを攻め、子を殺しました。
 
[] 甲戌(初七日)、楚荘王が在位二十三年で死に、子の審が立ちました。共王といいます。
 
魯は楚と共に斉を攻めるつもりでしたが、荘王が死んで楚が出兵できなくなったため、晋に出兵を請いました。
 
[] 魯宣公は襄仲の助けによって即位できたため、その子・公孫帰父(字は子家)を寵用しました。公孫帰父は三桓(孟孫氏・叔孫氏・季孫氏)を除いて公室の権力を拡大しようと考えます。そこで宣公と相談し、晋に聘問して晋の力を借りて三桓を除くことにしました。
ところが計画は失敗します。
 
冬十月壬戌(二十六日)、宣公が路寝(正寝)で死んでしまいました。在位期間は十八年になります。
公孫帰父が晋に聘問している間に、季孫行父(季文子)が朝廷で言いました「嫡子(太子・悪)を殺して庶子(宣公)を立てさせ、大援(大国の援助)を失わせたのは(大国がどこの国を指すのかは不明です。楚や斉との関係が悪化していることを言っているのかもしれません)、仲(襄仲)だ。」
襄仲に罪があるから、その子・公孫帰父を排斥するべきだ、という意味です。
臧孫許(臧宣叔)が言いました「当時、その罪を正すことができなかったのに、後の人に何の罪があるというのだ。あなたが彼を除きたいというのなら、私も彼を除くことを願おう(言い訳をする必要はない、はっきり言えばいいという意味です)。」
こうして東門氏(襄仲の一族)は魯から駆逐されました。
 
公孫帰父が晋から魯に帰りましたが、笙(または「檉」。地名)に至ると壇を作り、帷で覆い、上介(部下)を宣公に見立てて復命の報告をしました。その後、宣公の葬儀を行うため、上衣を脱ぎ、麻の紐で髮を束ね、哀哭と三踊(三回足踏みすること。悲哀が達したら胸を叩き、足踏みするとされていたため、三踊は葬礼の一部になりました)をしてから帳を出ました。公孫帰父はそのまま斉に奔ります。
 
魯では宣公の子・黒肱(または「黒股」)が即位しました。これを成公といいます。
 
[] 『国語・魯語上』に魯宣公に関する記述があるので紹介します。
ある夏、宣公が泗水の淵に網を張って魚を獲ろうとしました。すると里革が網を切り捨てて言いました「古では、大寒が過ぎて土の中に隠れている虫が動き出す頃になったら、水虞(「漁師」ともよばれる川沢や湖を管理する官)が網や(竹籠)を使って大魚や川禽(大亀や蛤等、川の動物)を獲る方法を教え、獲物を寝廟(宗廟)に納め、国人に漁をさせることで陽気の発散を助けさせました(冬は陰の季節で、陽気が増えたら春夏になります。大寒が過ぎた頃、溶けはじめた冰の下から魚を獲ることが、地下に隠れた陽気を地上に発散することにつながると考えられました)。鳥獣が孕み、水蟲(魚等の水中の生物)が成長する頃(春)は、獣虞(鳥獣の禁令を掌る官)が網で鳥獣を捕まえることを禁止し、矛で魚や鱉(すっぽん)を刺して獲ることだけが許されました。魚や鼈は夏用の干物になるからです(夏には獲れなくなるようです)。この禁制は鳥獣の繁殖を助けることが目的です。鳥獣が成長し、水蟲が孕む頃(夏)になったら、水虞が網で魚を獲ることを禁止し、罠を造って鳥獣を捕まえることだけが許されました。鳥獣は廟庖(宗廟の厨房)に納められ、産まれたばかりの魚は成長を待つことになります。この他にも、山では幼樹を伐ってはならず、沢では生えたばかりの草を刈ってはならず、漁では稚魚を獲ってはならず、狩りでは麑(小鹿)や小さい動物を獲ってはならず、鳥を獲る時も雛や卵を守らなければならず、蚳(蟻の卵)や蝝(蝗の幼虫)を捕まえてはならないというきまりがありました。これらは万物を繁殖させるための、古人の教訓です。今、魚がちょうど産卵する時なのに、魚の成長を待たずに網を張るとは、貪婪の極みというものです。」
宣公が言いました「わしの過ちを里革が正してくれたのだから、素晴らしいことではないか。これは良罟(網)である。わしに治国の法を授けてくれた。わしが忘れることがないように、有司(官員)によって保管させよ。」
この時、宣公の傍にいた師存(楽師。存が名)が言いました「罟を保管するくらいなら、里革を傍においた方が、治国の法を忘れずにすむでしょう。」
 
 
 
定王十七年
590年 辛未
 
[] 春正月、魯成公が即位しました。
 
[] 二月辛酉(二十七日)、魯が宣公を埋葬しました。
 
[] 魯で氷がはりませんでした。周暦の二月は夏暦の十二月に当たり、「季冬」といいます。また、この年は二月朔が冬至だったようです。本来、二月には氷を取って貯蔵する儀式が行われるはずでしたが、暖冬のため、氷を取ることができなかったようです。
 
[] 三月、魯が関係の悪化した斉に備えるため、「丘甲」の制度を作りました。
「丘」というのは行政の単位で、九夫を「井」、四井を「邑」、四邑を「丘」といいます。「丘甲」は丘を単位にした軍制で、一丘ごとに甲(甲冑)を提出させる、または一丘ごとに一定の軍賦(兵役と軍用品の提供)を課すといわれていますが、詳細はわかりません。
 
[] 晋景公が瑕嘉(詹嘉)を周に送って戎人との衝突を調停させました。
東周匡王三年610年)周の甘戎族を邥垂で破ったことがありました。周と戎は長い間、対立していたようです。あるいは、晋が周と戎の調停を行ったのは、この年(前590年)ではなく、もっと前の事かもしれません。
周は卿士・単襄公(単朝)を晋に送って調停の成功を謝しました。
 
周の劉康公(王季子。周定王の弟か子)が講和によって油断した戎を討伐しようとしましたが、叔服が言いました「盟約に背き、大国(晋)を騙したら、必ず失敗します。盟約に背くのは不祥です。大国を騙すのは不義です。神も人も援けないでしょう。どうして勝つことができますか。」
しかし劉康公は兵を出し、茅戎を攻撃しました。
 
癸未(十九日)、劉康公が徐吾氏(茅戎の集落の名。交戦の場所)で敗れました。
この戦いは、周軍が戦った相手がはっきりしません。『春秋公羊伝(成公元年)』は、晋が劉康公を破ったと書いています。盟約を破った周に対して晋が怒り、戎を援けて出兵したのかもしれません。
 
[] 斉が楚と共に魯を攻撃するという情報が魯に入りました。
夏、魯の臧孫許(臧宣叔)が赤棘(晋地)に入り、晋景公と会盟しました。
 
[] 秋、王師(劉康公)が茅戎に敗れたという報告が魯に届きました。
 
[] 冬、魯の臧孫許が軍賦の令(恐らく「丘甲」の政令を発布し、城壁を修築して防備を固めました。
臧孫許が言いました「斉と楚が友好を結び、我々は最近、晋と盟を結んだ。晋と楚は盟主の地位を争っており、斉は近々必ず我が国に攻めて来る。もしも晋が斉を攻めたら、楚は必ず斉を援ける(晋の同盟国である魯も斉を援けるために出兵した楚に襲われる)。斉と楚はどちらも我が国の敵だ。禍難を予期して備えを作れば、禍難から逃れることもできるだろう。」
 
 
 
次回に続きます。