春秋時代129 東周簡王(十一) 鄢陵の戦い(前) 前575年(1)

今回は東周簡王十一年です。四回に分けます。
 
簡王十一年
575年 丙戊
 
[] 春正月、魯で雨が降り、木冰(雨や霧が寒冷によって凍り、樹木が白くなること)になりました。
 
[] 春、楚共王が武城から公子・成を鄭に派遣し、汝陰の田(汝水南の地)を譲ることで鄭との講和を請いました。
鄭は晋との同盟に背き、子駟(公子・騑)を楚共王に従わせて武城で盟を結びました。
 
[] 夏四月辛未(初五日)、滕文公が死に、子の成公・原が立ちました。
 
[] 鄭の公子・喜(子罕)が軍を率いて宋を侵しました。
宋の将鉏(楽氏の族)と楽懼(戴公の子孫)が汋陂(宋地)で鄭軍を破ります。
宋軍は夫渠まで兵を還しましたが、勝ちに驕って防備をしませんでした。
鄭は伏兵を設けて宋軍を急襲し、汋陵で宋軍を破って将鉏と楽懼を捕えました。
 
[] 衛が鄭を攻めて鳴雁に至りました。鄭が晋に背いたために招いた戦いです。
 
[] 晋厲公が鄭を討伐しようとしましたが、士燮(范文子)が反対して言いました「もしも晋国の願いを満足させようとしたら、諸侯が皆、晋に背き、晋の禍難は緩和されます。もしも鄭だけが背くのなら、晋国の憂いは待つまでもないでしょう。」
この部分は解釈が困難です。『春秋左氏伝(成公十六年)』の原文は「若逞吾願,諸侯皆叛,晋可以逞。若唯鄭叛,晋国之憂,可立俟也」です。『春秋左氏伝』の杜注(晋代・杜預の注釈)によると、当時の晋は厲公が無道で三郤が驕慢でした。この状況を継続して晋厲公や三郤の政治を満足させていたら、諸侯の離反を招くことになります。しかし、諸侯が全て離反した時、晋の統治者はやっと反省して晋を立て直そうとするはずなので、諸侯の離反は晋のためになります。現時点では、鄭だけが晋に背いているので、晋は立ち直ることができず、逆にますます驕慢になり、憂いが大きくなるばかりです。よって、「鄭一国が離反しただけで兵を動かす必要はない。もっと多くの諸侯が離反して、国人が目を覚ますまで放っておくべきだ」と解釈することができます。
 
以下に紹介する『国語・晋語六』にもこの時の事は書かれています。『春秋左氏伝』の内容(上述)とは少し異なります。
晋厲公が鄭を討とうとしましたが、士燮(范文子)が反対して言いました「我々の意志に任せたら、諸侯は全て叛すでしょう。しかしそのおかげで晋は治まります。諸侯が晋に帰順しているからこそ、問題が多発するのです。諸侯とは難の本です。鄭を得たら憂いがますます大きくなるのに、なぜ鄭を得ようとするのですか。」
郤至が言いました「それでは、(諸侯を多く従えている)王者(天子)は憂いが多いのですか。
士燮が言いました「我々は王者ですか?王者は徳を成しているので、遠人(遠方の諸侯)にもその土地の財物を献上させることができるのです。だから王者に憂いはありません。今、我々は徳が少ないのに、王者の功を求めています。だから憂いが多くなるのです。土地がないのに富を欲する者が、安楽でいられますか(基盤がないのに富を求めたら、休息の時を得ることもできません)。」
 
『国語・晋語六』には士燮の異なる発言も書かれています。
鄢陵の役で晋の大夫が鄭を得るために出兵を主張しました。しかし士燮が反対して言いました「人臣たる者は、内を親睦させてから外の事を図るという。内が親睦していないのに外の事を図ったら、必ず内争を招く。なぜ先に親睦を図らないのか。民衆の状況を確認してから出兵を決めなければ、国内の怨みを鎮めることはできない。」
 
以下、『春秋左氏伝』に戻ります。
士燮の反対に対し、欒書(欒武子)が言いました「我々の世代で諸侯を失ってはならない。鄭は必ず討伐するべきだ。」
多くの大夫が鄭討伐に賛成したため、晋厲公は出兵を決意しました。
中軍は欒書が将に、士燮が佐に(以前は荀庚が佐)、上軍は郤錡が将に(以前は士燮が将)、荀偃(荀庚の子)が佐に(以前は郤錡が佐)、下軍は韓厥が将に、新軍は郤犨が将に、郤至が佐になり、荀罃(下軍の佐)が留守します。
 
戊寅(十二日)、晋が兵を発しました。

当時の各国進攻図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
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[] 鄭は晋軍が動いたと聞いて楚に危急を告げました。姚句耳が楚に向かいます。
楚共王は鄭を援けるため、司馬・子反(公子・側)に中軍を、令尹・子重(公子・嬰斉)に左軍を、右尹・子辛(公子・壬夫)に右軍を指揮させました。
楚軍が申を通った時、子反が申叔時に会って聞きました「今回の出兵は如何だ?」
申叔時が答えました「徳・刑・詳(祥。順和)・義・礼・信とは戦の器(手段)です。徳によって恵みを施し、刑によって邪を正し、詳によって神に仕え、義によって利を作り、礼によって時に従い、信によって物を守るものです。民の生活が豊厚なら徳が正され、行動に利があれば事業に節が生まれ、時が順であれば(時節にかなっていれば)物が成就します。このようにすれば上下が和睦し、対立がなくなり、求めたものが全て具わり、誰もが極(準則)を知ることができます。だから『詩経(周頌・思文)』には『民衆を安定させれば、準則を知らない者はいなくなる(立我烝民,莫匪爾極)』とあるのです。そうなった時、神は福を降し、四季に災害がなくなり、民の生活は豊かになり、皆が和同して命を聞き、上命に従って尽力し、命をかけて不足を補おうとするのです。これが戦に勝つ理由です。しかし今の楚は、内はその民を棄て(徳がなく)、外は友好を絶ち、斎盟(盟約)を穢し、発言したことを守らず、時に逆らって師を動かし(春夏は農耕の季節です)、民を疲弊させて満足を得ようとしています。民は信を知ることなく、進んでも退いても罪を得る状況に置かれました。人々の憂いは頂点に達しています。誰が命をかけて戦うでしょう。あなたは努力しなさい。私が再びあなたに会うことはないでしょう。」
 
姚句耳は鄭に帰ってから子駟に言いました「楚の行軍は速く、険阻な地を越える時、整を失っています(行列が乱れています)。速すぎれば志(心。考え)を失い、不整なら列を失います。志と列を失って、どう戦うのでしょう。楚は恐らく頼りになりません。」
 
五月、晋軍が黄河を渡りました。楚軍が接近していると知って、士燮(中軍の佐)が言いました「我々が楚を避ければ、危険を緩和することができるでしょう。諸侯を糾合するのは(覇権を守るのは)、我々の能力でできることではありません。後に現れる能力がある者に任せましょう。我々群臣が和睦して主君に仕えることができれば、それで充分ではありませんか。」
欒書(中軍の将)は「不可」と言って進軍を続けました。

史記・晋世家』によると、この時、郤至はこう言いました「兵を発して(裏切った者)を誅すのに、強盛な敵を見てそれを避けたら、諸侯に号令できなくなる。」
 
[] 六月丙寅朔、日食がありました。
 
[] 晋の郤犨が衛と斉に行って出兵を請い、欒黶(欒書の子)も魯に出兵を求めました。
魯の仲孫蔑(孟献子)は「晋が勝つ」と予言しました。
 
[] 晋と楚が鄢陵(かつて鄭に滅ぼされた鄢国)で遭遇しました。
晋の士燮(范文子)は戦いに消極的でした。そこで郤至が言いました「韓の戦いでは恵公が敗北し(東周襄王八年・前645年。韓原の戦い)、箕の役では先軫が戦死し(東周襄王二十六年・前627年)、邲の師では荀伯(荀林父)が失敗しました(東周定王十年・前597年)。全て晋の恥です。あなたも先君の事(邲の戦い)は知っているでしょう。今回、我々が楚を避けたら、更に恥を増やすことになります。」
士燮が言いました「先君が何度も戦ったのには原因がある。秦・狄・斉・楚は皆強大だったので、尽力しなければ子孫がますます衰弱する恐れがあったのだ。しかし今、三強(秦・狄・斉)は既に帰順し、楚だけが敵対しているのだ。聖人しか内外の全ての憂患を除くことはできないという。我々は聖人ではないから、外が安寧になったら内に憂いを持つことになる。楚との戦いを放棄して、楚を外の戒懼とするべきではないか。」
この発言は上述の「若逞吾願,諸侯皆叛,晋可以逞。若唯鄭叛,晋国之憂,可立俟也」に共通しています。士燮は戦いそのものを恐れていたのではなく、戦勝によって晋厲公と三郤の驕慢や群臣の不和がますます増長することを恐れており、楚という大きな外敵がいれば、晋国内の矛盾に歯止めができると考えていました。
 
以上は『春秋左氏伝(成公十六年)』の記述です。『国語・晋語六』にも士燮の言葉が紹介されていますが、別の場所で紹介します。

春秋時代 士燮の諫言




次回に続きます。

春秋時代130 東周簡王(十二) 鄢陵の戦い(中) 前575年(2)