春秋時代114 東周定王(十九) 鞌の戦い(後) 前589年(2)

今回は東周定王十八年、の戦いの続きです。
 
[] 戦いの前日、晋の司馬・韓厥が夢で子輿(韓厥の父)にこう言われました「明朝は車の左右を避けよ。」
通常では、元帥となる者が戦鼓がある車の中央に立って指揮をとり、元帥ではない場合は、御者が中央に立ち、本人は車左として弓を持ち、右には矛を持った車右が立ちます。韓厥は司馬なので車左になるはずでしたが、父の言葉を守り、御者として車の中央に立ちました。
韓厥が斉軍を追撃すると、斉頃公の御者・邴夏が言いました「あの御者を射ましょう。かれは君子です。」
しかし頃公は「君子と知って射るのは非礼だ」と言うと、韓厥の車左と車右を射ました。車左は車から転落し、車右は車中で死にます。
 
晋の大夫・綦毋張(綦毋が氏)が車を失ったため、韓厥を追いかけて言いました「車に乗せてくれ!」
綦毋張が車に乗って左右のどちらかに立とうとすると、韓厥は肘で押して自分の後ろに立たせました。その後、韓厥は体をかがめて車中で倒れた車右の死体が車から落ちないように位置を安定させます。
韓厥が体をかがめた隙に、追撃されている斉頃公の車右・逢丑父が頃公と位置を変えました。
 
斉頃公の車が華泉(華不注山の麓の泉)に近づいた時、驂(馬車の左右の馬)が木に遮られて動けなくなりました。
数日前、逢丑父は轏(桟車。竹木の車)で寝ていました。すると突然、車の下から蛇が現れます。逢丑父は肘で蛇を打とうとしましたが、逆に怪我をしました。逢丑父はこのことを隠して車右になったため、戦車が木に遮られた時、車を推すことができませんでした(晋の車右・鄭丘緩が険路で車から下りて推したという記述に対比しています)
その間に韓厥が追いつきました。韓厥は手綱を持って前に進むと、斉頃公に再拝稽首し、觴(杯)と璧を献上して言いました(敵国の君主の前では「手綱を持って進むこと」「再拝稽首すること」「酒を進めること」が礼だったようです)「寡君(晋景公)は群臣に命じて魯・衛の請いに応えさせましたが、併せてこう言いました『輿師(軍)を斉君の地に入れてはならない。』下臣は不幸にも戎行(軍旅の士)に属しているため、今回の出征を避けることができず、また、臣が逃げたら両君を辱めることになるのではないかと恐れました(両国の主君のために尽力するべきだと思いました)。臣は戎士としての不才を報告しなければならない立場にいますが、他に人がいないため、この役を務めさせていただきます(原文は「臣辱戎士,敢告不敏,摂官承乏」です。謙遜した言いまわしで、直接の意味は「自分の任務を全うして斉侯を捕えさせていただく」です)。」
すると逢丑父がとっさに頃公を車から下りさせ、華泉で水を取って来るように命じました。逢丑父と頃公は立つ場所を変わっており、当時は主君も士卒も同じ軍服を着ていたため、頃公の顔を知らない韓厥は逢丑父を頃公だと思っています。頃公と逢丑父は顔も似ていたのかもしれません。
頃公は車から下りて逃走し、佐車(副車)に乗って帰りました。佐車は鄭周父が御し、宛茷が車右を務めています。
 
韓厥は逢丑父を捕えて郤克に献上しました。郤克は逢丑父を殺そうとします。逢丑父を捕えた後、韓厥が頃公ではないことに気がついたのか、頃公の顔を知っている郤克が見破ったのかは分かりません。
殺されることになった逢丑父はこう言いました「今後、自分の主君のために難を受けようとする者はいなくなるだろう。ここに一人いるが、殺されることになった。」
郤克が言いました「自分の死によって主君を助けようとした者を殺したら不祥だ。釈放して主君に仕える者の励みとしよう。」
これは『春秋左氏伝(成公二年)』の記述で、『史記・斉太公世家』でも逢丑父は釈放されます。しかし『春秋公羊伝(成公二年)』等では処刑されています。
 
難を逃れた斉頃公は逢丑父を求めて三回、出陣しました。一回目は晋師に入りましたが逢丑父を得ることができず退き還します。二回目は狄卒(狄には車がないため、卒といいます)を攻めて退き還し、三回目は衛師を攻めて退き還しました。三回とも、斉の将兵が頃公を厳重に守って行動しました。狄と衛は晋と同盟していましたが、どちらの兵も危害を加えようとせず、逆に頃公を守ったため、頃公は怪我もしませんでした。
 
斉軍は退却して徐関(斉地)に入りました。頃公は関を守る者に「勉めよ!斉師は敗れてしまった!」と声をかけました。
一人の女子が頃公の進路を塞いだため、道を開くように命じると、女子はこう言いました「主君は禍から逃れることができましたか?」
頃公が答えました「免れることができた。」
女子が聞きました「鋭司徒(鋭は矛に似た武器。鋭司徒は鋭を管理する官)は逃れることができましたが?」
頃公が答えました「逃れることができた。」
女子は「主君と私の父が禍から逃れることができたのなら、何も言うことはありません」と言うと、走って去りました。
頃公は、先に主君の安否を尋ね、後から父のことを聞いた女子に礼があると思い、調査をさせました。暫くして辟司徒(壁司徒。塁壁を管理する官)の妻だとわかり、石(斉の地名)を封邑として与えました
 
晋軍は斉軍を追撃して丘輿(斉の邑)を経由し、馬陘(または「馬陵」)を攻撃しました。

(鞍)の戦いの地図です。
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[] 秋七月、斉頃公は賓媚人(正卿・国佐。賓は別氏。媚人は恐らく媚邑を食邑としたため)を派遣し、紀甗紀公之甗。故紀国の礼器)、玉磬(楽器)と領土を晋に贈って講和を求めました。出発前に頃公が賓媚人に言いました「講和しないようなら、客(晋)の自由にさせよ(再戦を拒むな)。」
国佐は晋に賄賂を贈りましたが、晋の郤克は講和を拒否してこう言いました「䔥同叔子(または「䔥桐姪子」。東周定王十五年・前592年参照)を人質として送り、しかも斉国内の全ての(あぜ道)を東向きにしなければ、講和には同意しない。」
畝を東に向けるのは、晋軍が東進しやすくするためです。
国佐が言いました「䔥同叔子は寡君(斉頃公)の母です。晋で対等なのは晋君の母に当たります。吾子(あなた。郤克)は諸侯に大命を発するにあたって、諸侯の母を人質として信を得ようとしていますが、王命にはどう対応するつもりですか(王命を受けた時には誰を人質に出すのですか)。そもそも(母を人質にとるというのは)不孝によって令を下すことになります。『詩経(大雅・既酔)』にはこうあります『孝子の孝心は絶えることなく、永遠に子孫に伝わる(孝子不匱,永錫爾類)。』(孝とはこれほど重要なものです。)もしも不孝によって諸侯に号令したら、徳から外れることになるでしょう。
また、先王は天下の境界を定め、土地の状況を確認し、利益に応じて配分しました。だから『詩経(小雅・信南山)』には『地の理によって境界を定める。その畝は南を向き、東を向く(我疆我理,南東其畝)』とあるのです。しかし今、吾子は諸侯の国境を定めながら、『その畝は全て東を向けよ』と命じました。土地の状況を考えず、ただ吾子の戎車(兵車)の利を考慮していますが、これは先王の命に背くことです。先王に背くのは不義です。これでどうして盟主でいられるでしょうか。今の晋には明らかに欠点があります。四王(虞舜、夏禹、成湯、文・武王)が天下の王となれたのは、徳を立てて諸侯の共通の願いに応えたからです。五伯(夏伯の昆吾、商伯の大彭と豕韋、周伯の斉桓公と晋文公)が天下の覇者となれたのは、勤めて諸侯を撫し、王命に従わせることができたからです。しかし今の吾子は諸侯を糾合することで、自分の際限ない欲を満足させようとしています。『詩経(商頌・長発)』には『施政が寛大なら、無数の福禄が集まる(布政優優,百禄是遒)』とありますが、吾子は寛大といえず、百禄を棄てています。これで諸侯に影響力を持つことができますか。
寡君が使臣(国佐)に命を下した時、貴国への伝言を与えました。その内容はこうです『汝(郤克)が君師(国君の軍)を率いて敝邑(斉)に訪れたので、敝邑は豊かではないが、汝の従者を慰労した(迎撃したという意味です)。その結果、貴国の国君の震(威)を恐れて、我が師は敗戦した。しかし吾子の光臨が斉国に福をもたらし、我が社稷を滅ぼすことなく、旧好を継続するようなら、先君の敝器(粗末な器物。謙遜した言葉で、「宝物」の意味です)や土地を惜しむことはない。逆にもしも汝が許さないようなら、我々は残った者を集めて城を背に最後の一戦を行うつもりだ。敝邑が幸い最後の決戦で勝つことができたとしても、貴国に従おう。不幸にも負けたら、なおさら命に背くことはない。』」
魯と衛が郤克を諫めて言いました「斉は我々を憎んでいます。斉で戦死したり行方が分からなくなった者は皆、斉侯と親しい者ばかりです。あなたが講和に同意しなければ、斉は我々を更に憎むでしょう。(憎しみが増して戦いが続いたとしたら)たとえあなたでも得る物がなくなってしまいます。あなたは斉の国宝を得て、我々は失地を取り戻して禍難を緩和させることができるのなら、その栄誉は既に充分なものです。斉と晋はどちらも天から授けられた国です。晋だけが生き残ることはありません。」
郤克は講和に同意し、こう言いました「晋の群臣が賦輿(兵車)を率いているのは、魯と衛の請いに応じたからだ。その言葉(魯と衛の進言)があれば、寡君に復命できる。主君の恩恵による命令に逆らうことはない。」
 
この頃、魯成公が晋軍に合流するため、魯国を発ちました。魯の大夫・禽鄭が魯陣を出て成公を迎え入れました。
 
己酉(二十二日)、晋の郤克と斉の国佐が爰婁(または「袁婁」)で盟を結びました。
晋は斉が魯から奪った汶陽の田を返還させます。
 
魯成公は上鄍(斉・衛国境)で晋師に合流しました。成公は晋の三帥(郤克・士燮・欒書)に先路(先輅。天子や諸侯が乗る車)と三命の服(恐らく輅車の装飾。あるいは礼服)を与えました。
また、晋の司馬、司空、輿帥、候正、亜旅(全て大夫)にも一命の服(恐らく礼服。あるいは「車服」の意味で、車輿と礼服)を与えました。

「一命」「三命」というのは、天子や諸侯から下される「命(命令や任命)」の種類です。「一命」「再命」「三命」があり、数が多いほど尊貴で、車服も華美になりました。

 
 
次回に続きます。

春秋時代115 東周定王(二十) 巫臣と夏姫 前589年(3)