春秋時代116 東周定王(二十一) 楚の匱盟 前589年(4)

今回で東周定王十八年が終わります。
 
[] 晋師が凱旋しました。士燮(范文子)が最後に国に入ります。
父の士会(武子)が言いました「わしが汝の帰還を待ち望んでいないと思ったか(なぜ早く帰って来なかったのだ)。
士燮が言いました「師(軍)郤子(元帥・郤克)の師であり、郤子に功績があります。師に功績がある時は、国人が喜んで迎え入れるものなので、私が先に国に入ったら、必ず注目を集めたでしょう。これでは私が帥(元帥)に代わって名誉を受けることになります。だから敢えて先に入らなかったのです。」
士会は「(汝がこのように謙虚なので、今後、我が家は)禍から逃れられると確信できた」と言いました。
 
[十一] 郤伯(郤克。伯は字)が景公に謁見しました。景公が言いました「子(あなた)の力のおかげだ(子の功績だ)。」
郤克が答えました「主君の訓(教導)と二三子(諸将士)の力のおかげです。臣の力ではありません。」
范叔(士燮)が謁見すると、景公は郤伯と同じように慰労しました。士燮が答えました「庚(荀庚。荀林父の子。上軍の将。今回は出征していませんが、士燮は上軍の佐なので、荀庚の指示を受ける立場にいます)の命と、克(郤克。中軍の将なので全軍の元帥です)の制のおかげです。臣の力ではありません。」
欒伯(欒書。下軍の将)が謁見した時も、景公は同じように慰労しました。欒書が言いました「燮(士燮)の詔(指示)と、士が命に従ったおかげです。臣の力ではありません。」
 
以上は『春秋左氏伝(成公二年)』を元にしました。『国語・晋語五』にもほぼ同じ記述があります。
郤献子(郤克)が景公に謁見すると、景公が言いました「子の力(功績)だ。」
郤克が答えました「臣は主君の命によって三軍の士に命じ、三軍の士は命に従って勇敢に戦いました。臣の力ではありません。」
范文子(士燮)が謁見した時も、景公が「子の力だ」と言いました。
士燮が答えました「臣は中軍(郤克)の命を受けて上軍の士に命じ、上軍の士は命に従って勇敢に戦いました。臣の力ではありません。」
欒武子(欒書)が謁見すると、景公は同じように「子の力(功績)だ」と言いました。
欒書が言いました「臣は上軍(士燮)の命を受けて下軍の士に命じ、下軍の士が命に従って勇敢に戦いました。臣の力ではありません。」
 
[十二] かつて魯宣公が楚と友好を結ぼうとしましたが、楚荘王と魯宣公が相次いで死んだため、中断していました。魯で成公が即位すると、魯は晋と盟を結び、晋と共に斉と戦いました。
衛も楚を聘問せず、晋と盟を結んで斉と戦いました。
そこで楚の令尹・子重が諸侯を討つために兵を興すことにしました。子重が共王に言いました「主君はまだ幼弱で(この時十二、三歳です)、群臣も先大夫(歴代の大夫)に及ばないので、師(軍)の数を多くしなければ勝てません。『詩(大雅・文王)』には『多数の士によって、文王は安寧を得た(済済多士,文王以寧)』とあります。文王でも大軍を用いたのですから、我々なら当然です。また、先君の荘王は主君を我々に託してこう言いました『徳が遠方に及んでいないようなら、民を憐れんで恩恵を与え、善く民を用いるべきである』。」
子重の進言によって、楚は戸籍を調査し、納税の遅れを免除し、独りで生活している老齢者を援け、貧困を救済し、罪人を釈免しました。その上で全国の士卒を総動員し、王卒(王の護衛)も出征させました。共王自身は出征しませんが、王卒が従軍したため王の車も参加します。彭名が王の戎車を御し、蔡の景公が車左に、許の霊公が車右になりました。二君はまだ成人前でしたが、車左と車右は元服後でなければなれないため、強制して冠礼を行わせました。
 
冬、楚師が衛を攻め、魯を侵し、蜀(魯地)に駐軍しました。
魯成公は臧孫許(臧宣叔)を送って楚と講和しようとしましたが、臧孫許は「楚師は本国を遠く離れて久しいので、自ら退却します。功もないのに名声だけ得るようなことは辞退します(自ら退く相手と講和して、その功績を自分のものとするつもりはありません)」と言って拒否しました。
しかし楚軍は陽橋(魯地)に進軍します。
仲孫蔑(孟孫)が執斲(木工)・執鍼(縫女工・織紝(織布工)各百人を楚に贈り、公衡(恐らく成公の弟)を人質にして盟を請いました。楚は講和に同意します。
 
十一月、楚の公子・嬰斉と魯公(成公)が蜀で会見しました。
丙申(十二日)、楚の公子・嬰斉と魯公(成公)、蔡侯(景侯)、許男(霊公)、秦の右大夫・説、宋の華元、陳の公孫寧、衛の孫良夫、鄭の公子・去疾、斉の大夫(卿ではないため、名が残されていません)および曹人、邾人、薛人、人が蜀で盟を結びました。
晋を恐れながら秘かに楚と盟を結んだこの会は「匱盟(誠意がない盟)」とよばれました。
 
楚師が宋に至った時、魯の人質・公衡が逃げ帰りました。
臧孫許が言いました「衡父(公衡)は数年の不安を我慢することもできず、国の大事を棄てた。このようなことで国はどうなるのだろう。彼は国を棄てたのだから、後の代の人が必ず禍を受けるはずだ。」
 
今回の楚の出征に対して、晋は対抗しませんでした。楚が大軍を擁していたためです。
 
[十三] 晋景公が鞏朔(士荘伯)を周に送って斉から得た捕虜や戦利品を献上させました。しかし定王は鞏朔に会わず、単襄公を使ってこう伝えました「蛮夷・戎狄が王命に従わず、酒色に溺れて制度を破ったら、王は討伐を命じ、戦利品が献上された時、王は自ら受け取って慰労する。これは不敬を懲らしめて功を励ますためだ。兄弟・甥舅が王の制度を破って侵犯したら、王は討伐を命じるが、戦勝の報告を聞くだけで戦利品の献上はさせない。近親を敬い、姦悪を禁止するためだ。今、叔父(晋侯)は戦に勝って斉の地で功を立てたが、天子に任命された卿を派遣して王室を鎮撫させることなく、余一人(「余一人」は天子の自称)を慰問するために鞏伯を派遣してきた。王室において職をもたない(天子から卿に任命された者ではなく、身分が低い大夫に過ぎない)彼を派遣するのは先王の礼に反している。余は鞏伯が好きだが、旧典を廃して叔父を辱めることはできない(制度を無視して鞏朔から戦利品を受け取ったら、礼に反するので晋に対する侮辱になる)。そもそも、斉は甥舅の国であり(定王の后は斉女)、大師(太師・呂尚の後である。斉が私欲に従って叔父(晋侯)を怒らせたとしても、諫め諭すことができないというのか。」
鞏朔は何も言えませんでした。
定王は三吏(三公)に命じて鞏朔を接待させました。侯・伯が敵に勝ち、大夫を派遣して戦勝を報告する時の礼を用います。卿礼から一等下げた礼になります。
また、定王は鞏朔と宴を開き、個人的に礼物を与えました。但し「これは礼から外れている。史書に残すべきではない」と伝えました。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代117 東周定王(二十二) 宋文公の厚葬 前588年