春秋時代 士燮の諫言

鄢陵の戦いの前、晋の士燮が戦いに反対しました。

春秋時代129 東周簡王(十一) 鄢陵の戦い(前) 前575年

ここでは士燮の言葉を『国語・晋語六』から紹介します。
 
鄢陵の役で晋が鄭を攻撃したため、荊(楚)が救援に来ました。晋の大夫達は楚との決戦を望みましたが、士燮が反対してこう言いました「人の君となる者は刑によって国内の民を正し、それができてから外に対して武を振るうといいます。これが内を和し、外を威す(畏れさせる)というものです。しかし今、我が国の司寇(法官)は日々刀鋸(民に用いる刑具)を用いており、それらは既に破損していますが、斧鉞(貴族・大臣に用いる刑具)は使われていません。国内で正しい刑が行われていないのに、なぜ外に用いようとするのですか。戦とは刑です。刑とは過ちを罰するためにあります。我が国では、過ちは大臣が招いているのに、(刑罰に対する)怨みは細民(庶民)から出ています。よって、まずは恩恵を用いて怨みを除き、(大臣の)過ちを厳しく罰しなければなりません。細民に怨みがなく、大臣に過ちがなくなってから、やっと武を用いて、国外で服さない者に刑を加えることができるのです。今、我が国では大人(大臣・貴族)に刑が及ばず、小民を厳しく罰していますが、このような状況で誰が武を行うのでしょうか(誰が国のために戦うのでしょうか)武を行うことができないのに(民に戦わせることができないのに。民心が離れているのに)勝ったとしても、それは幸徼倖。幸運)に過ぎません。幸によって政治をしたら、必ず内憂を招きます。そもそも、聖人だけが外患も内憂も除くことができるのです。聖人でなければ必ずどちらかに偏ります。外患に偏るのならまだ救いがありますが、内に病を得るようなら、解決は困難です。荊と鄭は外患に過ぎないので、今は相手にするべきではありません。
 
『国語・晋語六』からもう一つ紹介します。本編を含めて今まで紹介した内容が繰り返されています。
鄢陵の役では欒書(欒武子)が上軍の将に、士燮(范文子)が下軍の将になりました(『春秋左氏伝』では、欒書は中軍の将、士燮は中軍の佐です。恐らく『国語』が誤りです)
欒書が楚軍と戦おうとしましたが、士燮が反対して言いました「厚徳の者だけが多福を受けることができ、無徳の者が大衆を服従させたら、自らを傷つけるといいます。晋の徳を考えると、諸侯が皆叛したら、やっと国内を少し安定させることができます。諸侯を服従させているから問題が多くなるのです。諸侯とは難の本です。そもそも、聖人だけが外患も内憂も防ぐことができるのです。聖人でなければ、外患がなければ内憂を招きます。荊(楚)と鄭は外患に過ぎないので、放棄するべきです。そうすれば(戦いがなければ争う物もないので)諸臣が国内で和睦できます。今、我々が荊と鄭に勝ったとしたら、国君は自分の智謀と功績を誇り、教化を疎かにし、税を重くし、私暱(寵臣)の俸禄や婦人(寵妾)の田地を増やすことになるでしょう。そうなったら、諸大夫の田を奪わなければ、増やした俸禄や田地を満足させることができません。諸臣の中で家財を自ら棄てて引退できる者が、何人いるでしょうか。もしも戦に敗れるようなら、それは晋国の福となります。もしも戦に勝ったら、正常な土地の分配状況が乱されます。その害は非常に大きいので、戦うべきではありません。」
欒書が言いました「昔、韓の役(韓原の戦い)では恵公が還れず、邲の役では三軍が壊滅し、箕の役では先軫が復命できなかった(戦死した)。これは晋国にとって三つの大きな恥辱だ。今、わしは晋国の政を任されている。晋の恥を晴らそうとせず、蛮夷(楚)を避けて恥を重ねることはできない。後患があるとしても、それはわしが考えることではない。」
士燮が言いました「福を選ぶ時は重いものを選び、禍を選ぶ時は軽いものを選ぶものです。福は軽いものを選んではならず、禍は重いものを選んではなりません。晋国には既に大恥があります。君臣が一致しないことで諸侯の笑い者になるくらいなら(韓の役では恵公が慶鄭の進言を聞かなかったため捕虜になり、邲の役では先縠と荀林父が対立して大敗し、箕の役では先軫が襄公に無礼を働いたことが原因で戦死しました)、蛮夷を避ける恥を選ぶ方がましです。」
欒書は士燮の意見を退け、鄢陵で楚軍と戦って大勝しました。
 
その結果、晋厲公は自分の智謀と功績を自慢し、教化を疎かにし、税を重くし、寵臣を厚く遇し、三郤(郤錡・郤犨・郤至)を殺してその死体を朝廷に並べました(東周簡王十二年・前574年)。郤氏の妻妾は厲公の後宮に入れられ、財産は婦人に分けられます。
しかし、晋の国人は厲公の行いに反感を持ち、ついに(晋の旧都)で殺しました。
厲公の死は、徳がないのに大きな功業を立て(狄や秦・楚を破り、度々諸侯と会盟しました)、多くの諸侯を帰順させたために招いたといえます。