春秋時代115 東周定王(二十) 巫臣と夏姫 前589年(3)

今回も東周定王十八年の続きです。
 
[] 八月壬午(二十七日)、宋文公が在位二十二年で死に、子の固(または「瑕」)が継ぎました。これを共公といいます。
 
[] 九月庚寅(初五日)、衛穆公が在位十一年で死にました。子の定公・臧が継ぎます。
 
凱旋途中の晋の三子(郤克・士燮・欒書)が衛を弔問しました。通常は国君の命を受けた官員が弔問に訪れ、大門を入って大堂内で哭弔するものですが、三人は貴国の途中だったため、君命を受けていません。そこで正式な礼を行わず、大門の外で哭弔しました。衛人も大門の外で三人の応対をします。本来なら、婦人(穆公と関係がある女性)は大堂で哭すものですが、晋の三人が大門の外で哭弔したので、婦人も大門の内側で哭礼を行いました。この後、他国の官員が弔問する時にはこの時の手順が真似されるようになりました。
 
[] 魯が斉から汶陽の田を受け取りました。
 
[] 楚が陳の夏氏を討伐した時(東周定王九年・前598年)、荘王が夏姫を自分の後宮に入れようとしましたが、申公・巫臣(屈巫)が反対して言いました「いけません。王が諸侯を集めたのは、夏氏の罪を討つためです。夏姫を納れたら色を貪ることになります。貪色とは淫であり、淫とは大罰にあたります。『周書尚書・康誥)』にはこうあります『徳を明らかにし、罰を慎む(明徳慎罰)。』文王が周を建てることができたのは、まさにこのためです。明徳とは、力を尽くして徳を提唱することです。慎罰とは、なるべく罰を得ないように努力することです。諸侯の兵を興しながら大罰を得たら、慎罰ではなくなります。主公はよく考慮するべきです。
荘王は諫言に納得してあきらめました。
 
子反が夏姫を娶ろうとしましたが、巫臣が諫めて言いました「彼女は不祥の人です。子蛮(恐らく夏姫の一人目の夫)は早死し、御叔(夏徴舒の父)は殺され(実際に夏姫が殺したのではありません。夏姫と一緒になったから死んだという意味で、恐らく病死です)、霊(陳霊公)は弑され(夏姫が原因で夏徴舒に殺されました)、夏南(夏徴舒)は戮され(処刑され)、孔・儀(孔寧と儀行父)は亡命することになり、陳国は滅んでしまいました。これ以上不祥な者がいるでしょうか。人生とは難しいものです。彼女を得たらいい死に方をしないでしょう。天下には多くの美婦人がいます。なぜ彼女でなければならないのですか。」
子反もあきらめました。
 
荘王は夏姫を連尹・襄老に嫁がせました。しかし襄老は邲の戦い(東周定王十年・前597年)で戦死し、死体を得ることができませんでした(晋に殺されて死体は奪われました)。その後、襄老の子・黒要が夏姫と姦通します。
巫臣は人を送って夏姫にこう伝えました「実家(鄭)に帰りなさい。私があなたを娶りましょう。」
同時に巫臣は鄭にも使者を送り、鄭に夏姫を招かせました。鄭は夏姫にこう伝えます「襄老の死体を得ることができる。必ず自ら受け取りに来い。」
夏姫が鄭の要求を荘王に話すと、荘王は巫臣に意見を求めました。巫臣はこう言いました「鄭の言葉は信用できます。知罃(邲の戦いで楚に捕えられました)の父(荀首)は成公(当時の晋君。景公の父)に寵用されており、中行伯(荀林父)の季弟(末弟)でもあります。彼(荀首)は最近、中軍の佐となり、鄭の皇戌とも親しく、しかも子(知罃)を愛しています。彼は鄭を通じて王子(楚の穀臣。邲の戦いで荀首に捕えられました)と襄老の死体を楚に還し、知罃との交換を求めるつもりでしょう。鄭人は邲の役を恐れて楚に従っていますが、同時に晋との関係修復も望んでいます。交換に協力するはずです。」
荘王は夏姫を鄭に行かせることにしました。
 
夏姫は自分を見送った者に「死体を得ることがなければ帰ってきません」と言って出発しました。
巫臣は鄭に使者を送って夏姫を娶ることを伝え、鄭襄公は同意しました。
 
二年前、荘王が死に、共王が即位しました。
この年、斉が晋・魯・衛の攻撃を受けたため、共王は巫臣を斉に送って聘問させ、楚の援軍が到着する日を伝えさせることにしました。
巫臣は全ての家財をまとめて斉に向かいます。
ちょうどこの時、申叔時とその子・申叔跪が楚都・郢に向かっていました。申叔跪は巫臣一行と遭遇してからこう言いました「おかしなことだ。夫子(彼。巫臣)は三軍の懼(おそれ。軍事に関する任務)があるのに、桑中の喜(「桑中」は衛の地名。『詩経・鄘風』に「桑中」という詩があり、男女が幽会する喜びが歌われています)も見られる。妻を連れて逃げるつもりではなかろうか。」
 
巫臣は斉に入って任務を終えてから鄭に行きました。その後、介(副使)に幣(斉から楚に贈られた礼物)を持って楚に帰らせ、巫臣自身は夏姫を連れて再び斉に向かいます。
しかし斉が鞍で晋に敗れたため、巫臣は「不勝の国に住む気はない」と言って晋に奔りました。郤克の一族・郤至(郤克は郤豹の曾孫、郤至は郤豹の玄孫)の取りなしで晋に仕えることになります。晋は巫臣を邢大夫にしました。
 
楚の子反は重幣(巨額の礼物)を晋に贈って巫臣の仕官を妨害しようとしました。しかし共王はこう言いました「やめておけ。彼が自分のために謀ったのは(夏姫を手に入れるために策謀したのは)彼の過(罪)だ。しかし彼がわしの先君のために謀ってきたのは(策をめぐらしてきたのは。もしくは、夏姫を後宮に入れないように謀ったのは)彼の忠だ。忠は社稷を安定させる基本であり、過ちを覆うことができる。そもそも、彼が国家の利となるのなら、我々が重幣を贈っても晋は彼を用いるだろう。逆に晋にとって無益なら、晋は自ら彼を棄てることになる。わざわざ妨害する必要はない。」
 
 
 
次回に続きます。