春秋時代119 東周簡王(一) 晋の遷都 前585年

今回から東周簡王の時代です。
 
簡王
定王が死んで子の夷が立ちました。これを簡王といいます。
 
 
簡王元年
585年 丙子
 
[] 春正月、魯成公が蟲牢の会(前年)から帰国しました。
 
[] 鄭悼公が晋に行き、講和の成立を謝しました。子游(公子・偃)が相(儀礼を補佐する役)となり、東楹(堂上の東の大柱。古代の堂には東西に大柱がありました。その間を中堂といいます)の東で晋景公に玉を渡します。主人と賓客の地位が対等なら、双方とも両楹の間に立つものでしたが、主人の地位が賓客よりも上なら、賓客は東楹の東(中堂の外)に立ち、主人は東楹の西(中堂の中)に立つことになっていました。晋頃公と鄭悼公はどちらも一国の主なので対等な立場にいます。しかし鄭悼公は敢えてへりくだりました。
晋の士渥濁(士貞伯)が言いました「鄭伯は死ぬだろう。自分で自分を棄てた(自らへりくだるのは、自分に対する尊厳を棄てたことになります)。また、その視線は動きが早く、安定していない。長くはないはずだ。」
 
[] 二月辛巳(十六日)、季孫行父(季文子)の功績によって武宮を建てました。
『春秋左氏伝(成公六年)』は、の戦いは晋の指示に従って国難を除いたのであり、季孫行父が自分の功績として武宮を建てたのは非礼である、と非難しています。
 
『春秋公羊伝(成公六年)』や『資治通鑑外紀』はこの「武宮」を「武公の宮」「武世室(宗廟)」と解釈していますが、楊伯峻の『春秋左伝注(成公六年)』は「武公の廟ではなく、武勲を記念して建てた建築物」としています。前後の文脈を見ても、ここで武公の宮を建てるのはおかしいので、『春秋公羊伝』『資治通鑑外紀』の誤りのようです。
 
[] 魯が国を占領しました
国は『資治通鑑外紀』によると魯の附庸国です。
 
[] 三月、晋の伯宗と夏陽説、衛の孫良夫と甯相および鄭人、伊雒の戎、陸渾の戎、蛮氏(戎蛮)が宋を攻撃しました。前年、諸侯の会盟を相談した時、宋が参加を拒否したためです。
連合軍は鍼(衛の邑。衛都・帝丘の近く)に駐軍しました
 
衛は孫良夫等が主力を率いていたため、首都・帝丘の守りが薄くなっていました。そこで夏陽説が衛を急襲しようと考え、こう言いました「たとえ進攻できなくても、多くの捕虜を捕えて還ることはできるだろう。罪を問われたとしても、処刑されることはない。」
しかし伯宗が反対して言いました「それはいけない。衛は晋を信じているから、師を郊外に置いて備えをしていないのだ。もしも急襲したら信を棄てたことになる。多くの衛俘(捕虜)を得ても、晋に対する信を失ったら諸侯の支持を得ることができなくなる。」
 
連合軍は宋を侵して兵を還しました。晋が衛を通って帰還すると、衛は陴(城壁)に兵を登らせて警戒しました。
 
[] 晋が都・絳からの遷都を考えました。諸大夫が言いました「郇(解池の西北)か瑕氏(解池の南)の地にするべきです。あれらの場所は肥沃で塩池(解池)にも近く、国に利があり、主君も楽しむことができます。」
当時、韓厥は新中軍の将であり、僕大夫(宮中の事務を管轄する官)を兼任していました。
この日、景公が群臣に揖礼して宮内に帰ると、韓厥が後に従いました。景公が寝庭(正寝外の庭)に立って韓厥に「(諸大夫の意見は)どうだ?」と問いました。
韓厥が答えました「いけません。郇と瑕氏は土が薄く水が浅いので、汚れた物が溜まりやすくなっています。汚れた物が溜まりやすければ民が愁(憂鬱)になり、民が愁になれば病弱になり、風湿等の病が蔓延します。新都には新田(地名)を選ぶべきです。新田は土が厚く水が深いので、疾病にかかりにくく、汾水と澮水が汚物を流してくれます。民は服従することに慣れており、新田への遷都は十世の利になります。山・沢・林・塩は国の宝です。国が豊かなら民は驕慢放蕩になります。宝が近ければ民は利を争い、農業を棄てるようになります。その結果、公室が貧しくなるので、主君は楽しむことができません。」
景公は進言を喜び、採用しました。
 
夏四月丁丑(十三日)、晋が新田に遷りました。新田は絳と改名され、旧都・絳は故絳とよばれるようになりました。
 
[] 夏六月、邾子が魯に来朝しました。
 
[] 魯の公孫嬰斉(子叔声伯)が晋に行きました。晋は魯に宋攻撃を命じました。
 
[] 壬申(初九日)、鄭悼公が在位二年で死に、弟のが継ぎました。これを公といいます
 
[] 秋、魯の仲孫蔑(孟献子)と叔孫僑如(叔孫宣伯)が晋の命に従って宋を攻撃しました。
 
[十一] 楚の公子・嬰斉(子重)が鄭を攻撃しました。鄭が晋に服従したためです。
 
[十二] 冬、魯の季孫行父(季文子)が晋に行きました。遷都を祝賀するためです。
 
[十三] 晋の欒書が鄭を援け、繞角(恐らく蔡地)で楚軍に遭遇しました。
楚軍が退却すると、晋軍は蔡を攻撃します。
楚の公子・申、公子・成が申と息の軍を率いて蔡を援け、桑隧で晋軍に対抗しました。
 
晋の趙同と趙括が決戦を望んで欒書に進言すると、欒書は同意しようとしました。しかし荀首(知荘子、士燮(范文子)、韓厥(韓献子)が諫めて言いました「いけません。我々は鄭を救うために兵を出しました。しかし、楚師が去ったのに我々はここまで来ました。これは殺戮を別の場所に遷すことです。殺戮を続けたら楚師を怒らせることになり、戦っても勝てないでしょう。たとえ勝ったとしても、善事ではありません。また、わざわざ師を興して遠征し、楚の二県(申県と息県)を破ったところで、栄誉とはいえません。逆にもしも敗れたら大きな恥辱となります。兵を還すべきです。」
晋軍は撤兵しました。
 
当時、多くの軍帥(指揮官)が決戦を望んでいたため、ある人が欒書に言いました「聖人は大衆と同じ希望を持つから成功するのです。あなたはなぜ大衆の意見に従わないのですか。あなたは大政(執政の大臣)なので、民の意見を酌むべきです。あなたを補佐する者は十一人もいますが(中軍の佐・荀首、上軍の将・荀庚、上軍の佐・士燮、下軍の将・郤錡、下軍の佐・趙同、新中軍の将・韓厥、新中軍の佐・趙括、新上軍の将・鞏朔、新上軍の佐・韓穿、新下軍の将・荀騅、新下軍の佐・趙旃)、その中で戦いを欲さないのは三人しかおらず、多くが戦いを欲しています。『商書尚書・洪範)』にはこうあります『三人が占ったら二人の結果に従う(三人占,従二人)。』これが多数の意見に従うということです。」
欒書はこう言いました「同じように善い意見なら、多数の意見に従うものだ。善とは大衆の主(従うべき対象)である。今回、三卿が同じ主張をした。三人いれば『衆』といえる。これに従って悪いことはない。」
 
[十四] この年は呉寿夢の元年です。『資治通鑑前編』によると、寿夢はこの年、周王室を朝見しました。漢代に編纂された『呉越春秋(呉王寿夢伝第二)』の記述が元になっています。以下、簡訳します。
寿夢元年、寿夢は周を朝見しました。その後、楚に入って諸侯の礼楽に触れます。
鐘離では魯成公と会見し、周公の礼楽に関して学びました。魯成公は先王の礼楽を語り、楽師に三代(夏・商・西周の風(国風。詩)を詠わせます。
寿夢は「孤(私)は夷蛮に居り、椎髻(髪を束めて頭の上で結う古代の髪型)の俗しか知りません。このような服を着る機会がない生活をしています」と言うと、「ああ、これが礼というものか」と嘆息しました。
 
『呉越春秋』は東周簡王元年に寿夢と魯成公が会見したと書いていますが、『史記』の『魯周公世家』と『十二諸侯年表』を見ると、簡王十年(魯成公十五年・前576年)に「魯が始めて呉と通じ、鐘離で会す」とあります。
『春秋左氏伝(成公十五年)』も、簡王十年の十一月に晋の士燮、魯の叔孫僑如、斉の高無咎、宋の華元、衛の孫林父、鄭の公子・鰌および邾人が寿夢と鐘離で会したとしています。
あるいは、元年に寿夢は周に朝見し、その後、楚や中原諸国を巡り、十年になって魯や諸侯と鐘離で会見をしたのかもしれません。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代120 東周簡王(二) 晋呉の国交 前584年