春秋時代139 東周霊王(二) 雞沢の会 前570年

今回は東周霊王二年です。
 
霊王二年
570年 辛卯
 
[] 春、楚の子重(公子・嬰斉)が呉を攻撃しました士卒を選抜して鳩茲(呉邑)を攻略し、衡山呉地に至ります。
そこで鄧廖に組甲(組甲は精巧にできた甲冑の種類。ここでは恐らく車兵の意味)三百と被練(被練も甲冑の種類。ここでは恐らく歩兵の意味)三千を率いて進軍を命じました。
しかし呉軍が迎撃して鄧廖を捕えました。わずか組甲八十と被練三百だけが無事逃げ帰ります。
子重は帰国して飲至しました(飲至は宗廟に戦の報告を行うことです。恐らく戦勝の部分だけを報告したのだと思います)
 
その三日後、呉が楚を攻撃して駕を占領しました。
駕は良邑であり、鄧廖は楚の良将だったため、当時の君子(知識人)はこう言いました「子重の今回の戦役は、獲るものより失うものの方が多かった。」
楚人が子重を譴責したため、子重は心を病んで死んでしまいました。
 
[] 魯襄公が晋に行きました。始めての朝見です。但し、襄公は六、七歳なので、卿大夫に連れられてのことです。
 
夏四月壬戌(二十五日)、魯襄公と晋悼公が長樗(恐らく晋都の郊外)で盟を結びました。
魯の仲孫蔑(孟献子)が襄公の相(国君を補佐する役)を勤めます。
魯襄公が稽首すると、荀罃(知武子)が言いました「別に天子が居られるのに、貴君がわざわざ稽首されましたが、寡君(晋悼公)は恐れ多くて受け入れることができません(まずは周王に稽首するべきでしょう)。」
仲孫蔑が言いました「敝邑(魯)は東表(東の沿海地区)に位置し、仇讎(隣国・敵国。楚・斉や新興の呉)と密接しています。寡君(魯襄公)にとっては貴国の主君こそが頼りなので、稽首しないわけにはいきません。」
 
会見後、襄公が晋から帰国しました。
 
[] 晋は鄭を服従させ(前年)、今後は呉との関係も強化させたいと考え、諸侯を集めることにしました。晋悼公が士を斉に送ってこう伝えます「寡君(晋悼公)(私)を派遣したのは、最近、諸侯の間で糾紛が多く、不測の事態に対して警戒が疎かになっているので(晋を中心とした同盟国間の問題が多く、楚に対する備えが弱くなっているので)、寡君が一二の兄弟と会見し、不協(協力しない者。表面上は楚ですが、実際は斉を指します)について謀ろうと考えているからです。まず貴君が盟を結ぶことを望みます。」
斉霊公は拒否しようとしましたが、晋と敵対することもできず、耏外(耏水沿岸。斉都臨淄附近)で士と盟を結びました
 
[] 晋の中軍尉・祁奚(または「祁傒」)が老齢のため引退しようとしました。悼公が祁奚の職を継がせる人選を問うと、祁奚は解狐を勧めます。解狐は本来、祁奚と敵対していました。
ところが解狐は任官する前に死んでしまいました。
悼公が再び問うと、祁奚は「午(祁午)がいいでしょう」と答えました。午は祁奚の子です。
この頃、祁奚を補佐していた羊舌職も死にました。悼公が「誰に換えるべきだろうか?」と問うと、祁奚は「赤(羊舌赤)がいいでしょう」と答えました。羊舌職の子です。
こうして祁午が中軍尉に、羊舌赤が佐になりました。
 
君子(知識人。あるいは孔子は「祁奚は善人を推挙することができる」と言って祁奚を称賛しました。敵対する者でも能力があればそれを認め、自分の子でも能力があると認めたら遠慮することがなかったからです。
 
以上は『春秋左氏伝(襄公三年)』の記述です。『国語・晋語七』にもこの出来事が書かれています。
祁奚が軍尉の引退を請うと、悼公が問いました「誰に継がせるべきか。」
祁奚が答えました「臣の子・午なら問題ありません。『臣下を選ぶのは主君より相応しい者はなく、子を選ぶのは父ほど相応しい者はいない(「択臣莫若君,択子莫若父。」臣下を知る者は主君に勝る者はなく、子を知る者は父に勝る者はいない)』といいます。午は幼い頃から従順で、外出する時には行き先を伝え、どこかに逗留する時にはその場所を報告しました。学問を好み、遊び耽ることもありません。成長してからも、記憶力がよく、命(父母の言葉)に従い、学業を守って道をはずしませんでした。冠礼を行ってからは、人と和して恭しく接し、小事に対しても仁恵を表し、大事に臨んでもうろたえることなく、実直で心が放縦になることもありません。義から外れたことはせず、高尚なことでなければ行動せず、大事に臨んだら臣よりも賢才を発揮できるでしょう。よって臣はあえて我が子を勧めます。」
悼公は祁午を軍尉に任命しました。そのおかげで平公(悼公の子)が死ぬまで、晋の軍内では誤った政令が発せられることがなかったといいます。
 
[] 六月、周の単子(単頃公)、晋侯(悼公)、魯公(襄公)、宋公(平公)、衛侯(献公)、鄭伯(釐公)および莒子、邾子と斉の世子・光が会しました。
己未(二十三日)、雞沢で盟を結びました。
晋は呉との関係強化を望んでいたため、荀会を淮上(淮水北)に送って呉子(寿夢)を迎え入れようとしました。しかし呉子は来ませんでした。
 
晋悼公は諸侯との間で布命(晋への朝見・聘問の頻度などに関する決まりを布告すること)、結援(困難があった時の救援を約束すること)、修好(過去の友好関係を確認すること)、申盟(改めて盟約を宣言すること)を行い、帰国しました。
 
[] 楚の子辛が令尹になってから、周辺の小国を搾取するようになりました。
楚の圧力に苦しむ陳成公は、袁僑(桓子。袁濤塗の四世孫)を雞沢に派遣して晋と講和させます。
晋悼公は和祖父を送って諸侯に陳の帰順を宣言しました。
 
秋七月戊寅(十三日)、魯の叔孫豹と諸侯の大夫が陳の袁僑と盟を結びました。
 
[] 晋悼公の弟・揚干が曲梁(雞沢付近)で軍列を乱しました(諸侯の会合には軍が従っています)
中軍司馬(軍法を掌る官)の魏絳は揚干の僕(御者)を処刑します。
それを知った悼公は、怒って羊舌赤銅鞮伯華。羊舌職の子で中軍尉佐。軍尉は司馬の上なので、魏絳の上司になります)にこう言いました「諸侯を糾合するのは栄誉なことだ。しかし揚干が侮辱された(御者が殺されたのは主人の屈辱になります)。これ以上の辱めはない。魏絳を必ず処刑せよ!」
羊舌赤が言いました「絳には貳志(二心)がなく、主君に仕えて難を避けることもありません。罪があっても刑から逃げず、自ら説明に来るはずです。敢えて君命を発することはありません。」
羊舌赤が言い終わった時、魏絳が到着し、僕人(上奏文の受けつぎをする官)に書を届けさせました。魏絳自身は剣を抜いて自害しようとしたため、士魴と張老がそれを止めます。
魏絳の書にはこう書かれていました「かつて国君に人材が足りなかったため、臣(魏絳)が司馬に任命されました(謙遜の意味です)。『将兵軍紀を守ることを武といい、軍事において、死んでも軍紀を犯さないことを敬という(師衆以順為武,軍事有死無犯為敬)』といわれています。主公が諸侯を糾合したのに、臣が不敬であっていいはずがありません。主君の師が不武であるのに軍紀を守らない者がいるのに)、執事(政事を行う者。ここでは軍の執法官)が不敬であったら、これ以上の罪はありません。よって、臣は死を恐れて(不敬という大罪によって死刑になることを恐れ)刑を執行しましたが、その結果、揚干をまきこんでしまいました。この罪から逃れることはできません。臣は全軍を訓戒することができず、鉞(刑)を用いることになってしまいました。臣の罪が重いことは承知しています。敢えて主公の刑に逆らって君心を怒らせようとは思っていません。帰国してから、司寇(法官)を通して死刑に処してください。」
書を読んだ悼公は裸足で飛び出し、魏絳に言いました「寡人の言は親愛(親族に対する愛)によるものだ。吾子(汝)の討(誅)は軍礼によるものだ。寡人には弟がいながら、教え諭すことができず、大命軍紀を犯すことになってしまった。これは寡人の過ちである。子(汝)は寡人の過ちをこれ以上重ねさせるな(魏絳が死んだら悼公の過ちが更に大きくなってしまうから、死んではならないという意味です)。」
 
悼公は「魏絳には刑罰によって民を治める能力がある」と判断しました。そこで、会盟から還ると太廟で礼食(大夫をもてなす宴)し、新軍の佐に任命しました。新軍の将は趙武です。
張老が代わって中軍司馬になり、士富范献子。士燮の親族)が候奄になりました。
 
魏絳と張老に関して『国語』にも記述があります。別の場所で紹介します。

春秋時代 魏絳と張老

 
[] 魯襄公が雞沢の会から還りました。
 
[] 楚の公子・何忌(司馬)が陳を侵しました。陳が楚に背いて晋と同盟したためです。
 
[] 許霊公は楚に帰順しており、雞沢の会に参加しませんでした。
冬、晋の荀罃が許を攻めました。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代140 東周霊王(三) 狐駘の戦い 前569年