春秋時代128 東周簡王(十) 宋大夫の出奔 前576年

今回は東周簡王十年です。
 
簡王十年
576年 乙酉
 
[] 春二月、衛が定公を埋葬しました。
 
[] 三月乙巳(初三日)、魯の仲嬰斉(仲遂の子。公孫帰父の弟。嬰斉の子孫は仲氏を名乗りました)が死にました。
 
[] 癸丑(十一日)、晋侯(厲公)、魯公(成公)、衛侯(献公)、鄭伯(成公)、曹伯(成公)、宋の世子・成(宋共公が病で出席できなかったため、世子が出席しました)、斉の国佐および邾人が戚で盟を結びました。
二年前に曹成公が宣公の太子を殺して即位したため、晋は曹成公の罪を裁き、捕えて京師(周都・洛邑に送りました(『史記・管蔡世家』は曹成公三年の事としていますが、成公二年の誤りです。『十二諸侯年表』も成公二年に書いています)
 
諸侯は曹の公子・欣時(子臧。成公の弟)を周王に謁見させて曹君に立てようとしましたが、欣時は辞退して言いました「前志(古書)にはこうあります『聖人は節に達し、次の者は節を守り、下の者は節を失う聖達節,次守節,下失節)。』国君になるのは私の節ではありません。私は、聖人になることはできませんが、節を失うこともできません。」
子臧は逃走し、宋に亡命しました。
 
[] 魯成公が戚の会から還りました。
 
[] 夏六月、宋共公が在位十三年で死にました。少子・成が即位します。これを平公といいます。
 
[] 楚が北に出兵しようとしました。
子囊(公子貞。楚荘王の子。共王の弟)が反対して「晋と盟を結んだばかりなのに背くのは、相応しくないでしょう」と言いましたが、子反はこう言いました「敵に対して我々に利があれば我々が進む。盟約に意味はない。」
 
既に年老いた申叔時が申邑でこれを聞き、こう言いました「子反は禍から逃れることができない。信は礼を守り、礼は身を守る。信も礼も失ったら、禍から逃れたくても無理なことだ。」
 
楚共王が鄭を攻撃し、暴隧に至ってから、衛を侵して首止に達しました。
鄭の子罕が反撃して楚の新石(邑名)を取ります。
晋の欒書(欒武子。中軍の将)が楚に報復しようとしましたが、韓厥(韓献子)が反対しました「必要ありません。彼等の罪を更に重くさせれば、民が離心します。民がいないのに誰と戦うことができるでしょう。」
 
[] 秋八月庚辰(初十日)、宋が共公を埋葬しました。
 
宋は華元を右師に、魚石(公子・目夷の曾孫)を左師に、蕩沢(名は山。公子・寿の孫。大司馬・虺の子。蕩は唐の音と近いため、「唐山」ともいいます)を司馬に、華喜(華父督の玄孫。華父督は家を産み、家は季老を産み、季老は司徒・鄭を産みました。鄭が華喜の父です)を司徒に、公孫師(荘公の孫。父は右師・戊)を司城に、向為人(向が氏。桓公の子孫)を大司寇に、鱗朱桓公が公子・鱗を産み、鱗が東郷を生み、東郷司徒・文を産み、文が大司寇・子奏を産みました。鱗朱は子奏の子、または鱗の孫ですを少司寇に、向帯桓公の子孫)を大宰に、魚府(魚石の弟)を少宰に任命しました。
 
共公死後、蕩沢が公室の権力を弱くするため、公子・肥(共公の太子)を殺しました。
華元が言いました「わしは右師であり、君臣の教導を担う立場にいるのに、今、公室が衰弱しながら正すことができない。わしの罪は大きい。職責を全うできないのに、寵を得て自分の利とするわけにはいかない。」
華元は晋に出奔します。
 
二華(華元と華喜)は戴族(戴公の子孫)で、司城(公孫師)は荘族(荘公の子孫)ですが、それ以外の六官(魚石・蕩沢・向為人・鱗朱・向帯・魚府)は桓族桓公の子孫)でした。
魚石が華元の出奔を止めようとすると、魚府が言いました「右師が還ったら蕩沢を討伐するでしょう。そうなったら禍は桓氏におよび、我々も滅ぼされてしまいます。」
魚石が言いました「右師が帰国して蕩沢を討伐したとしても、桓氏を全滅させることはない。そもそも彼は多くの大功を立てたので、国人に支持されている。彼を帰国させなければ、逆に桓氏の祀が宋で行われなくなるだろう(宋人の反感を買って桓氏が滅ぼされるだろう)。また、右師が桓氏を討伐したとしても、まだ戌(向戌。桓氏に属しますが、恐らく華元と近い関係にいます)がいる。我々が亡んでも桓氏の一部は残る。」
魚石は黄河沿岸で華元を説得しました。華元は蕩沢の討伐を請い、魚石は同意します。
華元は帰国すると華喜と公孫師に国人を率いさせて蕩氏を討たせました。子山(蕩沢)は誅殺されました。
 
魚石、向為人、鱗朱、向帯、魚府は桓氏として内乱の責任を負い、都城を出て睢水の辺に住みました。華元が使者を送って五人に帰国を勧めましたが、五人は拒否します。
冬十月、華元が自ら五人を説得しましたが、五人はやはり拒否しました。華元は一人で帰ります。
魚府が他の四人に言いました「今、右師に従わなければ、我々は本当に国都に帰れなくなる。右師は目が素早く動き、話す口調も速かった。他の考えがあるはずだ(本心から帰還を勧めているのではない)。我々を迎え入れる気がないようなら、今頃、車を馳せて帰っているだろう。」
五人が丘に登って遠くを眺めると、華元が急いで車を駆けさせる姿が見えました。
五人も車で華元を追いかけます。しかし華元は睢水の堤防を開いて道を塞ぎ、城門を閉じて城壁に登りました。五人が武力を用いることに備えて士卒に武装を命じます。
左師(魚石)・二司寇(向為人と鱗朱)、二宰(向帯と魚府)は楚に奔りました。
 
華元は向戌を左師に、老佐(戴公の子孫)を司馬に、楽裔(戴公の子孫)を司寇に任命して国内を安定させました。
 
[] 晋の三郤(郤錡・郤犨・郤至)が伯宗を害し、讒言して殺しました。伯宗と関係が深かった欒弗忌にも難が及びます。
伯宗の子・伯州犂は楚に奔りました。
 
韓厥(韓献子)が言いました「郤氏は禍を逃れることができない。善人とは天地の紀(綱紀)である。それを前後して殺害したのだから(伯宗と欒弗忌の二人を指します)、滅亡を待つしかない。
 
伯宗の生前、朝会に行くたびに妻が諫めて言いました「『盗賊は主人を憎み、民は上を嫌う(盗憎主人,民悪其上)』といいます。(身分が高いだけで既に嫌われているのに)あなたは直言を好みすぎます。必ず難が及ぶでしょう。」
 
『国語・晋語五』にも伯宗と妻の会話が書かれています。
ある日、伯宗が入朝した後、嬉しそうな顔をして家に帰りました。妻が理由を聞くと、伯宗が答えました「私が朝廷で話をしたら、諸大夫が皆、私を陽子のようだと評価したのだ。」
陽子というのは晋襄公時代の重臣・陽処父です。賢臣として名声を得ましたが、東周襄王三十二年621年)に殺されました。
妻が言いました「陽子は言葉が華麗でしたが中身はなく、直言を好みましたが策謀がありませんでした。だから禍難が身に及んだのです。あなたは何を喜んでいるのですか?」
伯宗が言いました「諸大夫と酒を飲んで話をするから、汝が自分で聞いてみよ。」
妻は「諾(はい)」と言って同意しました。
そこで、伯宗は宴を開いて諸大夫と酒を飲みました。宴が終わると妻が言いました「諸大夫は確かにあなたに及びません。しかし民(人)は才能がある者をいつまでも上に置いておこうとはしないものです。必ずあなたに禍難が及びます。早く優れた士を探して州犁(伯州犁。伯宗の子)の庇護を求めるべきです。」
伯宗は晋の賢人・畢陽を探し出して伯州犁を委ねました
後に伯宗は政争に遭って殺され、畢陽は伯州犁を守って楚に送りました。伯州犁は楚で太宰になりました

史記・晋世家』には「この事件があったため晋の国人が厲公に帰附しなくなった」とあります。
 
[] 十一月、晋の士燮、魯の叔孫僑如、斉の高無咎、宋の華元、衛の孫林父、鄭の公子・鰌および邾人が鍾離(恐らく呉と楚の国境。元は嬴姓の国)で呉と会見しました。ここから呉と諸侯の国交が正式に始まります(東周簡王元年・前585年参照)
 
[] 許霊公が鄭の圧力を恐れ、楚に遷都を願いました。
辛丑(初三日)、楚の公子・申が許を葉に遷します。この後、許は楚の附庸国になりました。
以前の許国の地は鄭に併合され、「旧許」とよばれるようになりました。