春秋時代113 東周定王(十八) 鞌の戦い(前) 前589年(1)

今回から東周定王十八年です。四回に分けます。
 
定王十八年
589年 壬申
 
[] 春、斉頃公が魯の北境を攻撃し、龍(または「隆」)を包囲しました。
斉頃公の嬖人(寵臣)・盧蒲就魁(盧蒲が氏)が城門を攻撃しましたが、龍人に捕えられました。頃公は「殺すな。汝等と盟を結び、汝等の境内に入らないことを誓う」と伝えましたが、龍の人々は盧蒲就魁を殺してその死体を城壁に晒しました。
怒った斉頃公は自ら戦鼓を叩き、士卒が城壁を登りました。三日後、龍城が攻略されます。
斉軍は南に進軍して巣丘に至りました。
 
以上は『春秋左氏伝(成公二年)』の記述です。『史記・魯周公世家』でもこの年に斉が隆を取ったとしていますが、『史記・十二諸侯年表』では、前年のことになっています。
 
[] 衛穆公が孫良夫(孫桓子)、石稷(石成子)、甯相、向禽将に兵を率いて斉を攻撃させました。魯を援けるためのようです。
衛軍が斉軍に遭遇すると、石稷は兵を退こうとしましたが、孫良夫が言いました「師を率いて人を討とうというのに、敵の師に遭遇したら還るという判断を、主君にどう説明するのだ。戦いが不利だと知っていたのなら、元々出兵するべきではなかった。すでに敵に遭遇したのだから戦うべきだ。」
 
『春秋左氏伝(成公二年)』はこの後、「夏有」という二文字だけが書かれており、次の出来事に飛んでいます。「夏有」の二文字以降の文章が失われてしまったようです。
『春秋』経文には衛が斉と戦って敗れたことが書かれています。
 
夏四月丙戌(二十九日)、衛の孫良夫が師を率いて斉師と新築(恐らく衛地。もしくは衛と斉の国境の地)で戦い、衛師が敗れました(以上、『春秋』経文)
 
以下、『春秋左氏伝』の記述に戻ります。
石稷が言いました「我が師が敗れました。子(あなた。孫良夫)はここで待機するべきです。(あわてて撤退したら)全滅するでしょう。師を全滅させたら、どう復命するつもりですか。」
しかし孫良夫も諸将も早く撤退したいため黙っています。
石稷が改めて言いました「子は国卿です。国卿を失うのは国辱です。子は衆を率いて退却してください。私がここに留まります。」
石稷は斉軍の追撃に対抗し、多数の援軍が接近しているという情報を流しました。斉軍は進軍を停止し、鞫居に駐軍しました。
 
新築大夫・仲叔于奚が孫良夫を援けました。『春秋左氏伝』には記述がありませんが、『新書・審微(巻二)』によると、仲叔于奚が兵を率いて斉軍に反撃し、斉軍は大敗したようです。
仲叔于奚のおかげで孫良夫は斉軍の攻撃から逃れることができました。
 
衛穆公は仲叔于奚に邑を与えようとしましたが、仲叔于奚は辞退し、曲県(三面に架けられた鐘・磬等の楽器)を使うことと、入朝する時に繁纓(馬の装飾の一種)を使うことを請いました。どちらも諸侯に許されていることです。穆公はこれを許可しました。
仲叔于奚は大夫の身分でありながら諸侯の礼を用いることが許可されたため、後に孔子は「名(爵号。地位)も器(身分に応じた器物)も相応しくない人に与えるべきではない。これらを与えるのは政権を人に与えるのと同じだ。政権を失ったら国も失うことになる」と言って非難しました。
 
孫良夫は新築まで戻りましたが、国都には入らず、晋に援軍を求めました。魯の臧孫許も晋に出兵を請います。二人とも斉に怨みをもっている郤克を訪ねました。
郤克が景公に出兵を請うと、景公は七百乗を出すことを許しました。郤克が言いました「それは城濮の役の数です。城濮では先君の明察と先大夫の能力によって勝つことができましたが、臣は先大夫と較べると、その役(僕。御者)の能力にも達しません。八百乗の出征をお許しください。」
景公は同意しました。
こうして中軍の将・郤克、上軍の佐・士燮、下軍の将・欒書(下軍の将は趙朔でしたが、この時は死んでいたようです)および司馬(軍法を掌る官)・韓厥が魯・衛救援の軍を率いて出征しました(中軍の佐、上軍の将、下軍の佐は参軍していません。『史記・斉太公世家』は士燮を上軍の将としていますが、誤りです)
 
臧孫許が晋軍を迎え入れて先導し、季孫行父(季文子)も魯軍を率いて合流しました。晋・魯連合軍は衛地に入ります。
魯軍は季孫行父、臧孫許の他に叔孫僑如、公孫嬰斉(公孫叔肸の子。仲嬰斉。声伯)も師を率いています。衛師を率いているのは孫良夫です。曹の公子・首(または「手」)も参加しました。
 
晋陣である人が軍法に背いたため、韓厥が斬ろうとしました。郤克が助けるために駆けつけましたが、既に処刑されています。
郤克はすぐに死体を軍中に晒すように指示しました。郤克の僕(御者)が言いました「彼を助けたかったのではないのですか?」
郤克はこう答えました「わしがこう命じることで、司馬に対する誹謗を分散させることができるだろう。」
 
[] この時、斉は衛から兵を退きあげていました。晋・魯・衛連合軍は斉軍を追って莘に駐軍します。
六月壬申(十六日)、連合軍が靡笄山の麓に至りました。
斉頃公が決戦を挑んで晋陣にこう伝えました「子(郤克)が君師(国君の軍)を率いて敝邑(斉国)に訪れた。敝賦(自国の兵)は強くないが、詰朝(明朝)、相見しよう。」
郤克が応えて言いました「晋と魯・衛は兄弟である。その兄弟が『大国が朝夕とも敝邑の地で釈憾(憂さ晴らし)している』と訴えてきた。寡君は忍ぶことができず、群臣を派遣して大国に撤兵を請わせた。しかし寡君は同時に『大国の地に長く滞在してはならない(速決しなければならない)』とも命じた。進むことはできても退くことはできない。貴君の命を辱めることはない(明朝決戦するという要求を受け入れよう)。」
斉頃公が言いました「大夫の同意は寡人の願いである。しかしたとえ同意がなかったとしても、互いに会う必要がある。」
 
斉の高固が晋陣に接近し、石を持ち上げると晋軍に投げました。石が中って倒れた晋人が捕虜になります。
帰還した高固は自分の車に桑の根をつけて斉の陣営を走りまわり、「勇気が欲しい者はわしの余った勇気を買え(欲勇者賈余餘勇)!」と言いました。桑の根をつけたのは、他の車と違いを作って敢えて自分がいる場所が分かるようにするためです。
ここから「餘勇可賈(余った勇気を買うことができる)」という成語ができました。勇気が有り余っていることを表現します。
 
癸酉(十七日)、両軍が(鞍。歴下)に陣を構えました。
斉軍は邴夏が頃公を御し、逢丑父が車右になります。
晋軍は解張(解張侯。解は姓、張は字、侯が名)が郤克を御し、鄭丘緩(鄭丘が氏)が車右になります。
斉頃公が言いました「彼等を翦滅してから朝食にしよう。」
頃公は馬に甲(甲冑)をつけず、晋軍に突撃しました。
 
斉の攻撃を受けた郤克は矢傷を負い、血が履物まで流れましたが、戦鼓を叩き続けました。郤克が言いました「わしは負傷した!」
郤克は陣に退き返したいと思っています。
しかし御者の解張が言いました「戦いが始まってから、敵の矢が私の手と肘を貫いています。しかし私は矢を折り棄てて御を続けており、左輪は朱殷(赤黒色)に染まっています。それでも負傷したことを言うつもりはありません。吾子(あなた)も堪えてください!」
鄭丘緩が言いました「戦いが始まってから、険しい場所を通る度に、私は車を降りて推してきました。あなたはそれにも気がつかなかったのですか。それほど怪我がひどいのですか。」
解張が言いました「三軍の心はこの車にあります!師(軍)の耳目は我々の旗鼓にあり、進むも退くもこれに従っているのです。車には退表(退くための旗)がなく、戦鼓には退声(退くための音)がありません。この車を一人が守れば、必ず勝てます。負傷したからと言って国君の大事を損なうことができますか。そもそも、廟で命(出征の訓戒)を受け、社(土地神の社)(祭肉)を受け(出征の儀式を行い)甲冑を着て武器を執った時、決死の覚悟を抱いたはずです。戦場で命をかけるのが戎の政(軍人の常道)というものです。死ぬほどの怪我でもないのに堪えられないようでは、軍が瓦解します!」
解張は左手で手綱を握ると、右手で枹(ばち)をもって郤克の代わりに戦鼓を叩きました。
郤克が乗った戦車は退き返すことなく、全軍がそれに続いて斉軍を襲います。
斉軍は逃走を始め、晋軍はそれを追撃して華不注山を三周しました。



次回に続きます。

春秋時代114 東周定王(十九) 鞌の戦い(後) 前589年(2)