春秋時代136 東周簡王(十八) 晋悼公の政治 前573年(2)

今回は東周簡王十三年の続きです。
 
[] 二月乙酉朔、晋悼公(周子)が朝廷で正式に即位しました。

史記・晋世家』から十四歳で即位した悼公の言葉です「大父(祖父)は即位することができず、周にを避けて客死(他国で死ぬこと)した。寡人はもともと疎遠な立場に居り、国の地位を望むこともなかった。しかし大夫公・公のを忘れず、桓叔(悼公の祖父。襄公の子)代に恩恵を与えて国君に立てた。宗廟大夫の霊(福)のおかげで晋を奉じることができたのである。よって、寡人は戦戦兢兢としなければならない。大寡人を補佐せよ。
悼公は臣下として相応しくない七人を放逐し、旧を修めて徳恵を施し、かつて文公に従って亡命した功臣の子孫を厚く遇しました

以下、『春秋左氏伝(成公十八年)』からです。
悼公は百官を任命し、民に施しを与え、責(民が国に対して負った債)を免除し、鰥寡(身寄りがない者)を助け、優秀な人材を抜擢し、困窮を救済し、災患に苦しむ者を救い、淫乱姦悪を禁止し、税を減らし、法を寛大にし、倹約に勤め、時節に応じて民を用い、政令が農時に干渉させないようにしました。
 
魏相(呂相)、士魴、魏頡(魏顆の子。令狐を食邑としたため、令狐文子ともいいます)、趙武を卿とし、荀家、荀会、欒黶、韓無忌(韓厥の長子。穆子)を公族大夫に任命して、卿の子弟に恭倹孝悌を教えさせました。
士渥濁(士貞伯)を大傅に任命して、范武子(士会)が作った法を修めさせました。
右行辛(大夫・賈辛)を司空に任命して、士蔿が作った法を修めさせました。
弁糾(欒糾)に国君の戎車を御させ、校正(馬を管理する官)をその管轄下に置き、御者に義を教えさせました。
荀賓を車右とし、司士(六卿の車右)を管轄下に置き、勇力の士を教育させました。
今までは卿(各軍の将・佐)の御者が固定していましたが、今後は御者を固定せず、軍尉に御者を兼任させました(これまでは御者の他に軍尉がいましたが、悼公によって統一されたのだと思います)。祁奚(字は黄羊)を中軍尉に任命し、羊舌職(または「羊殖」)に補佐させました。
魏絳荘子を司馬に任命し、張老(張孟。老は名、孟は字)を候奄(元候。候正。間諜や偵察を監督する官)に任命し、鐸遏寇(鐸遏が姓)を上軍尉に任命し、籍偃(籍游)をその司馬にしました。籍偃が卒乗(歩兵と車兵)を訓練し、兵達は命令に対して従順になりました。
程鄭(荀騅の曾孫)を乗馬御に任命し、六騶(六ヶ所の厩舎。百八人)を管轄下に置き、群騶(車馬を管理する官)に礼を教えさせました。
六官(各部門)の長は全て民の称賛を得た者が選ばれました。
抜擢された者は職責を全うできないことを恐れ、官員は常法旧典を変えることなく、徳に応じで官職が与えられ、正・師・旅(官吏の序列。正は各部門の長)の秩序を保ち、下が上を侵すことがありませんでした。こうして民の誹謗がなくなり、悼公は晋の覇業を恢復させていきました。
 
『国語・晋語七』に悼公の政治と人事に関する記述がありますが、別の場所で書きます。

春秋時代 晋悼公

 
[] 魯成公が晋に行き、悼公に朝見しました。
 
[] 夏六月、鄭成公が宋を侵し、曹門(宋城西北の門。宋から曹に行く時、必ず通ったため、曹門と命名されたようです)の外に至りました。
鄭成公の軍は楚共王と合流して宋を攻め、朝郟を占領します。
これとは別に、楚の子辛(公子・壬夫)と鄭の皇辰も城郜に進攻して幽丘を取りました。
その後、楚共王・鄭成公の軍と、楚の子辛・鄭の皇辰の軍が合流し、彭城を攻めて宋の魚石、向為人、鱗朱、向帯、魚府(五人は宋から楚に亡命していました。東周簡王十年・前576年参照)を彭城に入れます。
三百乗の兵車を戍(守備兵)として駐留させ、楚・鄭連合軍は兵を還しました。
 
宋人が五人の帰還を憂いると、西鉏吾が言いました「心配はない。楚人が我々と同じ者を憎むのなら、それは我々に徳を施すことであり、我々は楚に仕えて二心を持ってはならない。しかし大国は満足することを知らないので、我が国が彼等の辺邑になったとしても(宋が服従して楚に併合されたとしても)、まだ足りないと思うだろう(楚が宋と共に五人を憎めば、宋は楚に服従しなければならない。しかしそれでも楚は満足せず、宋から搾取するだろう。だから楚が五人を憎むことこそ、憂いなければならない)。また、もし我々が憎む者を楚が受け入れて、楚の政事を助けさせ、我々に隙ができるのを待っているとしたら(五人を楚国内に留めて宋の隙を窺っているとしたら)、それも我が国にとって患憂となる。しかし今、楚は諸侯の姦臣を援けて土地(彭城)を与え、各国との交通を妨げた(彭城は各国を繋ぐ要地にあります。楚はそこに魚石等を入れ、兵を置きました)。姦悪を助長したら楚に服している国も離心させ、諸侯を害したら呉・晋の警戒を招く(彭城は晋と呉を繋ぐ重要な拠点だったため、楚が占領したことによって呉・晋の楚に対する敵対心が増すことになります)。これは我々にとって利益が大きく、憂いを必要とするものではない。そもそも、我々は常に晋に仕えている。晋が必ず援けに来る。」
 
[] 魯成公が晋から帰国しました。
晋の士范宣子)が魯に来聘し、魯成公の朝見に答礼しました。
 
[] 秋、杞桓公が魯に来朝し、成公を慰労して晋の政治についてうかがいました。
成公が晋悼公の善政を語ると、杞桓公はすぐ晋に入朝し、婚姻を求めました。
 
[] 七月、宋の司馬・老佐と華喜が彭城を包囲しました。
しかし老佐が死にました。
 
[十一] 八月、邾宣公が魯に来朝しました。宣公は即位したばかりだったため、あいさつのために魯に来ました。
 
[十二] 魯が鹿囿(鹿は地名。囿は游園)を築きました。農事に影響する徭役でした。
 
[十三] 己丑(初七日)、魯成公が路寝(正寝)で死にました。正常な死です。在位年数は十八年でした。
成公の子・午が即位しました。これを襄公といい、この時わずか三歳でした。
 
[十四] 冬十一月、楚の子重が彭城を援けるため、鄭と共に宋を攻めました。
宋の華元が晋に急を告げます。
当時、晋で政事を行っていた韓厥(韓献子。欒書は老齢のため引退したか、死んでいたようです。韓厥が中軍の将になっていました)が言いました「人を得ようと思ったら、まず自分が勤労でなければならない。霸を成し、国境を安定させるのは、宋から始まる。」
晋軍は台谷(詳細位置不明)に駐軍して宋を援けました。靡角の谷(彭城附近)で楚軍に遭遇します。楚は兵を還しました。
 
[十五] 晋悼公が士魴(または「士彭」)を魯に送って出兵を請いました。
魯の季孫行父(季文子)が臧孫紇(臧武仲。臧孫許の子)に出征する兵の数を問うと、臧孫紇はこう答えました「鄭を討伐した時(鄢陵の戦い)、知伯荀罃)が兵を請いに来ました。知伯は下軍の佐でした。今回来た彘季(士魴)も下軍の佐です。鄭を討伐した時と同じでいいでしょう。大国の命に従う時は、使者の班爵爵位序列)に従って敬を加えることが礼とされています。」
季孫行父はこれに従いました。
 
[十六] 十二月、晋侯(悼公)と魯の仲孫蔑(孟献子)、宋公(平公)、衛侯(献公)および邾子、斉の崔杼が虚朾(宋地。または魯地)で盟を結びました。宋救援を謀るためです。
宋人は諸侯に感謝し、彭城を攻撃するように頼みました。
魯の仲孫蔑は成公の葬礼のため、先に帰国する許可を求めました。
 
この時、晋悼公は張老を四方に派遣して晋悼公の功績を宣伝し、併せて諸侯の中で晋に逆らう者を探らせました。
 
[十七] 丁未(二十六日)、魯が成公を埋葬しました。
 
[十八] 『今本竹書紀年』は簡王十三年に「楚共王が宋平公と湖陽で会した(楚共王会宋平公于湖陽)」と書いています。
しかし当時、宋は晋に従っており、楚と交戦状態なので、楚と会することはないはずです。
唯一、簡王元年(前585年)に魯と衛が晋の命に従って宋を攻撃したことがありました。この時、宋が晋から離れて楚と会した可能性があります。但し、当時の宋の国君は平公ではなく共公です。
あるいは、この年、楚と宋が彭城をめぐって会戦したことをいっているのかもしれません。
『古本竹書紀年』にもこの記述がありますが、いつのことかは不明としています。




次回に続きます。

春秋時代137 東周簡王(十九) 彭城の戦い 前572年