春秋時代138 東周霊王(一) 虎牢築城 前571年

今回から東周霊王の時代です。
 
霊王
東周簡王が死んで子の泄心が立ちました。これを霊王といいます。産まれた時から髭が生えていたといわれています。
 
 
霊王元年
571年(庚寅)
 
[] 春正月、周簡王が埋葬されました。
天子は死後七カ月経ってから埋葬するのが礼とされました。簡王は前年九月に死んだので、速すぎる埋葬でした。
 
[] 鄭が宋を攻撃しました。楚の命令によるものです。
 
[] 斉霊公が萊を攻撃しました。
萊国は大夫・正輿子を斉に派遣し、洗練された馬牛各百頭を賄賂として霊公の寵臣・夙沙衛に贈ります。
夙沙衛が撤兵を勧めたため、霊公は兵を還しました。
 
[] 夏五月庚寅(十八日)、魯の成公夫人・姜氏(斉姜。斉は諡号が死にました。
 
かつて穆姜(成公の母)が美しい檟木を選んで自分の櫬(棺)と頌琴(副葬のための楽器)を作らせました。しかし穆姜は季氏と孟氏を除こうとして失敗し、姦通していた叔孫僑如も追放されたため(東周簡王十一年・前575年参照)、権威を失ってしまいました。
そこで季孫行父季文子)が穆姜の櫬や頌琴を使って斉姜を納棺しました。
君子はこれを「非礼」として非難しました。妻(斉姜)は夫(成公)の母(穆姜)を敬うべきであるのに、妻の葬儀に義母が用意した棺や副葬品を使ったからです。
 
[] 斉霊公が諸姜(姜姓で斉の大夫に嫁いだ女性)、宗婦(姜姓の大夫の妻)を魯に送り、斉姜の葬儀に参加させました。
霊公は萊子(莱国の主)にも参加を要求しました。
莱子に参加を要求した理由は、莱子が姜姓だったためという説と(実際の姓ははっきりしません)、莱子を諸姜や宗婦と同列にすることで侮辱しようとしたという説があります。
萊子は霊公の要求を拒否しました。
 
斉の晏弱(晏桓子)が東陽に築城して莱に圧力を加えました。
 
[] 鄭成公が病にかかりました。当時、鄭は楚と同盟していましたが、楚は鄭に賦役等の過酷な要求を科していました。
子駟(公子騑)は楚から受ける負担を軽減するため、晋と結ぶことを成公に勧めます。しかし成公はこう言いました「楚君(共王)は鄭のために戦って、矢が目に中って負傷した(鄢陵の戦い。東周簡王十一年・前575年)。これは他の誰でもない、寡人のせいだ。もしも楚に背いたら、力(楚の功績)と言(盟約)を棄てることになる。それでは誰も私に近づかなくなるだろう。寡人を過ちから逃れさせることができるのは、汝達しかいない。」
 
秋七月庚辰(初九日)、鄭成公が在位十四年で死に、子の惲(または「頑」)が立ちました。これを釐公(僖公)といいます。
子罕(公子・喜。穆公の子)が当国(国君に代わって政治を行う地位)に、子駟が政(執政)に、子国が司馬になりました。
 
この頃、晋師、宋師と衛の甯殖が鄭を攻撃しました。衛の将だけ名が残っているのは、晋と宋の将は地位が低かったため名が残らなかったという説(衛の甯殖は卿です)と、衛が筆頭になって喪中の鄭を攻撃したため(衛穆公が死んだ時、鄭と楚が喪中の衛を攻撃しました。その報復です。東周定王十八年・前589年参照)という説があります。
 
鄭の諸大夫は晋に服従しようといましたが、子駟がこう言いました「官命(国君の命。ここでは成公の言)はまだ改まっていない。」
 
[] 晋の荀罃(知武子)、魯の仲孫蔑(孟献子)、宋の華元、衛の孫林父および曹人、邾人が戚で会しました。鄭への対抗策を講じるためです。
仲孫蔑が言いました「虎牢に城を築いて鄭に圧力を加えるべきです。」
荀罃が同意して言いました「の会(前年。魯の仲孫蔑、斉の崔杼と曹人・邾人・杞人および晋の韓厥・荀偃がで合流しました)で、吾子(汝)も崔子(崔杼)の言を聞いたはずだ(どのような発言かは分かりません。晋に対する不満を述べたと思われます)。今回、斉は参加せず、滕、薛、小邾が来ないのも斉のためだ(滕等は斉に近い小国です)。寡君(晋悼公)の憂いは鄭だけではない(斉も背いて楚と連携したら、楚・斉・鄭の三国で大きな勢力になる)。罃(私)は帰国して寡君に報告し、斉も会見に参加させるように請おう。斉が要請に応じて会見に参加したら、虎牢築城の事を諸侯に宣言する。成功したら吾子(汝)の功績である。もしも斉が要請に応じなかったら、事(戦争)は斉の国において起きる。吾子(汝)の請い(虎牢に築城すること)は諸侯の福であり、寡君だけの利益ではない(築城を口実にして斉の意志を探り、鄭を服従させ、楚の北上を防ぐことができれば、晋だけでなく諸侯の利益になります)。」
 
[] 己丑(十八日)、魯が小君・斉姜(成公夫人)を埋葬しました。
 
[] 魯の叔孫豹(穆叔)が宋を聘問しました。魯襄公の即位を伝えるためです。
 
[] 冬、諸侯が再び戚で会見しました。
晋の荀罃、魯の仲孫蔑、宋の華元、衛の孫林父、曹人、邾人の他に、晋を恐れた斉の崔杼(崔武子)と滕人、薛人、小邾人も参加します。
諸侯が虎牢に城を築くと、鄭が講和を求めました。
 
[十一] 楚の公子・申(大夫)は右司馬になってから、小国に対して頻繁に賄賂を要求していました。また、子重や子辛を圧して政権を握ろうとしました。
それを知った楚共王は公子・申を殺しました。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代139 東周霊王(二) 雞沢の会 前570年