春秋時代121 東周簡王(三) 晋の趙武 前583年

今回は東周簡王三年です。
 
簡王三年
583年 戊寅
 
[] 春、晋景公が韓穿を魯に派遣して汶陽の田(地)について交渉し、斉への返還を要求しました。
季孫行父(季文子)が宴を設けて私人の立場で言いました「大国の行為に義があるからこそ、盟主になることができ、諸侯がその徳を慕い、討伐を恐れ、二心を抱かなくなるのです。汶陽の田は元々敝邑に属していたので、貴国は斉に対して師を用い(鞍の戦い。東周定王十八年・前589年)、敝邑に返還させたのです。しかし今、命を変えて『斉に返還せよ』と要求しました。信によって義が行われ、義によって命が完成されることを、小国は望んでいます。信を知ることができなければ、義を建てることもできず、四方の諸侯が離散してしまうでしょう。『詩(衛風・氓)』にこうあります『女は心変りしていないが、男の行いは前後が異なる。男には準則がなく、二心三心を抱く(女也不爽,士貳其行。士也罔極,二三其徳)。』貴国は七年の間に与えたり奪ったりしていますが、これよりもひどい心変りがあるでしょうか。士でも二心や三心を抱いたら妃耦(妻)を失うものです。霸主ならなおさらです。霸主は徳を用いるべきなのに、前後の行動が一致しないようでは、長く諸侯の支持を得ることはできません。『詩(大雅・板)』にはこういう句もあります『(君王が)遠謀をもたないため、(私は)大諫に尽力する(猶之未遠,是用大簡)。』行父(私)は晋が遠謀を持たず、諸侯を失うことを恐れるので、こうして個人的に進言させていただきます。」
結局、汶陽の田は斉に譲ることになったようです。
 
[] 二年前、楚軍が中原(繞角)から兵を退いてから、晋は沈国を攻撃して沈子・揖初を捕えました。
この年、晋の欒書が蔡を攻め、楚を攻撃して大夫・申驪を捕えました。
また、鄭成公が晋軍に合流しようとして許国を通った時、許に備えがないと知り、東門を攻めて多くの戦功を立てました。
 
[] 魯の公孫嬰斉(声伯)が莒に行きました。妻を迎え入れるためです。
 
[] 宋共公が華元を魯に送って聘問しました。伯姫(魯成公の姉妹。穆姜の娘。宋共公に嫁いだので共姫ともいいます)を迎え入れるためです。
 
夏、宋共公が公孫寿を魯に送って幣物を納めました。
 
[] 晋の趙荘姫は、三年前に趙嬰が亡命に追いこまれたため趙同と趙括を憎んでいました。そこで景公に讒言して言いました「原(趙同)と屏(趙括)が乱を企んでいます。欒氏と郤氏が証明できます。」
 
六月、晋景公が趙同と趙括を討ちました。二人は族滅されます。趙括は趙氏宗族の主なので、この事件で趙氏が滅ぼされたことになります。
この時、趙武(趙朔と荘姫の子)は荘姫と共に景公の宮殿にいたため、殺害から免れることができました。しかし景公は趙氏の田(土地)を没収し、祁奚(祁大夫)に与えることにしました。
 
韓厥は若い頃、趙盾に養われていました。その韓厥が景公に進言しました「成季(趙衰)の勳と宣孟(趙盾)の忠がありながら、後継者がいないようでは、善事を行う者が危惧するようになります。三代(夏・商・周)の賢王は、皆数百年にわたって天の禄を受け継いできましたが、僻(邪悪な王)が一人もいなかったわけではありません。前哲(先王の賢明)によって亡国を免れてきたのです。『周書尚書・康誥)』にはこうあります『身寄りのない者を虐げることはできない(不敢侮鰥寡)。』これが徳を明らかにするというものです。」
景公は趙氏の復活を決意し、趙武を趙氏の後継者に立てて田地や家財を返しました。
 
以上は『春秋左氏伝(成公八年)』の記述です。『史記・晋世家』もほぼ共通しており、「晋景公十七年、趙同と趙括が族滅された時、韓厥が『趙衰と趙盾の功を忘れてもいいのですか。その祭祀を途絶えさせてはなりません』と進言したため、趙氏の庶子・武に食邑が返され、跡を継ぐことになった」と書いています。しかし『史記・趙世家』は全く異なる話を載せています(『韓世家』にも『趙世家』とほぼ同じ内容が書かれています)。有名な「趙氏孤児」という復讐劇です。楊伯峻の『春秋左伝注』は「趙氏孤児」を「戦国時代の伝説」としています。
詳しい内容は別の場所で書きます。

春秋時代 趙氏孤児

 
[] 『資治通鑑外紀』はここで『国語・晋語六』を元に、成人になった晋の趙武の故事を紹介しています。但し、実際にはいつの出来事かはっきりしません。
 
趙武(趙文子)が冠礼を行い、成人になりました。儀式の後、趙武が欒書(欒武子)に会うと、欒書はこう言いました「美哉(立派な成人だ)!かつて私は荘主(趙荘子。趙朔。趙朔が下軍の将だった時、欒書は下軍の佐でした)に仕えていた。彼は華やかで容姿に優れていたが、中身がともなっているとはいえなかった。汝は努力して実を求めよ。」
 
趙武が荀庚(中行宣子)に会うと、荀庚はこう言いました「美哉!惜しいことに、わしは既に年老いてしまった(趙武が徳を行うところを見ることができない)。」
 
趙武が士燮(范燮。范文子)に会うと、士燮はこう言いました「今から自分を戒めなければならない。賢者は寵を受けるほど戒めを増やすものだ。智が足りない者は、寵によって驕る。だから興王(事業を振興させる君王)は諫臣を賞し、逸王(享楽に耽る君王)は諫臣を罰するのだ。古の王者は政徳を成してからも、よく民の声を聞いたという。工(盲目の楽師)に朝廷で諫言を詠わせ、位にいる者(公卿から列士に至る百官)に風刺の詩を献上させて迷いを除き、市井の噂や批判を聞きとり、歌謡から祅祥(悪と善)を判断し、朝廷で百官の諸事を考察し、路で賞賛や誹謗の声を求め、邪があれば正したのは、全て自分を戒めるための術である。先王は驕慢になることを恐れ嫌ったのだ。
 
趙武が郤錡郤駒伯)に会うと、郤錡はこう言いました「美哉!しかし壮年の者には、老者に及ばないことがたくさんあるものだ(年長の郤錡には及ばないという意味です)。」
 
趙武が韓厥(韓献子)に会うと、韓厥はこう言いました「自分を戒めなければならない。冠礼によって成人になったら、始めから善人と交わらなければならない。始めから善人と交われば、善人はまた善人を進めるので、不善の者が近付くことはない。しかし逆に始めから不善の者と交わったら、不善の者は不善の者を進めるので、善人が近づくことがなくなってしまう。草木が生長する様子と同じように、人も同類の者が集まるものだ。人が冠を得るのは、宮室が牆屋(壁や屋根)を持つのと同じである。糞除(掃除をして清潔を保つこと)するだけで、益を増すことができるだろう。
 
趙武が荀罃智武子。智罃)に会うと、荀罃はこう言いました「吾子(あなた)は努力しなさい。成子(趙衰)と宣子(趙盾)の跡を継ぎながら、年老いてもまだ大夫のままだったら、恥というものだ。成子の文(文徳)と宣子の忠を忘れてはならない。成子は前志(先代の典籍)に精通して先君(文公)を補佐し、法をうまく導いて政治を行った。これは文というべきだ。宣子は襄公と霊公に諫言を尽くし、その諫言によって国君(霊公)から疎まれても、死を恐れることなく、なお言を進めた。これは忠というべきだ。吾子は努力しなさい。宣子の忠を持ち、成子の文を加えれば、主君に仕えて必ず功績を残すことができる。」
 
趙武が郤犨苦成叔子)に会うと、郤犨はこう言いました「年が若いのに大夫になる者(官に就く者)は多い。汝をどうすれいいだろう。」
 
趙武が郤至(温季子)に会うと、郤至はこう言いました「汝が誰かに劣ると知ったら、その下を望めばよい(高望みはするな)。」
 
最後に趙武は張孟(張老)に会い、各卿大夫の言葉を話しました。張老はこう言いました「素晴らしいことです。欒伯の言に従えば、滋となるでしょう(ますます進歩できるでしょう)。范叔の教えに従えば、大となるでしょう(心を大きくすることができるでしょう)。韓子の戒に従えば、成となるでしょう(事を成就できるでしょう)。条件はそろいました。実現できるかどうかはあなた次第です。しかし三郤郤錡・郤犨・郤至)の言は亡人(人を傷つける、意気を失わせる)の内容でした。評価するに値しません。智子の道(教訓)が最も素晴らしいものです。先主の徳があなたを守り、成長させてくれるでしょう。」
 
[] 秋七月、周簡王が卿士・召伯桓公を魯に送って命を下しました。魯成公の諸侯としての地位が正式に認められます(本年は魯成公八年です)
 
[] 晋景公が申公・巫臣を呉に派遣し、莒に道を借りました。巫臣が渠丘公(莒は夷なので諡号がありません。渠丘は地名です)と濠に立って言いました「城が破損しています。」
莒丘公が言いました「私の国は辺境の夷の地にあります。誰がこの地を望むでしょうか。」
巫臣が言いました「狡猾な者は封疆(領土)を開いて社稷の利益にすることを考えるものです。どの国にもそういう者はいます。だから大国がますます成長するのです。小国はそれを考えて備えをすることもあれば、そのままにして備えないこともあります(前者は存続し、後者は滅びます)。勇夫でも門を閉じて家を守るものです。国ならなおさらでしょう。」
莒は翌年、楚の攻撃を受けます。
 
[] 冬十月癸卯(二十三日)、杞国から帰された叔姫(東周定王二十一年・前586年参照)が魯で死にました。
 
[] 晋景公が士燮(文子)を魯に聘問させました。前年、呉に帰順した郯に対する討伐の協力を求めるためです。
魯成公は士燮に賄賂を贈って出兵を遅らせるように請いましたが、士燮は断ってこう言いました「君命は一つしかなく(出兵するかしないかしかない)、信を失ったら存続できません。礼は財貨を加えず(賄賂を使わず)、事は両立しないものです。貴君が諸侯の遅れをとるのなら(出兵を渋るのなら)、寡君(晋景公)が貴君につかえることはありません(魯との関係を絶ちます)。燮(私)は服命してこれを報告するだけです。」
これを聞いた季孫行父は恐れて叔孫僑如(宣伯)を派遣しました。
 
叔孫僑如は晋の士燮および斉人、邾人と合流して郯を攻撃しました。
 
[十一] 衛が魯から宋に嫁ぐことになった伯姫のために媵(新婦に従って共に嫁ぐ女性)を送りました。衛と魯は同姓であり、同姓諸侯の結婚で媵を送るのは礼とされていました。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代122 東周簡王(四) 鄭の背反 前582年