春秋時代122 東周簡王(四) 鄭の背反 前582年
今回は東周簡王四年と五年です。
簡王四年
前582年 己卯
[一] 春正月、杞桓公が魯に入朝し、前年死んだ叔姫の霊柩を受け取って帰国しました。
[二] 晋が魯に汶陽の田を斉に譲るよう要求したため(前年)、諸侯が晋に不信感を抱きました。晋は諸侯の離反を恐れて会を開きます。
魯の季孫行父(季文子)が晋の士燮(范文子)に言いました「晋は既に徳が弱くなったのに(晋が魯に領土割譲を要求したことを指します)、盟を求めてどうするつもりですか。」
士燮が答えました「勤勉によって諸侯を按撫し、寬厚によって諸侯を遇し、堅強によって諸侯を御し、明神(神を明らかにすること。盟約を結ぶこと)によって諸侯に約束させ、服す者を懐柔し、二心を抱く者を討つ。これが次善の徳というものです(最良の徳を失ったからこそ、改めて盟を結ぶのです)。」
この会盟で晋は初めて呉を招きましたが、呉は参加しませんでした。
[三] 魯成公が蒲の会から帰国しました。
[四] 二月、魯の伯姫(魯宣公の娘)が宋に嫁ぎました。
鄭伯(成公)は秘かに楚の公子・成と鄧(恐らく楚地。故鄧国)で会見しました。
[六] 夏、魯の季孫行父が宋に入って嫁いだばかりの伯姫(共姫)を慰労しました。
すると穆姜(伯姫の母。宣公夫人)が東房から路寝(宴を行う部屋)に姿を見せ、季孫行父を再拝して言いました「大夫(季孫行父)は勤勉で先君(宣公)を忘れることなく、恩恵は嗣君(成公)と未亡人(穆姜)にも及んでいます。これは先君が望んでいたことです。大夫の重勤を拝させていただきます。」
[七] 晋が魯から宋に嫁いだ伯姫のために媵(新婦に従って共に嫁ぐ女性)を送りました。晋と魯が同姓だったためのようです。
[八] 秋七月丙子(楊伯峻『春秋左伝注』によると、この年の七月に丙子の日はないようです)、斉頃公が在位十七年で死に、子の環が立ちました。これを霊公といいます。
[九] 秋、鄭成公が晋に朝見しました。
晋景公は鄭が楚と通じたことを怒り、「鄭は秘かに楚と和平した」と宣言して、成公を銅鞮(晋侯の別宮)に捕えました。
晉の欒書が鄭を攻めました。
鄭は講和を求めて伯蠲を派遣しましたが、晋は伯蠲を殺しました。
楚の子重が鄭を救うために陳を攻撃しました。
陳は元々楚に服従していたはずです。この頃は晋とも通じていたのかもしれません。
[十] 晋景公が軍府(軍用倉庫)を視察し、鍾儀(東周簡王二年・前584年)を見つけました。景公が「南冠(楚の冠)を被って繋がれているのは誰だ?」と問うと、有司(官員)が「鄭が献上した楚囚です」と答えました。
景公は鍾儀の縄を解かせ、招いて慰問しました。鍾儀は再拝稽首します。
景公が聞きました「楽奏ができるか?」
鍾儀が答えました「先人の職官です。それを棄てることはありません。」
そこで景公が琴を与えると、鍾儀は南音(楚の音楽)を奏でました。
景公が問いました「汝の君王はどうだ?」
鍾儀が答えました「それは小人が知る事ではありません。」
それでも景公が頑なに質問したため、鍾儀はこう答えました「国君が太子だった頃、師と保(どちらも教育官)が太子を奉じました。太子は、朝は嬰斉(令尹・子重)に、夕は側(司馬・子反)に教えを請いました。その他の事は知りません。」
景公がこれを士燮(范文子)に話すと、士燮はこう言いました「楚囚は君子です。先に先人の職を語ったのは、本に背かない(根本を忘れない)からです。土風(故郷の音楽)を奏でたのは、旧を忘れないからです。楚君が太子だった頃を称賛したのは、私心がないからです(楚共王は太子の頃から聡明だったため、成るべくして国君になったと語ったのは、既に即位した君王を取り繕って阿諛しようという心がないことを示します)。二卿の名を述べたのは、主君を尊んだからです(国君の前では、臣下は官名や字ではなく名を直接呼ぶことが礼とされました。鍾儀が「子重」「子反」といわず、「嬰斉」「側」と言ったのは、晋景公への敬意を表します)。本に背かないのは仁です。旧を忘れないのは信です。私心がないのは忠です。国君を尊ぶのは敏(聡明)です。仁によって事を受け継ぎ、信によって事を守り、忠によって事を成し、敏によって事を行えば、大事でも必ず完遂できます。主公は彼を帰らせて、晋楚の和平を実現させるべきです。」
景公はこれに従い、鍾儀に厚い礼を加え、和平のために帰国させました。
[十一] 冬十一月、斉が頃公を埋葬しました。
[十二] 楚の子重(嬰斉)が陳から莒に兵を進め、渠丘を包囲しました。渠丘は城が破損していたため、民衆が離散して莒城に奔ります。
戊申(初五日)、楚軍が渠丘に入りました。
莒人が楚の公子・平を捕えました。楚軍は「殺さなければ、奪った捕虜を返す」と伝えましたが、莒は公子・平を殺してしまいます。
楚軍は莒城を包囲しました。
庚申(十七日)、莒城も破損していたため、楚軍の攻撃によって壊滅しました。
楚は兵を進めて鄆城にも入りました。
全て莒に備えがなかったために招いた敗北です(前年参照)。
但し、この後も莒国は存続しているので、楚は莒を併吞せず、盟を結んで帰ったようです。
[十三] 諸侯が晋から離れ始めていたため、晋が秦と白狄の進攻を招きました。
[十四] 鄭成公が晋に捕えられてから、鄭国内で公孫申が言いました「師を出して許を包囲し、仮の国君を立て、晋に使者を送らないようにすれば、晋は主君を返すはずです。」
鄭は成公の釈放を急いでいない姿を見せるため、兵を出して許を包囲しました。
[十五] 魯が都・曲阜に中城(内城)を築きました。
[十六] 十二月、楚共王が公子・辰(子商)を晋に送りました。鍾儀の返還に対する答礼です。楚は晋に関係を修復し、和を結ぶことを求めました。
次回に続きます。
春秋時代123 東周簡王(五) 晋景公の死 前581年