春秋時代131 東周簡王(十三) 鄢陵の戦い(後) 前575年(3)

今回も東周簡王十一年の続きです。
 
[十二] 六月癸巳(二十八日。前回の内容は二十九日のことです。一日前にさかのぼります)、楚の潘尫の子・潘党と養由基が射術の腕を披露するため、甲(鎧)に矢を射ました。矢は七札(層)を貫きます(当時の革甲は通常、内外七層になっていました)。二人はそれを共王に見せて言いました「主君にはこの二臣がいます。戦を憂いる必要はありません。」
すると共王が怒っていました「大辱国!(直訳すると「大いに国を辱める」ですが、恐らく、当時、人を罵倒する時に使われていた言葉なので、訳せません。)明日の朝には決戦を控えている。汝等が矢を射たら、その芸によって死ぬであろう!」
決戦を直前にしているのに、遊びで技を自慢している二人に腹を立てたようです。
 
晋の呂錡(魏錡)が夢で月を射て命中させました。しかし自分自身は泥にはまります。夢の内容を占うと、占者はこう言いました「姫姓は日(太陽)で、異姓は月です。夢で見た月は楚王に間違いありません。戦で矢を射て楚王に命中しますが、退いて泥にはまったので、あなたも死ぬはずです。」

翌日、晋・楚両軍が激突しました。楚共王の中軍が晋の全軍から集中攻撃を受けます
呂錡が共王を見つけて矢を射ると、矢は共王の目に命中しました。共王は養由基を招いて二矢を与えます。養由基が射た矢は呂錡の首に中り、呂錡は弢(弓袋)に伏して死にました。養由基は残った一矢を持って共王に復命しました。
 
郤至は楚共王の親兵に三回遭遇して三回とも駆逐しました。
但し、郤至は共王を見つける度に、車から下りて、兜を脱ぎ、戦いを停止して速足で通りすぎました。貴人の前では速足で移動するのが礼儀です。
楚共王は工尹・襄(工尹は官名。襄は名)に弓を持たせて郤至を探させ、郤至にこう伝えました「戦いが激しくなった時、韎韋(赤い牛皮)の跗注(軍服)を着ていた者は君子である。不穀(国君の自称)を見たらすぐ車から降り、小走りで去った。負傷していないか心配だ。」
郤至は工尹・襄に会うと兜を脱いで楚共王の言葉を聞き、こう答えました「君王の外臣(楚王にとって晋に仕える郤至は外臣になります)・至は、寡君(自分の君主)の戎事(戦争)に従い、寡君の霊(福)のおかげで、甲冑を身につけています。よって君命(楚共王の慰問)を拝受することはできません。ただ、傷を負っていないことを報告し、使者に対して三粛をとることをお許しください。」
「三粛」とは三回粛礼することです。粛礼というのは立ったまま手を胸の前で合わせ、体を少し前に倒して手を上下させる拝礼です。郤至は軍装をしており、頓首等の礼がとれないため、使者に向かって三回粛礼を行ってから去りました。
君子(知識人)は郤至を「勇敢なうえ、礼(軍礼)を理解している」と評価しました。
 
楚共王が負傷し、楚軍が劣勢になりました。鄭軍も敗退します。
晋の韓厥が鄭成公を追撃しました。御者の杜溷羅が聞きました「速く追いますか?鄭伯の御者は頻繁に後ろを見ており、注意が馬に向いていません。追いつけます。」
韓厥が言いました「二回も国君を辱めることはできない。」
一回目は、鞍の戦いで韓厥が斉頃公を追いつめたことを指すという説と、この戦い(鄢陵の戦い)で既に楚共王の目を負傷させたことを指すという説があります。
韓厥は追撃を止めました。
郤至も鄭成公を追撃しました。車右・茀翰胡が言いました「軽兵を間道に送って迎撃させましょう。私が後ろから迫って車に乗り移り、捕虜にしてみせます。」
郤至が言いました「国君を傷つけたら刑を受けるものだ。」
郤至も追撃を止めました。
 
逃走する鄭成公の御者・石首が言いました「衛懿公は自分の旗を棄てなかったため、熒で敗れました(熒沢の戦い。東周恵王十七年・前660年)。」
石首は旗を(矢袋)の中に隠しました。
車右の唐苟が石首に言いました「あなたは主君の側におり、敗軍の一人として主君を守ることに専心している。私はあなたに及ばない。あなたが主君を難から逃れさせてくれ。私はここに残る。」
唐苟は晋軍の追撃を防ぐために留まり、戦死しました。
 
楚軍は地形が険しい場所に追いつめられました。叔山冉(叔山が氏)が養由基に言いました「君命があるとはいえ(共王に「矢を射たら芸によって死ぬ」と言われたことを指します)、国のためにあなたは矢を射るべきです。」
養由基が矢を二本射ると、どちらも命中して晋兵を殺しました。
叔山冉は晋兵を捕まえ、晋軍に向かって投げます。投げられた晋兵は戦車に中り、車軾(車前の横木)を折りました。
晋軍は動きを止めましたが、楚の公子・茷が捕えられました。
 
欒鍼が子重の旌(旗)を見つけたため、厲公に言いました「楚人(恐らく捕虜)があの旌を子重の麾(旗印。楊伯峻の『春秋左伝注』によると、旗に将の姓氏が書かれるのは戦国時代以降のことのようです)だと言っています。あそこに子重がいます。以前、臣が使者として楚に行った時、子重が晋国の勇(強さの表れ)を質問したので、臣は『衆が整であること(「好以衆整」。規律正しいこと)』と答えました。子重が更に聞くので、臣は『悠々としていること(好以暇)』と答えました。今、両国が戎を治めましたが(会戦しましたが)、行人(使者。戦の前に会戦の日時を約束する使者を送ることが礼とされました))を送っていないので、整とはいえません(礼に則っているとはいえません)。事に臨んでかつての言葉を守らなかったら(整がなかったら)、悠々としているとはいえません。使者を選んで子重に酒を献上させてください。」
厲公は同意しました。
欒鍼は厲公の車右を務めており、離れることができないため、行人を選んで榼(酒器)を子重に届けさせました。
行人が子重に言いました「寡君に使者が不足し、鍼(欒鍼)には矛を持たせているため(車右に任命したため)、あなたの従者を慰労することができません。そこで私に飲物を届けさせました。」
子重が言いました「夫子(彼。欒鍼)は以前、楚でわしと話をしたことがある。きっとそのためだろう。彼の記憶力も悪くない。」
子重は酒を受け取って飲み、使者を帰らせて再び戦鼓を叩きました。
戦闘は朝から始まり、星が見える頃になっても続いています。
 
楚の子反が軍吏に負傷者の確認をさせ、卒乗(歩兵と車兵)を補い、武器を直し、車馬を配置しました。将兵には鶏が鳴いたら食事を取るように命じます。
晋軍は楚軍が立ち直ることを心配しました。
そこで、苗賁皇が全軍に宣言しました「車を検査して兵を補充し、馬に食糧を与えて武器を直し、陣を整えて隊列を固め、食事を充分にとって再び祈祷し、明日、改めて戦おう。」
晋軍はわざと警備を緩めて楚の捕虜を逃がします。
楚共王は捕虜の情報を聞いて子反を呼びました。ところがこの時、穀陽豎(または「豎穀陽」「豎陽穀」)が子反に酒を献上し、子反は酔って共王に会えませんでした。
共王は「天が楚を敗れさせた!余はここで待機しているわけにはいかない」と言うと、夜の間に撤退しました。
 
晋軍は楚陣に入り、三日間に渡って楚の食糧を消費しました。
士燮が戎馬(晋厲公の車馬)の前に立って言いました「主君は幼く、諸臣も不才なのに、何の福によってここまで来ることができたのでしょうか。『周書尚書・康誥)』にはこうあります『天命が変化しないことはない(唯命不于常)』。また、『天道には親しい者がなく(公平であり)、徳があれば福を授かることができる(天道無親,唯徳是授)』ともいいます。天が晋に福を与えることで、楚を激励しているのではないでしょうか。主君と二三臣(諸臣)は戒めなければなりません。徳とは福の基礎です。徳がないのに福が盛んになるのは、基礎がないのに壁が厚くなるのと同じです。それが崩壊する日は近いはずです。」
 
楚軍が撤退して瑕に至った時、共王が使者を送って子反を招き、こう言いました「先大夫(子玉)が師徒(軍)を失った時(城濮の戦い)、国君(成王)は軍中にいなかった(だから子玉が敗戦の責任を取った)。今回の戦いでは、汝に過ちはない。(軍中で指揮をとった)不穀(国君の自称。共王)の罪である。」
子反は再拝稽首して言いました「君王が臣に死を賜れば、その死は不朽のものとなります。臣の卒(兵)は確かに奔走しました。臣の罪です。」
子反を嫌っている子重も使者を送って子反にこう伝えました「以前、師徒を滅ぼした者(子玉)を、汝も知っているであろう。なぜ自分のことを考えないのだ。」
子反が言いました「先大夫の例がなくても、大夫(子重)が側(子反)に死を命じるのなら、側は死を恐れて不義に陥ることはありません。側は君師を亡ぼしました。死ぬことを忘れたとお思いですか。」
共王は子反の自殺を止めようとしましたが、間に合いませんでした。
以上は『春秋左氏伝(成公十六年)』の記述です。『史記・楚世家』では、怒った共王が子反を射殺して兵を還したと書いています。

史記・晋世家』によると、鄢陵の戦いで勝った晋は諸侯に威を振い、天下に号令して再び権を求めるようになりました

[十三] 鄢陵の戦いの日(もしくは翌日)、晋に招かれた斉の国佐と高無咎が軍を率いて鄢陵に到着しました。衛献公は衛を出たばかりで、魯成公は壊隤(魯都・曲阜内)を出たところでした。
 
魯の叔孫僑如(宣伯)は穆姜(成公の母)と姦通しており、季氏(季孫行父)と孟氏(仲孫蔑)を排斥してその家財を奪うことを考えていました。
成公が出征する時、穆姜が見送りました。穆姜はその機会を利用して、成公に季氏と孟氏の排斥を要求します。成公が「帰国してから命に従います」と答えると、穆姜は怒って公子・偃と公子・鉏(どちらも成公の庶弟)を指さし、「あなたが同意しないのなら、彼等が国君になります」と言いました。
成公は壊隤に入ると宮室の警備を強化し、各地に守りを配置し、仲孫蔑に公宮を守らせてから鄢陵に向かいました。出発が遅くなったのはそのためです。

鄢陵の戦いの地図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
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次回に続きます。

春秋時代132 東周簡王(十四) 叔孫僑如の亡命 前575年(4)