春秋時代125 東周簡王(七) 叔孫僑如と仲孫蔑 前578年(1)

今回は東周簡王八年です。二回に分けます。
 
簡王八年
578年 癸未
 
[] 春、晋厲公が郤錡(駒伯)を魯に派遣して出兵を求めました。秦を攻めるためです。
しかしその時の態度が不敬だったため、魯の仲孫蔑(孟献子)が言いました「郤氏は亡ぶだろう。礼とは身の幹(根幹)であり、敬とは身の基(基礎)である。郤子には基がない。そもそも先君の嗣卿(郤錡は郤克の子です。郤克は景公時代の上卿で、郤錡は郤克の子として厲公の卿になりました)として君命を受け、師を求めたのは、社稷を守るためだ。それなのに怠惰であるのは、君命を棄てたことになる。郤氏が亡ばないはずがない。」
 
[] 三月、魯成公が晋のために兵を出し、途中で京師・洛邑に入りました。
叔孫僑如(宣伯)が周王の賞賜を欲したため、先使(先行する使者)を買って出ました。しかし周簡王は行人(普通の外交官)の礼で叔孫僑如を遇し、特別な賞賜を与えませんでした。
仲孫蔑が介(上介。主人と賓客の間で言葉を伝える役)として魯成公に従って入京すると、簡王は仲孫蔑に厚い賞賜を与えました。
 
以上は『春秋左氏伝(成公十三年)』の記述です。『国語・周語中』には更に詳しく書かれています。
魯の成公が周に朝見した時、叔孫僑如を先に送って聘問させ、成公の朝見を周簡王に報告しました。
周に入った叔孫僑如はまず王孫説に会って話をしました。
叔孫僑如と別れた王孫説が簡王に言いました「魯の叔孫が先に来たのは、考えがあってのことです。享覲の幣(聘礼の財物)は薄いのに、言は諂っていました。賞賜を欲しているからでしょう。魯で執政している者(上卿・季孫行父)は彼の強暴横柄を恐れたので、彼を嫌っているのに、派遣に同意したのです叔孫僑如が自分から使者になることを買って出た時、魯の大臣は叔孫僑如の勢力を恐れて同意したのです)。しかも彼の容貌は、顔の上が広く、下が尖っています。これは人にぶつかる者の相です。王は彼に賞賜を与えてはなりません。貪婪な者が入朝し、その願いを満足させたら、善を賞することにはなりません。そもそも、財物によって彼を満足させることはできないはずです。聖人は施舍(施しを与えるかどうか)や喜怒取与(喜ぶか怒るか、受け取るか与えるか)を議したものです。だから賞罰は寬恵(寛大に恩恵を与えること)を前提にすることがなく、猛毅(過酷。果断)を前提にすることもなく、徳義(善があれば賞し、罪があれば罰するという適切な態度)だけが求められるのです。」
簡王は「わかった(諾)」と言うと、秘かに魯に人を送って調査しました。果たして叔孫僑如が自ら使者になることを願い出たことがわかりました。
王は叔孫僑如に賞賜を与えず、行人として遇します。
魯成公が到着した時、仲孫蔑が介を勤めていました。仲孫蔑と会話をした王孫説は、仲孫蔑が謙譲の人であると判断して簡王に報告しました。
簡王は仲孫蔑を厚くもてなしました。
 
[] 魯成公は諸侯と共に周簡王を朝見し、その後、劉康公(王季子)、成粛公に従って晋厲公と合流しました。晋と諸侯の連合軍は秦へ兵を進めます(周は劉康公と成粛公を派遣しただけで、兵は出していないようです)
 
出征前の祭祀が行われ、成粛公が社(土地神の社)で祭肉を受け取りましたが、態度が不敬でした。
劉康公が言いました「民は天地の中和の気によって生まれるという。これが命(生命)である。命は動作・礼義・威儀の準則によって安定する。能力がある者はそれらを守って福を得る。能力がない者はそれらに背いて禍を得る。だから君子は礼に勤め、小人は力を尽くすのだ。勤礼(礼に勤めること)は致敬(恭敬に至ること)に勝るものがなく、尽力は敦篤(篤実)に勝るものがない。恭敬とは神を奉じることであり、篤実とは業を守ることである。国の大事とは祀(祭祀)と戎(戦争)だ。祀には執膰(祭肉を分ける儀式)があり、戎には受脤(祭肉を受ける儀式)がある。これらは神と交わるための大節である。今、成子(成粛公)は怠惰であった。これは命を棄てるのに等しい。生きて還ることはできないだろう。」
 
 
 
次回に続きます。

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