春秋時代134 東周簡王(十六) 郤氏討伐 前574年(2)

今回は東周簡王十二年の続きです。
 
[十四] 晋厲公は贅沢を好み、外嬖(寵愛する大夫。胥童・夷陽五・長魚矯等)も多数いました。
鄢陵の戦い(前年)で晋が大勝したため、慢心した厲公は諸大夫を退けて左右の近臣を抜擢しようとしました。
 
胥童胥之昧。之昧は字)は父・胥克が廃されたため、郤氏を憎んでいました(東周簡王六年・前601年参照)
夷陽五(または「夷羊五」。夷陽が氏)も郤錡に田地を奪われたため、郤氏を憎んでいました。
長魚矯(長魚が氏)も郤犨と田地を争い、逮捕されて父母・妻子と共に車轅に繋がれたことがあったため、郤氏を憎んでいました。
欒書は鄢陵の戦いで守備を固めるように主張しましたが、郤至が反対して速戦を求め、厲公がそれを採用したため、郤至を排斥したいと思っていました。
 
そこで欒書は楚の公子・茷(晋の捕虜になっています)に使者を送り、公子・茷から厲公にこう伝えさせました「あの戦は郤至が寡君(楚共王)を誘ったから始まったのです。東師(斉・魯・衛の三軍)がまだ到着せず、軍帥も整っていなかったので(下軍の佐・荀罃は晋都を守り、新軍の将・郤犨は各国に出兵を要請していたため、将佐がそろっていませんでした)、郤至が寡君にこう言いました『この戦いは晋が必ず敗れます。それを機に、私が孫周(公孫周)を奉じて楚君に仕えましょう。』」
孫周は祖父を捷といい、晋襄公の少子にあたります。公子・捷は桓叔と号しました。桓叔は恵伯・談を産み、談が周を産みます。これが孫周で、当時は周王室で単襄公に仕えていました。
 
厲公が公子・茷の言葉を欒書に伝えると、欒書はこう言いました「その通りかもしれません。そうでなければ死を恐れず敵の使者に会うとは思えません(郤至は鄢陵の戦いで楚共王の慰問を受けました)。主公は試しに郤至を周に送って観察してみるべきです。」
郤至は周王室を聘問することになりました(前年の事です)
欒書は孫周にも使者を送り、聘問に来た郤至に会うよう指示しました。厲公が送った者は、郤至と孫周が会見したことを報告します。厲公は郤至を憎むようになりました。
 
以上は『春秋左氏伝(成公十七年)』の記述です。『国語・晋語六』には少し異なる内容が紹介されています。
欒書が王子・発鉤(公子・茷)に言いました「あなたから主君(晋厲公)にこう伝えてください『郤至が人を送り、王(楚共王)に斉・魯の援軍が来る前に決戦するよう勧めました。また、戦いが始まってから、郤至が王の前から去らなければ、王は必ず捕虜になっていました(郤至がわざと楚王を逃がしたのです)。』あなたがこれを主君に伝えれば、私があなたを帰国させましょう。」
発鉤は言われた通りに厲公に報告します。
厲公はこれを欒書に相談しました。
欒書はこう言いました「臣は以前からこの噂を聞いていました。郤至は乱を望み、苦成叔郤犨)を斉と魯に送ってわざとゆっくり出兵させ、しかも自ら主君に早期決戦を勧めました。戦に敗れたら孫周を国に入れるつもりだったのです。しかし事が失敗したため、わざと楚王を逃がしました。戦場において勝手に敵の国君を逃がし、その慰問を受けるのは、大罪ではありませんか。彼を周に派遣すれば、孫周と連絡を取るはずです。」
厲公は郤至を周に派遣することにしました。
欒書は孫周に使者を送って「郤至が到着したら、彼に会ってください」と伝えました。厲公が秘かに監視する中、郤至と孫周は会見しました。
 
以下、『春秋左氏伝』に戻ります。
この年、厲公が狩りに行きました。婦人と禽獣を狩ってから酒を飲み、その後、大夫に狩りをさせます。
本来の礼では、狩りに婦人を参加させるべきではなく、諸侯が矢を射て禽獣を殺したら、大夫が狩りを始めることになっていました。
郤至が豕(猪)を捕まえて厲公に献上しようとすると、寺人(宦官)・孟張がそれを奪いました。孟張は厲公の近臣です。郤至は矢を射て孟張を殺しました。
厲公が怒って言いました「季子(郤至)は余を侮るのか!」
 
厲公が郤氏討伐を考えていると、胥童が言いました「まず、郤氏の中でも三郤(郤錡・郤犨・郤至)を除くべきです。彼等は族が大きく、多くの怨みもあります。大族を除けば、公室を逼迫する者がなくなり、怨みが多い者を討伐すれば、容易に成功します。」
厲公は同意しました。
 
郤氏が厲公の動きを知りました。郤錡が先に厲公を討とうと考え、こう言いました「主君が我々に道を行おうとしない。わしは宗族や党人と共に反撃しようと思う。たとえ我々が死んだとしても、国を混乱させて国君に危難を与えることができる。」
しかし郤至が反対して言いました「人は信・知・勇によって立つことができます。信は君に叛しないこと、知は民を害さないこと、勇は乱を成さないことです。この三者を失って、誰が我々と親しくするのでしょうか。死んで怨みを多く残しても、意味はありません。国君には臣下がおり、自分で自分の臣下を殺したとしても、臣下は国君をどうすることもできません。もしも我々に罪があるのなら、我々の死は遅いくらいです。国君が不辜を殺したら、自ら民を失ってその地位を保つこともできなくなります。(我々が動くべきではありません)君命を待つだけです。国君の禄を受けながら、それを使って党を集め、君命と争うことほど大きな罪はありません。」
 
以上は『春秋左氏伝』の記述です。『国語・晋語六』の郤至の言葉は少し違います。郤至はこう言いました「武人(勇敢で義のある人)は乱さず、智人は偽らず、仁人は党を成さないといいます。主君の寵用と俸禄によって富を得て、その富を利用して党を作り、その党を使って主君に危害を加えるようなら、主君が我々を殺したとしても遅すぎるくらいです。そもそも、衆人に罪はありません(国に乱をもたらすべきではありません)。同じ死ぬのなら、君命を聞いて死ぬべきです。」
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
壬午(二十六日)、厲公が胥童と夷羊五に甲士八百人を率いて郤氏を攻撃させることにしました。
しかし長魚矯が多数の兵を動員することに反対したため、厲公は側近の清沸魋に長魚矯の補佐を命じ、二人を郤氏の屋敷に派遣しました。
二人はそれぞれ戈を持ち、服の襟を結んで訟者(訴えを行う者。郤氏に意見する者)の姿になりました。
三郤は榭(台上の部屋)で長魚矯等と話をしようとしましたが、長魚矯が隙を見つけて戈を突き出し、駒伯(郤錡)と苦成叔(郤犨)を殺しました。温季(郤至)は「無罪でも殺されるのなら、逃げるべきだ」と言って逃走しようとしましたが、長魚矯が郤至の車を追いかけ、戈で殺しました。
三人の死体は朝廷に並べられます。
郤氏の妻妾は厲公の後宮に入れられ、財産は厲公の婦人に分け与えられました。
 
胥童は甲士を率いて朝廷で欒書と荀偃(中行偃)も捕えました。長魚矯が厲公に言いました「二子を殺さなければ、憂いは主君に及びます。」
ところが厲公はこう言いました「一朝に三卿を殺した。これ以上殺すのは忍びない。」
長魚矯は「人(欒書、荀偃)が主君を制御しようとしています。乱が外(朝廷の外。民衆)にあることを姦といい、内(朝廷内。大臣群臣)にあることを軌といいます。姦を御するには徳(教化)を用い、軌を御するには刑を用いるべきです。姦に対して恩恵を与えることなく殺戮したら徳とはいえず、臣下が国君を逼迫しながら討伐しなければ、刑とはいえません。徳と刑が立たなければ、姦と軌が共に訪れることになります。臣が去ることをお許しください」と言って、狄に出奔しました。
 
以上は『春秋左氏伝』の内容です。『国語・晋語六』を見ると、長魚矯の徳と刑の用途が逆になっています。
長魚矯はこう言いました「乱が内にあることを(軌)といい、外にあることを姦といいます。宄を防ぐには徳を用い、姦を防ぐには刑を用いるものです。今、政事を行いながら内乱が起きました。これでは徳がある状態とはいえません。害を除くのに強者を避けたら(強い者を罰しなかったら)、刑が行われているとはいえません。徳も刑も成立しなければ、姦と宄が共に訪れることになります。臣は脆弱なので、それを待つことはできません。」
長魚矯は狄に奔りました。
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
結局、厲公は使者を送って欒書と荀偃にこう伝えました「寡人は郤氏を討伐し、郤氏は既に罪に伏した。大夫は捕えられたことを恥とせず、職位に復せ。」
二人は再拝稽首して言いました「主君が罪のある者を討伐し、臣の死を免じたのは、主君の恩恵というものです。二臣は死んでも君徳を忘れません。」
欒書と荀偃は家に帰りました。
厲公は胥童を卿に任命しました。
 
後日、厲公が翼にある寵臣・匠麗氏(大夫)の家で遊びました。その隙を衝いて、欒書と荀偃が厲公を捕えました。
二人は士を招きましたが、は辞退しました
韓厥を招くと、韓厥も辞退して言いました「君を殺して威信を求めるようなことは、私にはできません。主君に対して威を用いるのは不仁です。事を失敗させるのは不智です。一利を享受できたとしても、一つの悪名を得ることになるのなら、私には協力できません。昔、私は趙氏に養われたので、孟姫の讒言があった時でも兵を出しませんでした(当時でも私だけは兵を出すことを拒否したのです。今回も拒否することを恐れません。東周簡王三年・前583年参照)。古人はこう言いました『老いた牛を殺す時も、筆頭になりたくはない(殺老牛莫之敢尸)。』相手が国君ならなおさらです。国君に仕えることができない二三子(あなた達)が、なぜ私を使おうとするのですか。」
荀偃が韓厥を討とうとしましたが、欒書が言いました「いけない。彼は果(果敢)であり順(言葉に道理がある)である。順ならば失敗することはなく、果ならば達成できないことはない。順を犯すのは不祥であり、果を討っても勝てない。果によって人を従え、順によって行動する者に対して、民が背くこともない。我々が攻撃しても、勝てるはずがない。」
荀偃はあきらめました
 
[十五] 楚が晋に敗れたため(鄢陵の戦い)、舒庸が呉軍の先導となって巣と駕を攻め、釐と虺を包囲しました。
しかし舒庸は呉に頼って防備を怠ったため、楚の公子・橐師に急襲されて滅亡しました。
 
[十六] 閏十二月乙卯晦(二十九日)、晋の欒書と荀偃が胥童を殺しました。
これは『春秋左氏伝(成公十七年)』の記述です。『春秋』の経文は翌年春正月のこととしています。恐らく、『春秋左氏伝』は晋が使っていた暦(夏暦)をそのまま用い、『春秋』は周暦に置き換えているため、ずれが生まれているのだと思います。もしくは、この年に晋で起きた出来事が翌年になって魯に報告されたため、魯の史書である『春秋』は翌年に記載したのかもしれません。
 
[十七] この年、燕昭公が在位十三年で死に、子の武公が立ちました。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代135 東周簡王(十七) 周子の帰国 前573年(1)