春秋時代124 東周簡王(六) 第一次弭兵の会 前580~579年

今回は東周簡王六年と七年です。
 
簡王六年
580年 辛巳
 
[] 晋は魯成公が楚に通じていると疑い、帰国を許可しませんでした(前年)
春三月、魯成公が晋と盟を結ぶことを求めたため、晋は魯成公を帰国させました。
 
晋厲公が郤犨(または「郤州」。郤豹の曾孫)を魯に送って聘問しました。
己丑(二十四日)、魯成公が郤犨と盟を結びました。
 
[] 魯の公孫嬰斉(声伯)の母は正式な婚礼をせず、叔肸と一緒になりました。叔肸は宣公の同母兄弟です。宣公夫人の穆姜はしばしば「私には妾(正式な婚礼をしていない女性)を姒(夫の兄弟の妻で、自分より年長の女性)とみなすことはできません」と言っていました。
叔肸は嬰斉が産まれるとその母を家から出しました。嬰斉の母は斉の管于奚と再婚し、一男一女を産みましたが、やがて寡婦になります。二人の子は嬰斉に委ねられました。
二人が成長すると、嬰斉は外弟(管于奚の息子)を大夫に登用し、外妹(管于奚の娘)を施孝叔(魯恵公の子孫)に嫁がせました。
 
晋の郤犨が魯に来た時、嬰斉に妻を求めました。嬰斉は施孝叔に嫁いだ外妹を呼び戻し、郤犨に嫁がせることにしました。それを知った外妹が施孝叔に言いました「鳥獣でも儷(配偶者。妻)を守るといいます。あなたはどうするつもりですか。」
施孝叔はこう答えました「わしには死ぬことも亡命することもできない(命に逆らって妻を守ることはできない)。」
外妹は施氏の家を出ました。
郤犨に嫁いだ外妹は二子を産みましたが、郤氏が滅ぼされたため(東周簡王十二年・前574年)、晋は郤犨の夫人を施氏に還しました。施孝叔が黄河まで迎えに来ます。ところが施孝叔は、郤氏との間に産まれた二子を黄河に沈めて殺してしまいました。
夫人が怒って言いました「あなた自身のせいで自分の伉儷(妻)を守ることができずに失いました。しかも人の孤児を愛することもできず殺してしまうとは、どうして終わりを全うできるというのですか。」
夫人は施氏の家に帰らないことを誓いました。
 
[] 夏、魯の季孫行父(季文子)が晋に行きました。郤犨の聘問に謝礼し、盟を結ぶためです。
 
[] 周公・楚は東周恵王と襄王の子孫が権力を持っていることを嫌い、伯輿(または「伯與」)とも政権を争いましたが、勝てなかったため怒って周朝廷を出ました。
周公・楚が陽樊(晋邑)まで来た時、簡王が劉子(劉康公)を派遣して呼び戻したため、鄄(周邑)で盟を結んで周に帰りました。
しかし三日後には再び周を出て晋に奔りました。
 
[] 秋、魯の叔孫僑如(宣伯)が斉に行き、鞍の戦い以前の友好関係を回復させました。
 
[] 晋の郤至が周王室と(温の別邑)を争いました。周簡王は劉康公と単襄公を晋に送って郤至の不当を訴えます。郤至が言いました「温は郤氏の邑なので、(温の別邑のも)失うわけにはいきません。」
劉康公と単襄公が言いました「昔、周が商に勝った時、諸侯に封地を治めさせ、蘇忿生に温の地を与えて司寇に任命し、檀伯達と共に黄河に封じました(檀伯達の邑は檀で、温とともに黄河の北にありました)。後に蘇氏は狄に出奔しましたが、狄とうまくいかず、衛に奔りました(東周襄王三年・前650年)。そこで、襄王が文公(晋)を慰労して温を下賜し(襄王十八年・前635年)、狐氏(温大夫・狐湊)と陽氏(陽処父)がそこに住みました。その更に後からあなたが来たのです。もし元をたどるなら、そこは王官(周王の官)に属する邑です。なぜあなたが所有できるのですか。」
晋厲公は郤至に争いを止めるよう命じました。
 
[] 宋の華元は楚の令尹・子重とも、晋の欒書(欒武子)とも良い関係にありました。
当時、楚は晋が派遣した糴茷(前年)による講和の申し出に同意し、糴茷を帰国させたばかりでした。
冬、楚と晋の講和の動きを知った華元は、まず楚に行き、その後、晋に入って調停を買って出ました。
 
[] 秦と晋が和して令狐で会見することになりました。史記・晋世家』によると即位したばかりの晋厲公は諸侯との積極的に友好を結ぼうとしていたようです。
晋厲公が先に到着しました。
しかし秦桓公は晋を疑っているため黄河を渡らず、王城に駐留すると、大夫・史顆を送って河東(令狐)で晋厲公と盟を結ばせました。
晋は郤犨が河西(王城)に渡り、秦桓公と盟を結びます。
 
晋の士燮(范文子)が言いました「このような盟に益はない。斎盟(斎戒結盟)とは信にかかっている。そして、会盟の場所とは信の始め(基本)である。始めが正しくないのに、信が成り立つはずがない。」
 
桓公は帰国後、晋との講和を破棄し、狄(翟)と共に晋を攻撃しました。
 
 
 
簡王七年
579年 壬午
 
[] 春、周王室が周公・楚の難(前年、晋に出奔しました)を魯に伝えました。
 
[] 宋の華元が晋と楚の和平を成立させました。
夏五月、晋の士燮が楚の公子罷および許偃と会見します。
癸亥(初四日)、両国が宋の西門の外で盟を結び、宣言しました「晋・楚ともに戎を加えることなく(兵を交えることなく)、好悪を共にし、協力して災危に臨み、凶患を救済する。楚を害すものがいたら、晋が討伐する。晋に対しても、楚は同じである。交贄(使者の礼物。ここでは外交の使者の意味)が往来し、道路を塞ぐことなく、協力しないものを謀り、背くものを討伐する。この盟に逆らう者は、明神によって誅され、その師を失い、国を治めることができなくなる。」
これを第一次「弭兵の会」といいます。「弭」は「停止する」という意味なので、休戦・停戦を指します。
 
晋と楚の和約が成立したため、両国の間に位置する鄭の成公も晋に入って盟に参加しました。魯成公、衛定公も晋に行き、諸侯は瑣沢(または「沙沢」。恐らく晋地)で会盟しました。
 
[] 宋が主催して弭兵の会が開かれている隙に、狄人(楊伯峻『春秋左伝注』によると、赤狄は既に全滅しているので、恐らく白狄)が晋を攻撃しました。
しかし狄は油断していました。
秋、晋が交剛(詳細位置不明)で狄を破りました。
 
[] 晋の郤至が楚を聘問し、盟を結びました。
楚共王が宴を開き、子反が相(宴席で主人を補佐する役)になります。子反は堂下の地室に鐘鼓を準備しました。
郤至が宴に参加するため堂に登ろうとした時、突然、地下の楽器が鳴りました。驚いた郤至は退出しようとします。すると子反が言いました「時間が早くありません。寡君(楚共王)が待っています。お入りください。」
郤至が言いました「楚君は先君との誼を忘れず、恩恵を下臣にまで施し、大礼(宴席)を下賜して音楽まで加えました。もし今後、天の福によって両君が会うことになったら、どうするのでしょう(諸侯が享受するべき礼を既に臣下である私に与えられました。国君同士が会うことになったら、どのような礼を用いるというのでしょうか)。下臣が応じるわけにはいきません。」
子反が言いました「天の福によって両君が相見することになったら、一矢を贈りあうだけのことです。音楽など必要ありません。寡君が待っているので、吾子(あなた)はお入りください。」
郤至が言いました「もし一矢によって款待するというのなら、それは大きな禍となります。どこに福があるのでしょう。世が平穏に治まったら、諸侯は天子に仕える合間に互いに朝し、享宴の礼を行います。享とは恭敬と倹約を教えるものです(享も宴の一種ですが、酒食を並べるだけで実際には食べることができませんでした。そのため、恭敬と倹約を意味しました)。宴(通常の酒宴を指します)は慈恵を示します。恭敬倹約によって礼が行われ、慈恵によって政が布かれます。政は礼によって成り立ち、民を休ませることができます。百官が政事に関する指示を受けるのは、朝会の時であって夕()ではありません。これは公侯が城の民を守るためです(朝、百官に命を与えて、昼は政務を行うという意味です)。『詩経(周南・兎罝)』にはこうあります『勇ましい武人が公侯を守る(赳赳武夫,公侯干城)。』政治が乱れて諸侯が貪婪になり、欲に限りがなくなったら、わずかな土地を求めて民を死に至らしめ、武夫を求めて自分の腹心・股肱・爪牙にします。『詩経(同上)』はこうとも言っています『勇ましい武夫が公侯の腹心になる(赳赳武夫,公侯腹心)。』天下に道があれば、公侯は民のために城を守り、腹心を制御することができます。天下が乱れたら逆になります。今、吾子(あなた)の言は乱の道なので、法(常道)にしてはなりません。しかし吾子は主(宴の主催者)なので、私が従わないわけにもいきません。」
郤至は宴に参加し、帰国してから士燮(范文子)に話しました。
士燮はこう言いました「無礼である。楚は約束を守らないだろう。わしが死ぬ日は近い(楚と大きな戦いがある日は近い)。」
 
冬、楚の公子・罷が晋を聘問しました。
十二月、晋厲公と楚の公子・罷が赤棘で盟を結びました。
 
 
 
次回に続きます。

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