春秋時代 趙氏孤児

東周簡王三年(晋景公十七年・前583年)、晋の趙同と趙括が族滅され、趙武が趙氏を継ぎました。

春秋時代121 東周簡王(三) 晋の趙武 前583年

史記・趙世家』は「趙氏孤児」の話を載せています。本編の内容とは大きく異なるので、ここで紹介します。

 

 

以前、趙盾が生きていた頃、夢で叔帯(趙氏の先祖)の姿を見ました。叔帯は腰に手をあてて慟哭し、その後、笑いだして手を敲きながら歌を歌います。

目が覚めてから趙盾が夢を卜わせると、亀甲が途中で割れてから再びひとつになりました。趙史(趙氏の史官)・援が言いました「この夢はとても悪い夢ですが、あなたの身ではなく、子の身に不幸が訪れます。しかし原因はあなたにあります。孫の代になって、趙氏はますます衰えるでしょう。」

 

大夫・屠岸賈は晋霊公の寵臣でした。景公が即位してからは司寇になります。霊公は趙氏に殺されたため(東周匡王六年・前607年参照)、屠岸賈は趙氏を憎んでいました。

晋景公三年(東周定王十年・前597年)屠岸賈が霊公の仇を討つため、諸将に言いました「趙盾は(霊公暗殺を)知らなかったとはいえ、逆族の首である。臣でありながら君を弑し、その子孫は朝廷にいて懲罪されない。これは大きな誤りだ。趙氏を誅殺するべきではないか。」

韓厥が言いました「霊公が賊に遭った時(害された時)、趙盾は外にいた。だから先君(成公)は趙盾を無罪と判断して誅殺しなかった。今、諸君はその後代を誅殺しようとしているが、これは先君の意ではなく、妄誅(妄りに誅殺すること)というものだ。妄誅とは乱である。また、臣に大事がありながら国君に報告しないのは、無君(主君を無視すること)というものだ。」

屠岸賈は反対意見を聞き入れませんでした。

 

韓厥は趙朔に速く逃げるように進めましたが、趙朔はこう言いました「子(あなた)趙氏の祭祀を途絶えさせなかったら、朔(私)は死んでも後悔しません。」

韓厥は趙朔の願いに同意し、病と称して家にこもりました。

 

屠岸賈は景公の指示を待たず、自ら諸将と共に下宮で趙氏を攻撃しました。趙朔、趙同、趙括、趙嬰斉とその家族が皆殺しにされます

 

趙朔の妻・荘姫は晋成公の姉でした。この時、趙朔の子を身籠っています。

乱を知った荘姫は景公の宮殿に隠れました。

趙朔には公孫杵臼という客と、程嬰という友人がいました。公孫杵臼が程嬰に言いました「あなたはなぜ(友と一緒に)死なないのですか。」

程嬰が答えました「朔の婦人には遺腹(遺児)がいる。もし幸いにも男なら、私が養うつもりだ。もし女なら、後を追って死ぬ。」

暫くして荘姫は男児を産みました。

それを知った屠岸賈は宮中を捜索します。荘姫は赤子を絝(はかま)の中に入れると、こう祈りました「趙宗(趙氏の宗族)を滅ぼすのなら、あなたは大声で泣きなさい。もし滅ぼしたくないのなら、声を出してはなりません。」

屠岸賈の士卒が宮中を捜索する間、赤子は声を発することなく、危機を脱しました。

 

程嬰が公孫杵臼に言いました「今回、赤子を得ることができなかったから、後日また捜索するはずだ。どうすればいいだろう。」

公孫杵臼が言いました「孤児を擁立することと、死ぬことでは、どちらが困難だろうか。」

程嬰が答えました「死は易しく、孤児を立てることは難しい。」

公孫杵臼が言いました「趙氏の先君は子(あなた)を厚く遇した。子は難しいことに尽力してくれ。私は易しいことを選んで、死なせてもらう。」

二人は他家から嬰児を得ると、装飾された布団で嬰兒を包み、山中にこもりました。

暫くして程嬰が下山し、諸将軍に言いました「私は不肖なため、趙氏の孤児を立てることができない。誰か、私に千金をくれるなら、趙氏の孤児が隠れている場所を教えよう。」

諸将は喜んで千金を与えることを約束します。

程嬰は諸将を先導して山を登り、公孫杵臼を攻撃しました。

公孫杵臼が程嬰に言いました「程嬰の小人め!かつて下宮の難で死ぬことができず、わしと共に趙氏の孤児を隠したのに、今になってわしを売るのか!趙氏を立てることができないとしても、孤児を売る必要があるか!」

公孫杵臼は嬰児を抱いて叫びました「天よ!趙氏の孤児に何の罪があるというのだ。この子を活かして、杵臼一人を殺してくれ!」

しかし諸将は同意せず、公孫杵臼と嬰児を殺します。

諸将は趙氏の孤児を殺したと思い、喜んで引き上げました。

しかし趙氏の本当の孤児は程嬰に守られて、山中で成長しました。この孤児を趙武といいます。

 

十五年が経ち(あしかけ十五年。晋景公十七年・東周簡王三年・前583年)晋景公が病に侵されました。卜をさせると、「大業(秦・趙の祖先。大費の父。一説では大業と皋陶は同一人物)の子孫で跡を継げない者が祟っている(大業之後不遂者為祟)」と出ます。

景公が韓厥に意見を求めると、韓厥は趙氏の孤児が生きていると知っていたため、こう答えました「大業の子孫の内、晋で祀が絶えたのは、趙氏ではないでしょうか。中衍より後の者は皆、嬴姓を名乗っています。中衍は人面鳥嘴(人の顔で鳥の口)で、殷帝・大戊を補佐しました。その子孫も周の天子に仕えて、皆、明徳がありました。しかし幽王・厲王が無道だったため、叔帯が周を去って晋に遷り、先君の文侯に仕えたのです。それから成公に至るまで、代々功を立てており、祀を絶やしたことがありません。しかし今、我が君が趙宗を滅ぼしたため、国人は趙氏に同情しています。だから亀策(卜)に兆しが表れたのでしょう。主公はよく考えるべきです。」

景公が問いました「趙氏にはまだ子孫がいるのか?」

そこで韓厥が真相を語りました。

景公は韓厥と共に趙氏の孤児・趙武を擁立する方法を図り、趙武を招いて宮中に隠します。

 

諸将が景公の見舞いに来た時、景公は韓厥が率いている多数の従者を使って諸将を威圧し、趙武に会わせました。

諸将はやむなくこう言いました「かつての下宮の難は、屠岸賈が策動し、君命を偽って群臣に命じたのです。そうでなければ誰が難を成すでしょう。主君が病に侵されなければ、群臣は本来、趙氏の後を立てることを請願するつもりでした。今、このような君命を下されたのは、群臣の願いと同じです。」

景公は趙武と程嬰を召すと諸将を拝させました。

諸将は程嬰、趙武と共に屠岸賈を攻め、その一族を滅ぼします。

こうして趙武が趙氏を継ぎ、以前の田邑が返されました。

 

やがて趙武が冠礼を行い成人になりました。

程嬰は諸大夫に別れを告げてから、趙武にこう言いました「下宮の難では、皆死ぬことができましたが、私が死ななかったのは趙氏の後を立てるためでした。今、趙武が既に立って成人になり、その位も回復できたので、私は地下の趙宣孟(趙盾)と公孫杵臼に報告しようと思います。」

趙武が泣きながら頓首して言いました「武(私)は自分の筋骨を苦しめてでも死ぬまで子(あなた)に報いたいと思っています。それなのに、子は私から去って死のうというのですか。」

程嬰が言いました「彼(公孫杵臼)は私なら事を成せると信じたから先に死んだのです。今、私が死んで報告しなければ、成功を知ることができないでしょう。」

程嬰は自殺しました。

趙武は三年間の喪に服し、程嬰の祭邑(祭祀を行う邑)を設け、子孫代々、春秋の祭祀を行わせることにしました。

 

 

以上が「趙氏孤児」の話です。

本編にも書きましたが、楊伯峻の『春秋左伝注(成公八年)』はこの話を「戦国時代に作られた伝説」としています。

資治通鑑外紀』もこの故事の信憑性を疑っていますが、『資治通鑑前編』はそのまま記載しています。