春秋時代117 東周定王(二十二) 宋文公の厚葬 前588年

今回は東周定王十九年です。
 
定王十九年
588年 癸酉
 
[] 春正月、晋景公・魯成公・宋共公・衛定公・曹宣公が鄭を攻め、伯牛(恐らく鄭地)に駐軍しました。邲の役(東周定王十年・前597年)の報復です。
鄭の公子・偃子游。鄭穆公の子)が諸侯の軍に対抗し、東境のという地に埋伏しました。諸侯連合軍は丘輿(鄭国東部)で敗れます。
 
鄭の皇戌が楚に入って戦利品を献上しました。
 
[] 辛亥(二十八日)、衛が穆公を埋葬しました。
 
[] 二月、魯成公が鄭討伐から帰還しました。
 
[] 甲子(十二日)、魯の新宮(宣公宮)で火災がありました。三日間の哭礼が行われました。
 
[] 乙亥(二十三日)、宋が文公を埋葬しました。
文公のために厚葬が行われました。墓穴には蜃(大蛤)と木炭が積まれます。湿気をとる作用があるといわれていたためです。副葬品の車馬を増やし、殉死も行いました。商王朝は殉葬を行っていましたが、商の子孫にあたる宋国では文公の埋葬まで行われていなかったようです。その他にも多数の器物が埋められ、棺にも豪華な装飾が施されました(『春秋左氏伝』に「槨有四阿,棺有翰檜」という説明がありますが、省略します)
当時の君子(知識人)はこう言いました「華元、楽挙(どちらも宋の国政を担う大臣)は臣下としての道を失った。臣下は乱を治めて困惑を除き、そのためには命をかけて諫争するものだ。しかし二子は、主君が生きている間は放縦を許し(東周匡王二年・前611年に文公は昭公を殺して即位し、その二年後に弟の須と昭公の子を殺しました。それ以外にも事件があったのかもしれません)死んでからは奢侈を増した。これは主君を悪の中に捨てるようなものである。臣下のあるべき姿ではない。」
 
[] 夏、魯成公が晋に行き、斉から汶陽の田を取り返したことを拝謝しました。
 
[] 許国が楚との関係に頼って鄭に従わなくなりました。
鄭の公子・去疾(子良)が許を討伐しました。
 
[] 魯成公が晋から帰国しました。
 
[] 晋が捕虜にした楚の公子・穀臣の釈放と、連尹・襄老の死体を楚に返すことで、邲の役で楚に捕えられた知罃の返還を求めました。この時、知罃の父・荀首は中軍の佐として大きな発言力を持っていたため、楚は知罃の返還に同意します。
楚共王が知罃を送り出す時、「汝はわしを怨んでいるか?」と聞きました。
知罃が答えました「二国が交戦し、臣は不才なために任務を全うできず、捕虜になりました。執事(共王の近臣)が私を釁鼓(祭祀の犠牲)に使わず、帰国させて殺戮を受けさせるのは(「晋国で罪に服させるのは」という意味です。知罃には任務を全うできず捕虜になった罪があります)、貴君の恩恵です。臣の不才が原因なので、誰を怨むことができるでしょう。」
共王が言いました「それではわしを徳とするか(わしの徳を認めるか。わしを感謝するか)?」
知罃が答えました「二国はそれぞれの社稷を想い、民の安寧を願っているので、互いに怒りを抑えて許し合い、双方が捕虜を釈放して友好を成立させました。二国の友好は、臣の力とは関係ないことです。臣が敢えて誰かを徳とすることはありません。」
共王が聞きました「汝が帰ったら、どのようにしてわしに報いるつもりだ?」
知罃が答えました「臣は誰かを怨むことなく、貴君も徳を受けていません(感謝の対象ではありません)。怨も徳もないのに、何に報いるのでしょうか。」
共王が言いました「そうだとしても、汝がどのように不穀(国君の自称)に対するつもりか、話してみよ。」
知罃が答えました「貴君の霊(守り)によって纍臣(捕虜になった臣)が晋に帰国し、寡君(晋景公)に殺されたとしたら、私の死は不朽のものとなります(幸いなことです)。貴君の恩恵によって私の罪が免じられ、貴君の外臣・首(知罃の父・荀首。外国である晋の国君に仕えているので、楚共王にとって外臣になります)に私の身があずけられた後、首が寡君に請願して宗廟で私を処刑したとしても、私の死は不朽のものとなります(以上二文は少し難しいので要約します。「捕虜になった罪を問われて晋君に殺されたとしても、国君に殺されず、父に殺されたとしても、晋国で死ぬことができるのなら幸いなことです」という意味です)。もし殺されることなく、宗職(嫡子の地位)を継いで政治に携わり、偏師(一部隊)を率いて封疆(国境)を守ることになったら、執事(楚共王の臣下)に遭遇したとしても避けることなく、命をかけて尽力し、二心を持つことはありません。臣の礼を尽くすことが貴君に対する報いです。」
共王が言いました「晋とはまだ戦うべきではない。」
共王は礼を厚くして知罃を帰国させました。
 
[] 汶陽の田(地)が魯に還されましたが、棘の人々が服従しませんでした。
秋、魯の叔孫僑如が棘を包囲しました。
 
[十一] 魯が大雩(雨乞いの儀式)を行いました。
 
[十二] 晋の郤克と衛の孫良夫が咎如(または「将咎如」「咎如」)を攻撃しました。生き残った赤狄を滅ぼすためです。咎如は民心を失っていたため、壊滅しました。
 
[十三] 冬十一月、晋景公が荀庚を魯に送って聘問し、過去の盟約を確認しました。
衛定公も孫良夫を魯に聘問させ、盟約を確認しました。
 
魯成公が臧孫許(臧宣叔)に問いました「中行伯は晋国において三番目の地位にいるが、孫子は衛国において上卿である。どちらを先にするべきだろうか?」
中行伯は荀庚を指します。当時の晋は郤克が中軍の将、荀首が中軍の佐で、荀庚は上軍の将です。
臧孫許が答えました「次国の上卿は大国の中卿にあたり、中卿は下卿にあたり、下卿は上大夫にあたります。小国の上卿は大国の下卿にあたり、中卿は上大夫にあたり、下卿は下大夫にあたります。これが古の制度で決められた上下の関係です。衛は晋において次国ではなく、小国になります(衛の上卿・孫良夫と晋の下卿・荀庚は同格です)。両者は同格ですが、晋が盟主なので晋を先にするべきです。」
 
丙午(二十八日)、魯成公が荀庚と盟を結びました。
丁未(二十九日)、魯成公が孫良夫と盟を結びました。
 
[十四] 鄭が許を攻めました。
 
[十五] 十二月甲戌(二十六日)、晋が六軍を編成しました。今までの三軍とは別に、新上・新中・新下軍が誕生します。韓厥、趙括、鞏朔、韓穿、荀騅、趙旃が卿になりました(恐らく新中軍の将は韓厥、佐は趙括。新上軍の将は鞏朔、佐は韓穿。新下軍の将は荀騅、佐は趙旃です)(鞍)の役で功績を立てた諸将に報いるための任命でした。
 
[十六] 斉頃公が晋に朝見し、玉を晋景公に授けようとしました。諸侯が朝見した時の儀式です。すると、郤克が小走りで斉頃公と晋景公に近づき、こう言いました「今回、斉君は婦人(斉頃公の母・䔥同叔子。東周定王十五年・前592年参照)の笑いによって辱めを受けることになったのです。寡君(晋景公)が礼を受け入れる必要はありません(斉が自業自得のため謝罪にきたのであり、晋との修好を目的とした朝見ではないので、通常の諸侯に対する礼は必要ないという意味です)。」
 
以上は『春秋左氏伝(成公三年)』の記述です。『国語・晋語五』には郤克の明らかな非礼が書かれています。
斉頃公が晋に来た時、郤克は殞命の礼で頃公をもてなしました。殞命というのは国君が捕虜になることです。郤克は斉頃公を捕虜とみなしたことになります。
郤克が斉頃公に礼物を届けてこう言いました「寡君(晋景公)が私を派遣し、貧しい弊邑の礼物を届けさせました。今回の戦いで貴君は辱めを受けることになったので、執政(頃公の部下)にこれらの礼物を贈り、御人(本来は侍女の意味。ここでは婦人。䔥同叔子)へのお返しとさせていただきます(斉頃公を捕虜として扱い、礼物を贈ることが、自分を嘲笑した䔥同叔子への報復になりました)。」
晋の大夫・苗棼皇(苗賁皇)が言いました「郤子は勇敢だが礼を知らない。功績に頼って斉の国君を辱めたが、彼は長くないだろう。」
 
以下、『春秋左氏伝』に戻ります。
晋景公が斉頃公を招いて宴を開きました。斉頃公は鞍の戦いで自分を追撃した韓厥を凝視します。韓厥が「貴君は私を知っていますか」と聞くと、斉頃公は「服が改められた(軍服から礼服に変わったが、韓厥のことを覚えているという意味です)」と言いました。
韓厥は堂に登ると爵(杯)を持って言いました「臣が命を惜しまず追撃したのは、まさに両君がこの堂で一緒に宴を開くためです(恐らく、韓厥が尽力して斉頃公を追いつめたため、郤克の怨みがはらされ、斉と晋が講和することができた、という意味だと思います)。」
 
史記』の『斉太公世家』『晋世家』には斉頃公が晋を朝見した時、頃公が晋景公に王を名乗るように勧めたという記述があります。しかし晋景公は拒否しました。
帰国した斉頃公は斉公室の苑囿(園林)を開放し、税を軽くし、孤児や身寄りがない者を救済し、疾病・障害がある者を援け、国が蓄えた食糧を民に施しました。民は頃公の政治に喜びます。また、頃公は諸侯にも礼を尽くすようになりました。その結果、頃公が死ぬまで百姓が帰心し、諸侯が斉を侵犯することがなくなりました
 
『春秋繁露・竹林(巻二)』にも敗戦した斉頃公が善政を行ったと書かれています。
頃公は音楽を聞かず、酒を飲まず、肉を食べず(贅沢をせず)、国内では百姓を愛して疾病を慰問し、葬儀があれば弔問し、国外では諸侯を敬い、会に参加して盟約を結びました。そのおかげで天寿を全うし、家も国も安寧を保つことができました。
 
[十七] 荀罃(知罃)が捕虜として楚にいた時、鄭の賈人(商人)が褚(衣服を入れる大きな袋)に荀罃を入れて脱出させようとしました。しかし実行する前に楚が荀罃を釈放しました。
後に賈人が晋に来ると、荀罃は賈人を厚くもてなしました。賈人は「私には功がないから、このような待遇を得るわけにはいかない。私のような小人が君子をだますようなことをしてはならない」と言って斉に去りました。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代118 東周定王(二十三) 呉国登場 前587~586年