春秋時代133 東周簡王(十五) 斉の内乱 前574年(1)

今回は東周簡王十二年です。二回に分けます。
 
簡王十二年
574年 丁亥
 
[] 春正月、鄭の子駟が晋の虚と滑を侵しました。
衛の北宮括(または「北宮結」。成公の曾孫)が晋を援けるため、鄭を攻めて高氏に至りました。
 
夏五月、鄭が太子・頑と大夫・侯を人質として楚に送りました。楚の公子・成と公子・寅が兵を率いて鄭を守りました。
 
[] 周の尹子(尹武公)と単子(単襄公)が晋侯(厲公)・魯公(成公)・斉侯(霊公)・宋公(平公)・衛侯(献公)・曹伯(成公)および邾人と共に鄭を攻撃し、戲童から曲洧に至りました。
 
[] 晋の士燮(范文子)は鄢陵の戦い(前年)から帰ると自分の家の祝宗(祝史の長。祭祀を掌る官)に早死を祈らせて言いました「国君が驕侈なのに敵に勝ってしまった。これは天が晋の疾(欠陥)を増やそうとしているからだ。禍難はすぐ訪れる。わしを愛する者はわしが速やかに死ぬことを祈れ。難が及ばないのは范氏の福となる。」
 
以上は『春秋左氏伝(成公十七年)』の記述を元にしました。『国語・晋語六』には、士燮の言葉が少し詳しく紹介されています。
 
鄢陵から帰った士燮が宗人(礼楽の官)と家祝(祭祀の官。『春秋左氏伝』では「祝宗」で一つの官)に言いました「主君は驕慢で奢侈なのに、戦功を立ててしまった。徳によって勝った者でも、功を失うことを恐れるのだから、驕慢奢侈な者ならなおさらそうでなければならない。しかし主君は嬖臣・寵妾が多く、凱旋してからは彼等に与える賞賜がますます増えるだろう(もしくは「このような状況がますますひどくなるだろう」)その結果、必ず難を招くことになる。わしは禍が自分に恐れることを恐れる。よってわしの宗人と祝史よ、わしのために死を祈ってくれ。先に死ねば難から逃れることができる。」
 
六月戊辰(初九日)、士燮が死にました。自殺したという説もあります。
年末、郤氏の乱が起きます。
 
[] 乙酉(二十六日)、諸侯が柯陵(または「嘉陵」「加陵」)で盟を結び、二年前の戚の盟を確認しました。
 
『国語・周語下』に柯陵の会の時のことが書かれています。但し、『国語』はこれを前年(簡王十一年)のこととしています。
周の卿士・単襄公が晋厲公に会いました。厲公は視線が遠く、歩く時は足を高く挙げています。
その後、単襄公は郤錡、郤犨、郤至ともそれぞれ話をしました。郤錡の言は人を侮って攻撃し、郤犨は遠まわしに話をし、郤至は自分の功績を誇りました。
斉の国佐と話しをすると、国佐は遠慮なく何でも話しました。
魯成公が単襄公に会い、晋難(晋が魯を攻撃しようとしていること)と郤犨の讒言(前年の沙隨の会で、郤犨が晋霊公に魯成公を讒言したため、晋霊公は魯成公に会いませんでした)について相談しました。
単襄公が言いました「魯君が心配することはありません。晋はもうすぐ乱が起きます。その君と三郤が難に遭うはずです。」
魯成公が言いました「寡人(国君の自称)は晋の難から逃れられないことを恐れていましたが、あなたは『晋に乱が訪れる』と言いました。あなたは天道を知ることができたのですか。それとも人事から知ることができたのですか。」
単襄公が言いました「私は瞽(楽師)でも史(太史)でもないので、天道を知ることはできません。晋君の様子と三郤の言葉を聞いて、禍が訪れると知ったのです。君子は目によって体を定め、足によってそれに従わせます(目によって行動の方向が決められ、足はそれに従います)。その様子から心を知ることができるのです。だから、目で見る時の視線には義が必要であり(目の動きが適切であり)、足は目の動きに対応していなければなりません。今の晋侯は視線が遠く、足が高かったので、目は体になく(目が行動を決めることができず)、足は目に従っていないことがわかりました。これは心中に別の想いがあったからです。目と体が対応していないのに、長久を得ることはできません。諸侯を糾合するというのは、国の大事であり、そこから存亡を観察することができます。国に災難がなければ国君は会に参加し、全ての言動において指摘されることがなければ、その国君の徳が明らかになります。視線が遠いのは、日々義を絶つことです(目の動きが相応しくなく、体を制御することができないことです)。足が高いのは、日々徳を棄てることです(行動に規範がなく、徳行がないことです)。言葉が一定でないのは、日々信を棄てることになります。淫(乱言。讒言)を聞き続ければ、日々名声から離れることになります。目とは義を示すものであり、足(体)とは徳を行うものであり、口とは信を守るものであり、耳とは名(是非)を聴き分けるものなので、全て慎重に使わなければなりません。この四者のうちの一つでも失ったら、本人が咎を受けます。四者とも失ったら、国が禍を受けます。晋侯は二つ(目と足)を失っているので、その身に禍が訪れると言ったのです。
郤氏は晋の寵人であり、三卿と五大夫を輩出しました。だからこそ戒め恐れるべきです。位が高い者は失墜しやすく、厚味(重禄)は害を受けやすいものです。ところが今、郤伯(郤錡)の言は人を攻撃し、(郤犨)の言は遠回りしており、(郤至)の言は自分の功績を誇示しています。人を侵したら傷つけ、遠回しな言葉は(真実から離れて)人を誣し(騙し)、自慢は他の人の功績を覆い隠すことになります。郤氏は寵を受けていながら三怨を犯しているので、彼等の言動を我慢できる者はいなくなるでしょう。
斉の国子(国佐)にも禍が訪れます。彼は淫乱の国にいながら、直言を好んでいます。人の過ちを直接指摘するのは、怨みの本になります。善人しか直言を受け入れることができません。斉にそのような人がいるでしょうか。自分の国に徳があり、隣国が徳を修めなかったら、自国が福を受けるといいます。今、貴君は晋の圧力を受け、しかも斉が隣接しています。斉と晋に禍があれば、貴君が伯(覇者)になれるでしょう。憂いるべきは自分に徳があるかどうかであり、晋を心配する必要はありません。長翟の人(魯の叔孫僑如。僑如は元々長翟の主の名だったので、「長翟の人」とよびました。東周頃王三年・616年参照)利を好み不義を行い(穆姜と私通し、魯の政権を掌握しようとしています)、淫を利しています(姦悪なことを増長させています)。彼を放逐するべきではありませんか(実際には、叔孫僑如は前年、追放されています。しかし『国語』は柯陵の会を前年のこととしており、会から帰ってから成公が叔孫僑如を追放したと書いています)。」
 
[] 楚の子重が鄭を援けて首止に駐軍しました。
晋を中心とする諸侯は兵を退きました。
 
[] 秋、魯成公が帰国しました。
 
[] 斉の慶克が声孟子(斉霊公の母)と私通しました。
ある日、慶克が一人の婦人と一緒に女性の衣を被って輦に乗り、閎(宮中の小門)を通りました。声孟子に会うためです。
しかし鮑牽(鮑叔牙の曾孫)がそれを見つけて国佐(国武子)に報告したため、国佐は慶克を召して譴責しました。慶克は家にこもり、声孟子に会わなくなります。
 
久しく慶克が会いに来ないので、声孟子が理由を尋ねると、慶克は「国子が私を譴責したのです」と伝えました。声孟子は激怒しました。
この時、国佐は霊公の相として諸侯の会盟に参加していました。高無咎と鮑牽が国を守っています。
霊公が帰路に着くと、高無咎と鮑牽は霊公の安全を守るために警備を強化し、城門を閉じて通る者を検査し始めました。それを知った声孟子が讒言して言いました「高・鮑の二人は国君を国に入れず、公子・角(頃公の子)を立てるつもりです。国子も陰謀を知っています。」
 
秋七月壬寅(十三日)、斉霊公は鮑牽を刖の刑(脚を切断する刑)に処し、高無咎を追放しました。高無咎は莒に奔ります。
高弱(高無咎の子)が盧(高氏の采邑)で叛しました。
 
以前、鮑牽の弟・鮑国が鮑氏を去って魯の施孝叔(東周簡王六年・前580年参照)の家臣になりました。
施氏が家宰(卿大夫の家を総監する者)を誰にするか卜った時、匡句須(匡が氏)が吉と出ました。施氏の宰は百室(百戸)の邑を持つことになっていたので、匡句須に邑を与えて宰に任命します。しかし匡句須は鮑国に宰と邑を譲りました。
施孝叔が言いました「汝は卜で吉と出た。」
匡句須が言いました「忠良に譲ることほど大きな吉はないでしょう。」
鮑国は施氏に仕えて忠を尽くし、名声を得ました。
鮑牽が刑を受けると、斉人は鮑国を魯から呼び戻して鮑氏の家系を継がせました。
 
[] 九月辛丑(十三日)、魯が郊祭を行いました。
 
[] 晋厲公が鄭を攻めるため、荀罃を魯に送って出兵を請いました。
 
[] 冬、周の単子(襄公)と晋侯(厲公)・魯公(成公)・宋公(平公)・衛侯(献公)・曹伯(成公)および斉人・邾人が鄭を討伐しました。
十月庚午(十二日)、鄭を包囲します。
楚の公子・申が鄭を援けるため、汝上(汝水沿岸。楚と鄭の国境)に駐軍しました。
 
十一月、諸侯が兵を還し、魯成公も帰国しました。
 
[] 数年前、魯の公孫嬰斉(声伯)が夢で洹水を渡り、ある人から瓊瑰(珠)を与えられました。公孫嬰斉がそれを食べると、泣いて流れた涙が全て珠石になって懐に溜まります。公孫嬰斉が歌いました「洹の水を渡り、瓊瑰が与えられる。帰ろう、帰ろう。瓊瑰が懐を満たしている(済洹之水,贈我以瓊瑰。帰乎帰乎!瓊瑰盈吾懐乎)。」
古代は死者の口に玉を入れたため、目が覚めた公孫嬰斉は不吉な夢だと思い、敢えて夢の内容を占いませんでした。
 
壬申(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年の十一月に壬申の日はありません)、鄭から帰る途中の公孫嬰斉が貍脤(または「貍軫」「貍蜃」。詳細位置不明)で夢を占わせて言いました「以前は死を恐れて占わなかったが、今はわしに従う者が大勢おり、既に三年も経つのに無傷だ。」
公孫嬰斉は瓊瑰が懐を満たすという夢を、家臣が増える吉夢だと考えるようになったため、占いを命じました。
しかしその日の夜、公孫嬰斉は死んでしまいました。
 
[十一] 十二月丁巳朔、日食がありました。
 
[十二] 邾子・貜(定公)が在位四十年で死に、子の牼が立ちました。宣公といいます。
 
[十三] 斉霊公が崔杼を大夫に任命し、慶克に補佐させ、軍を率いて盧(高弱)を攻撃させました。
国佐は諸侯と共に鄭を攻撃していましたが、斉の難を聞いて帰国の許可を求め、盧を包囲している崔杼・慶克の軍に合流しました。
そこで国佐は慶克を殺し、穀で反旗を翻します。
斉霊公は国佐を招いて徐関で盟を結び、官職を元に戻しました。
 
十二月、盧が斉に投降しました。
霊公は国勝(国佐の子)を晋に送って国難を報告させました。国佐の討伐を考えていた霊公は、国勝を国佐から離れさせるため、使者に任命しました。
晋から戻った国勝は国都に帰れず、清(斉邑)で待機するように命じられます。
 
 
 
次回に続きます。

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