春秋時代 晋悼公

晋で悼公が即位しました。

春秋時代136 東周簡王(十八) 晋悼公の政治 前573年(2)

『国語・晋語七』に悼公の政策と人事に関する記述があるので、ここで紹介します。
 

晋悼公は即位すると百事(政事)を議定し、百官を任命しました。厲公時代までの旧制が改められます。

門子(大夫の嫡子)を育成して賢良の臣を選び、旧族(旧臣の子孫)を抜擢し、滞っていた功臣の賞賜を行って昇格させました。

過去に犯した罪に対する刑罰を停止し、牢獄に繋がれた者を釈放し、判決に疑いがある者の罪も赦しました。

徳のある者を仕官させ、鰥寡(身寄りがない者)を救済し、能力があるのに小罪のため官を廃された者を起用し、老幼を養い、孤疾(孤児や障害がある者)を慈しみ、七十歳を越える老人には悼公自ら会って慰労し、「王父(祖父の意味)」と称しました。老齢者は喜んで悼公の命に従うようになります。

 

悼公は呂相(呂宣子。魏錡の子。錡は呂錡ともいいますを下軍の将に任命してこう言いました「邲の役(東周定王十年・前597年)において、呂錡は智壮子(荀首)を上軍で援け(下軍の誤り。荀首は下軍大夫を勤め、呂錡が御者になりました)、楚の公子・穀臣と連尹・襄老を得て子羽智罃の字。荀首の子。楚の捕虜になりました)を釈放させた。また、鄢の役(鄢陵の役。東周簡王十一年・前575年)では、呂錡が楚王(共王)を射て楚師を破り、晋国を安定させた。しかしその子孫は顕官に就いていない。子孫を抜擢しないわけにはいかない。」

 

悼公は士魴彘恭子)新軍の将に任命してこう言いました「武子(士会)の季(少子・士魴は文子士燮)の同母弟である。武子は法を明らかにして(東周定王十四年・前593年参照)晋国を安定させ、その法は今も用いられている。文子は身を尽くして諸侯を服従させ、晋国は今もその功績に頼っている。これは二子の徳によるものであり、忘れてはならない。」

士魴は士会の長嫡子ではありませんが、卿に任命され、士氏の宗族を守るように命じられました

 

悼公は魏頡令狐文子。令狐は邑名。魏犨の孫、魏顆の子)を新軍の佐に任命してこう言いました「かつて潞の役(東周定王十三年・前594年)で勝った晋に秦が攻撃してきた。その時、魏顆は自分の身をもって秦師を輔氏で撃退し、杜回を捕えた。その勳功は景鍾(景公の鐘)に刻まれている。しかしその後代は今に至るまで抜擢されていない。魏顆の子を用いなければならない。」

 

悼公は士渥濁士貞子)が志(古典)に通じて博聞で、遍く教育を施すことができると判断し、太傅に任命しました。

大夫・賈辛右行辛)が計算を得意とし、事象を明らかにして功を定めることができる(正確に計測を行って建設工程を完遂させることができる)と判断し、元司空(大司空。都邑・宮室の建築や水利工程を掌る官)に任命しました

大夫・弁糾(卞糾。欒糾)が御術を得意とし、軍政を援けることができると判断し、戎御(国君の兵車の御者)に任命しました。

大夫・荀賓が勇力を持つのに粗暴ではないと判断し、悼公の戎右(車右)に任命して近くに置きました。

 
欒書(欒武子。欒伯)が公族大夫の任命を悼公に求めました。公族大夫は貴族の子弟の教育を担当します。

悼公が言いました「荀家(大夫。家が名)は惇恵(朴実寛厚)であり、荀会(荀家の一族)は文敏(文才があって鋭敏)だ。また、欒黶桓子。欒書の子)果敢であり、韓無忌穆子。韓厥の子)は鎮静(慎重で冷静)だ。この四人を公族大夫にしよう。膏粱の性膏は肉の脂。粱は食物の精髄。「膏粱の性」は贅沢な生活をしている貴族の子弟の性格という意味です)は驕慢放縦で、正すのが難しい。惇恵の者が彼等を教えれば、教えが偏ることなく、彼等が怠ることもなくなる。文敏の者が彼等を導けば、彼等は教えに対して従順になる。果敢な者が彼等を戒めれば、彼等は過ちを隠さなくなる。鎮静な者が彼等を修めれば、彼等は穏重で専一(集中すること)になる。よって、この四人が公族大夫にふさわしい。」

 

悼公は大夫・祁奚が果断でありながら度を越えることがないと判断し、元尉中軍尉。軍政に携わり、各将・佐の御者を管理する官)に任命しました

羊舌職(羊舌が氏)が聡敏かつ恭敬であると判断し、祁奚を補佐させました。

魏絳荘子。魏犨の子)には勇があって乱れることがないと判断し、元司馬中軍司馬)に任命しました。

大夫・張孟張老)智慧があっても詐術を用いないと判断し、元候中軍候奄。候正。斥候を管轄する官)に任命しました

大夫・鐸遏寇(鐸遏は氏。寇は名)が恭敬で誠実堅強だと判断し、輿尉上軍尉)に任命しました

大夫・籍偃籍遊)が敦厚で職責を守り、恭順だと判断し、輿司馬上軍司馬)に任命しました

大夫・程鄭が誠実で奸邪がなく、諫言を好んで隠すことがないと判断し、賛僕(乗馬御。国君が車に乗る時の従官、御者)に任命しました。

 

悼公は適材を用いて覇者の地位を回復していきました。