春秋時代132 東周簡王(十四) 叔孫僑如の亡命 前575年(4)

今回で東周簡王十一年が終わります。
 
[十四] 秋、晋侯(厲公)・魯公(成公)・斉侯(霊公)・衛侯(献公)と宋の華元および邾人が沙隨(宋地)で会見しました。鄭討伐の相談がされます。
これ以前に魯の叔孫僑如(宣伯)が使者を送って晋の郤犨にこう伝えました「魯侯は壊隤に待機しており、晋・楚の勝負がつくのを待っています(積極的に晋に協力するつもりはありません)。」
郤犨は新軍の将で、晋の公族大夫として東方諸侯を主宰しています。叔孫僑如が賄賂を贈ると、郤犨は晋厲公の前で魯成公を讒言しました。そのため、沙随の会見で晋厲公は魯成公に会いませんでした。
 
[十五] 曹人が晋にこう伝えました「我が国の先君・宣公が世を去ってから、国人(曹人)は『(国君が死に、太子が殺されて新君が立ったが)憂いはまだ終わっていない』と噂していました。噂通り、貴国が寡君(曹成公)を討伐し、曹国の社稷を治めていた公子が出奔しました(子臧が宋に出奔しました)。これは曹の滅亡を意味します。(禍の原因は)先君に罪があったからでしょうか。もし罪があったとしても、貴君は先君を諸侯の会に参列させました(先君の地位を認めていました)。君主とは徳と刑を誤らないから、諸侯の伯(覇者)になれるのです。敝邑(曹国)だけが棄てられるのはなぜでしょうか。以上の内容は敢えて諸国に公開せず、貴国だけに伝えます。」
 
[十六] 魯成公が沙随の会から還りました。
 
[十七] 七月、魯公(成公)が尹子(尹武公)、晋侯(厲公)と斉の国佐および邾人と会し、鄭を攻撃しました。
魯成公が出発する時、穆姜が前回と同じように命じましたが、成公は宮中の警備を厚くして出征しました。
 
晋等の諸侯の軍は鄭の西にいましたが、魯軍は鄭国の領土を越えず、鄭東の督揚に駐軍しました。
魯の公孫嬰斉(子叔声伯)が叔孫豹(僑如の弟。楊伯峻の『春秋左伝注』によると、叔孫豹は久しく斉にいたので、この時、国佐に従って斉の陣中にいた可能性があります)を晋陣に送り、魯軍を迎え入れるように請いました。公孫嬰斉は鄭の郊外で晋のために食事を用意します。晋軍が魯軍を迎えに来るまでの四日間、公孫嬰斉は食事をとらず、晋の使者が到着して食事をしてから、やっと自分も食事をしました。
 
諸侯は制田に遷りました。
晋を守っていた下軍の佐・荀罃(知武子)も参戦し、諸侯を率いて陳を攻撃します。連合軍は鳴鹿に至ってから蔡を侵しました。
その後、諸侯は潁上(潁水沿岸)に駐軍します。
戊午(二十四日)、鄭の子罕が夜襲を行い、宋・斉・衛の軍が壊滅しました。
 
[十八] 曹人が再び成公の釈放を晋に請いました。
晋厲公は宋に使者を送って亡命中の子臧にこう伝えました「汝が帰国したいなら、わしは汝を曹に帰らせて国君に立てよう。」
子臧は宋から曹に帰ります。
しかし晋は曹成公も釈放して京師から曹に帰らせました。子臧は自分の邑と卿の官職を全て返上し、出仕しなくなりました。
 
[十九] 魯の叔孫僑如が使者を送って晋の郤犨に伝えました「魯には季氏と孟氏がいます。晋に欒氏や范氏がいるのと同じです。魯の政令は彼等によって制定されています。彼等はこう言っています『晋の政治は多門(複数の卿の家系)から出ているから統一できない。よって、晋に従うべきではない。斉や楚に従って亡ぼされることがあっても、晋に仕えるのはやめよう。』もしも貴国が魯国において志を達成させたいなら(魯を服従させたいのなら)、行父(季文子。季孫行父。連合軍に従軍しています)を留めて殺してください。私が蔑(孟献子。仲孫蔑。魯の宮殿を守っています)を殺して晋に服従します。そうすれば魯に二心がなくなり、魯の二心がなくなれば、小国も必ず睦みます(晋に服従します)。逆にそうしなければ、行父が帰国してから必ず晋に背きます。」
九月、晋が季孫行父を苕丘(または「招丘」。晋地)で捕えました。
 
魯成公が帰路につき、鄆で待機しました。そこで公孫嬰斉(子叔声伯)を晋陣に送り、季孫行父の釈放を求めます。
公孫嬰斉の外妹は郤犨に嫁いでいました(東周簡王六年・前580年参照)。郤犨は公孫嬰斉を誘ってこう言いました「仲孫蔑を除き、季孫行父を留めたら、わしが汝に魯国の政権を与え、魯の公室よりも汝と親しくしよう。」
公孫嬰斉が答えました「僑如の情報(穆姜と姦通し、政権を狙っていること)はあなたも聞いているはずです。もし蔑(仲孫蔑)と行父(季孫行父)を除いたら、貴国は魯国を棄てて、寡君(魯成公)の罪を得ることになります。もしも魯国を棄てず、周公(魯国の祖)の福を求め、寡君を晋君に仕えさせることができるようなら、あの二人は魯国社稷の大切な臣となります。朝、彼等を滅ぼしたら、魯は夕に亡びます。魯は貴国の仇讎(斉・楚)と隣接しているので、魯が亡んだら讎となります(斉・楚の領土となります)。その時、貴国が魯を治めようとしても、手遅れです。」
郤犨が言いました「わしが汝のために(晋君に)邑を請おう。」
公孫嬰斉が答えました「嬰斉(私)は魯の常隸(奴隷。ここでは小臣の意味)です。大国に頼って厚禄(邑)を求めるつもりはありません。今回、寡君の命を奉じて請願に来ました。これが受け入れられるのなら、吾子(あなた)からの恩賜は充分足ります。それ以外に求めるものはありません。」
士燮が欒書に言いました「季孫は魯において二君(宣公と成公)の相を務めています。その妾は帛を着ることなく、馬は粟を食べることがありません。これは忠と言うべきです。讒慝(讒言姦悪)を信じ、忠良を棄てて、諸侯にどう対するつもりですか。子叔嬰斉(公孫嬰斉)は君命を奉じて私欲がなく、国家に対して二心がなく、自分の身を図る時もその君を忘れません。彼の請いを拒否したら、善人を棄てることになります。よく考えるべきです。」
晋は魯との関係回復に同意し、季孫行父を釈放しました。
 
公孫嬰斉が帰国してから、鮑国鮑文子。鮑叔牙の玄孫。斉を去って魯にいました)が聞きました「あなたはなぜ苦成叔郤犨)があなたのために邑を請うことを断ったのですか。本当に謙譲のためですか。それとも、彼には邑を請うことができないと判断したからですか。」
公孫嬰斉が言いました「太い棟梁でなければ、重さに堪えることができないという。最も重いものといえば国を越えるものはなく、最も大きな棟梁といえば、徳を越えるものはない。苦成叔は両国(晋・魯)のことに干渉しながら、大きな徳をもっていない。だからその地位は長くなく、近いうちに滅ぶはずだ。(私が彼の話を避けたのは)疫病にかかった人から、私に疫病がうつされるのを恐れるようなものだ。苦成氏には三つの滅亡の理由がある。徳が少ないのに国君の寵が多く、位は下なのに上政を望み(国政を掌握することを望み)、大功がないのに大禄を欲していることだ。これらは全て怨みを集めることになる。晋の国君は驕慢で寵臣が多いので、敵(楚)に勝って帰ったら新家を立てるだろう(寵臣を大夫に立てるだろう。大夫になることを「家を立てる」といいます)。新家を立てても、民の支持がなければ旧卿を除くことはできない。民の支持を得るには、怨みを多く集めている者を討伐しなければならない。郤氏は三つの怨みを集めており、既に多いといえるだろう。彼自身が自分の身を守ることができないのに、人に邑を与えることができるはずがない。」
鮑国が言いました「私は確かにあなたに及びません。もしも鮑氏に禍の予兆があったとしても、私では気がつけないでしょう。あなたは遠謀によって邑を断りました。長くその地位を保つことができるはずです。」
 
冬十月乙亥(十二日)、魯が叔孫僑如を追放し、諸大夫と盟を結びました。叔孫僑如は斉に奔りました。
 
十二月乙丑(初三日)、魯の季孫行父と晋の郤犨が扈(鄭地)で盟を結びました。
 
[二十] 魯成公が魯都・曲阜に入りました。
乙酉(二十三日)、成公が庶弟の公子・偃を殺しました。成公の庶弟は公子・偃と公子・鉏の二人がいましたが、公子・偃だけが殺されたのは、叔孫僑如の陰謀に加担していたためのようです。
叔孫豹が斉から呼び戻され、叔孫僑如に代わって叔孫氏を継ぎました。
 
[二十一] 斉の声孟子(宋女。斉霊公の母)が、魯から亡命してきた叔孫僑如と姦通しました。声孟子は叔孫僑如を上卿の高氏と国氏の間に置こうとします。
しかし叔孫僑如は「同じ罪(国君の母と姦通して権力を望むこと)を犯してはならない」と言って衛に奔りました。
衛も叔孫僑如を各卿の間におきました。
 
[二十二] 晋厲公が郤至を周に送って楚から得た戦利品を献上させました(翌年触れます)
郤至が単襄公と話をした時、しばしば自分の功績を自慢しました。
単子が諸大夫に言いました「温季(郤至)は亡びるだろう。七人の下にいながら(郤至は新軍の佐なので、上に七人います。欒書・士燮・郤錡・荀偃・韓厥・荀罃・郤犨です)、上の功績を覆おうとしている。怨みが集まれば乱の本になり、怨みが多くなれば乱の階段を登ることになる。どうして官位を保つことができるだろう。『夏書尚書・五子の歌)』に『怨みとは見える場所だけにあるのか。見えない怨みを考えなければならない(怨豈在明,不見是図)』とある。些細なことに対しても慎重でなければならないのだ。今、郤至は見えない怨みも明らかにさせている。これでいいはずがない。」
 
以上は『春秋左氏伝(成公十六年)』の記述です。『国語・周語中』には更に詳しい記述がありますが、別の場所で書きます。

春秋時代 郤至の入朝

 
 
 
次回に続きます。

春秋時代133 東周簡王(十五) 斉の内乱 前574年(1)