春秋時代127 東周簡王(九) 衛献公即位 前577年

今回は簡王九年です。
 
簡王九年
577年 甲申
 
[] 春正月、莒子・朱(渠丘公)が死にました。子の密州(犂比公)が継ぎます。
楊伯峻の『春秋左伝注(成公十四年)』には、渠丘公の名が「季佗」と書かれています。しかし『世本(秦嘉謨輯補本)』には「季佗が死んで渠丘公・朱が立つ。渠丘公が死んで犂比公・密州が立つ。字は買朱鉏」とあるので、「季佗」と「渠丘公」は別人物のようです(季佗に関しては、東周匡王四年・前609年参照)
また、『資治通鑑外紀』には、「渠邱公・朱が死んで、厲公の孫・犂比公・密州が立つ」と書かれています。密州の祖父が「季佗」だとしたら、季佗は厲公になります。
まとめると、
厲公・季佗 → 渠邱公・朱 → 犂比公・密州
という系図になります。
 
[] 衛定公が晋に入朝しました。
晋厲公は孫林父(東周簡王二年・前584年に晋に亡命しました)を帰国させるため、衛定公に孫林父との会見を要求しました。しかし定公は拒否します。
 
夏、衛定公が帰国してから、晋厲公は郤犨に孫林父を送らせました。衛定公が受け入れを拒否しようとしましたが、夫人の定姜が言いました「いけません。彼は先君の宗卿の嗣(先君は定公の父・穆公。宗卿は孫林父の父・孫良夫。孫氏は衛武公の子孫なので、衛君と同宗)であり、大国からも復帰を要求されています。受け入れなかったら衛国が滅ぼされるでしょう。たとえ彼を嫌っていたとしても、亡国よりましです。主君は我慢するべきです。民を安定させて宗卿を赦すのですから、悪いことではありません。」
定公は孫林父に会って元の官職を与え、采邑の戚を還しました。
 
衛定公は宴を開いて郤犨(苦成叔ともいいます。苦成は晋の地名です)をもてなし、寧殖(甯恵子)が相になりました。
郤犨が傲慢だったため、寧殖が言いました「苦成叔の家は亡ぶでしょう。古の宴は威儀を観察し、禍福を探るものでした。だから『詩経(小雅・桑扈)』にはこうあります『大きな酒器に美酒を盛る。驕慢になることなく、万福を集める(兕觥其觩,旨酒思柔。彼交匪傲,万福来求)。』彼の傲慢は、禍を得る道となるはずです。」
 
[] 秋、魯の叔孫僑如(宣伯)が斉女(姜氏)を迎えに行きました。魯成公の婚姻のためです。
 
[] 八月、鄭の公子・喜(字は子罕。穆公の子)が許を攻めましたが、敗戦しました。
戊戌(二十三日)、鄭成公が再び許を攻めました。
庚子(二十五日)、鄭軍が郛(外城)に侵入しました。許は叔申(公孫申)が決めた国境(東周定王二十年・前587年)を受け入れて講和しました。
 
[] 九月、魯の叔孫僑如が夫人・姜氏(成公夫人)と共に斉から魯に還りました。
 
[] 衛定公が病に倒れました。定公は孔烝鉏(孔成子。孔達の子)と甯殖(甯恵子)に命じ、敬姒(恐らく定公の妾。姜氏)の子・衎を太子に立てさせます。
 
冬十月庚寅(十六日)、定公が在位十二年で死にました。
夫人・姜氏(敬姒)は哭葬が終わって休んだ時、太子・衎に悲しむ姿が見えず、酌飲(質素な飲食)をする様子もなかったため、嘆いて言いました「彼は衛国に敗亡をもたらし、その禍は未亡人(私)の身から始まるでしょう。天が衛国に禍を下すことになりました。なぜ鱄(子鮮。太子・衎の同母弟)社稷の主にすることができないのでしょうか。」
これを聞いた諸大夫は皆危惧しました。
孫林父孫文子)はこの後、重器(宝物)を衛に置かず、全て戚(孫氏の邑)に集め、晋の大夫と連絡を取り合うようになりました
 
太子・衎が即位しました。これを献公といいます。
 
[] 秦桓公が死にました。『春秋』の記述では在位二十八年、『史記』の『秦本紀』『十二諸侯年表』では在位二十七年です。
子の景公が立ちました。『史記集解』は「景公の名は后伯車」と注釈しており、『資治通鑑外紀』では「景公・后」と書いています。しかし『史記・索隱』には「景公以下、秦国君の名が混乱している(はっきりしない)」とあります。
景公は「僖公」と書かれることもあります。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代128 東周簡王(十) 宋大夫の出奔 前576年