春秋時代135 東周簡王(十七) 周子の帰国 前573年(1)

今回は東周簡王十三年です。二回に分けます。
 
簡王十三年
573年 戊子
 
[] 春正月庚申(初五日)、晋の欒書と荀偃(中行偃)が程滑を翼に派遣して、前年捕えた厲公を殺しました。厲公の在位年数は八年になります。
史記・晋世家』には、厲公は捕えられて六日後に死んだと書かれており、『資治通鑑外紀』もこれに倣っていますが、厲公が捕えられたのは前年十二月で、閏十二月を挟んで本年一月になるので、恐らく誤りです。
 
厲公は翼城東門の外に埋葬されました。翼は晋の旧都です。
通常、諸侯の副葬には車七乗が用意されるものですが、厲公の副葬に使ったのは車一乗だけでした。
 
淮南子・人間訓』に晋厲公の統治について書かれています。
晋厲公は、南は楚を、東は斉を、西は秦を、北は燕を討伐し、兵を天下に蹂躙させて倦むことなく、四方を威服させて邪魔する者がいませんでした。そこで、嘉陵(柯陵)に諸侯を集めて会合しました。
しかし、厲公は気質が傲慢で、淫乱奢侈には限度がなく、万民を暴虐しました。大臣を殺し、阿諛追従する者を近くに置きます。そのため国内には補佐したり諫言する臣がなく、国外には諸侯の助けがありませんでした。
嘉陵の会の翌年、匠驪(匠麗氏)で遊んでいた厲公は欒書と中行偃(荀偃)に捕まり幽閉されましたが、諸侯が援けることなく、百姓も同情しませんでした。幽閉されて三カ月(足掛け)で厲公は殺されました。
 
『国語・晋語六』が厲公の死について「徳がないのに功業が多く(秦・楚・狄等を破り、度々諸侯と会盟を行ったこと)服従させた者(諸侯)が多かったため、憐れな死を招いた」と書いています。士燮が心配したことが的中しました。
 
[] 晋で厲公が殺された事件を、魯の辺人(国境を守る官員)が朝廷に報告しました。成公が群臣に問いました「臣下が国君を殺した。誰の過ちだろうか?」
大夫は皆、黙っています。
里革が言いました「国君の過ちです。人の君となるは大きな威信を持っています。威信を失い、殺害を招いたのなら、国君の過失が多かったのでしょう。国君とは牧民(民を導くこと)してその邪(奸悪)を正すものです。国君が私欲邪心をほしいままにし、民の事(教化)を棄てたら、民の中に悪が生まれても発見することができず、邪はますます増えていきます。もしもに邪よって民に臨んだら、政治は崩壊して救うことができなくなります。善を用いても(「賢人を用いても」または「善い政治を行っても」)、徹底しなければ民を用いることはできず、滅亡に至っても誰からも同情されません。そのような状況に陥った国君に、何の意味があるのでしょう。桀(夏王朝)は南巣に奔り、紂(商王朝)は京師で死に、厲王(西周)は彘に流され、幽王(西周)は戲山で滅びました。これは威信を失い多くの過ちを犯したからです。国君とは民にとって川沢のようなものです(民は魚です。川や沢の善し悪しによって魚の質も変わります)。国君の行いに民は従い、民の美悪は全て国君の行動によって決定されるのです。民が理由なく国君を殺すことはありません。」
 
[] 晋の欒書等は荀罃智武子)と士魴(士会の子。彘を邑にしたため、彘季、彘恭子ともいいます)を京師に送って周子(孫周)を迎え入れさせました。周子はこの時十四歳です。
前回も書きましたが、周子の祖父は捷といい、晋襄公の少子です。桓叔と号しました。桓叔は恵伯・談を産み、談が周を産みます。これが周子です。『史記・晋世家』によると周子は桓叔にとても愛されていました。
周子に関して、『国語・周語下』に記述がありますが、別の場所で書きます。

春秋時代 孫周(晋悼公)


晋の大夫が清原(晋の国境)まで迎えに行くと、周子が言いました「孤(私)は本来こうなることを願っていなかった。この地位に至ったのは、天の意志によるものだろう(諸卿大夫に奉戴されたからではない)。臣民が賢明な国君を立てるのは、命を発する者が必要だからだ。国君を立てながら命に従わないようなら、国君の意味がない。二三子(汝等)は今日、私を迎え入れようとしているが、私を拒否することができるのも今日だ(私を国君に立てるのなら命に従え。そのつもりがないのなら迎え入れるな。それを決めるのは今だ)。恭敬な態度で国君に仕えれば、神の福を得ることができるであろう。」
諸大夫が言いました「(周子に仕えるのは)群臣の願いです。命に逆らうことはありません。」
 
以上は『春秋左氏伝(成公十八年)』の記述です。『国語・晋語七』には周子と諸大夫の言葉がもう少し詳しく書かれています。
周子が諸大夫に言いました「孤(私)は本来こうなることを願っていなかった。この地位に至ったのは、天の意志によるものだろう。臣民が賢明な国君を立てるのは、命を発する者が必要だからだ。天命を受けた者を国君に立てながらその命を聞かないのは、実った穀物を焼いて棄てるようなものだ。天命を受けたのに国君としての能力がないのは、穀物が実らないようなものだ。穀物が実らないのは、孤の咎(つみ)である。穀物が実ったのに焼いて棄てるのは、二三子(汝等)の暴虐である。孤は長くこの地位を安定させ、成熟した政令を発したいと思う。二三子が発する政令では民が従わないから、元君(優秀な国君)に意見を求める必要があるのだ。孤が自分の不才によって廃されるのだとしたら、誰も怨むことはない。しかし孤に能力がありながら暴虐を行うのなら、それは二三子の専横というものだ。もしも元君を奉じて大義を完成させたいのなら、それは今日にかかっている。もしも暴虐によって百姓を離心させ、民常(上下の秩序)を覆したいというのなら、それも今日にかかっている。進退を図るのは(汝等自身が国君にどう接するかを決めるのは)、今日のことだ。」
諸大夫が言いました「主君は群臣を鎮撫し、全力で群臣を庇護しようとしています。我々群臣の中には、君訓に背いて大戮(死刑)に陥り、刑刑官。司寇)(太史。犯罪の記録を残しました)を煩わせ、主君の信令(誠意ある命令)を辱めようという者はいません。主君に仕えて(職責)を全うします。」

当時、晋では卿大夫が権力を拡大しつつありました。『史記・趙世家』に「(厲公殺害の事件後)晋の大夫がしだいに強くなった」と書いてあります。
周子の言葉は卿大夫の専横に釘を刺す効果がありました。

『春秋左氏伝』に戻ります。
庚午(十五日)、周子が諸大夫と盟を結んで国都に入り、大夫・伯子同の家に住みました。
 
辛巳(二十六日)、周子が武宮(武公廟)を朝して即位の報告をしました。厲公の寵臣七人(夷羊五等。七人の詳細は不明です)が追放されました。
周子には兄がいましたが無慧(白痴)で豆と麦の判別もできなかったため、国君に選ばれませんでした。
 
[] 甲申晦(二十九日)、斉霊公が士(刑罰を掌る官)・華免に国佐(国武子)の暗殺を命じました。前年、国佐が慶克を殺したためです。
国佐は内(霊公の宮殿)に招かれたため霊公に会いに行きましたが、朝(前堂)華免に襲われ、戈で殺されました。事件に驚いた内宮の諸官は夫人の宮に逃げました。
 
霊公は清の人に国勝を殺させました。
国弱は魯に奔り、王湫(国佐の党)は萊に奔ります。
慶封が大夫(諸侯の卿に相当します)に、慶佐が司寇になりました。二人とも慶克の子です。
 
暫くして斉霊公は国弱を呼び戻し、国氏を継がせました。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代136 東周簡王(十八) 晋悼公の政治 前573年(2)