春秋時代140 東周霊王(三) 狐駘の戦い 前569年

今回は東周霊王三年です。
 
霊王三年
569年 壬申
 
[] 前年、陳が楚に背いて晋と同盟したため、楚の公子・何忌が陳を攻撃しました。
楚軍は年を越えても繁陽に駐軍しています。
 
春、晋の韓厥(韓献子。中軍の将)が心配して朝廷で言いました「文王は殷(商)に背いた国を従えながら、紂商王朝最後の王)に仕えた。時を知っていたからである西周文王は商王朝から離れた天下の三分の二の諸侯を帰順させましたが、時が至っていないことを知っていたため、殷紂に仕えました)。今の我々の状況に置き換えてみると、(楚を帰順させる力がない晋が陳を受け入れるのは)難しいことではないか。」
 
三月己酉(楊伯峻『春秋左伝注』によると、この年の三月に己酉の日はありません)、陳成公が在位三十年で死に、子の哀公・弱(または「溺」)が立ちました。
 
楚は陳の喪を知って兵を還します。
結局、陳は楚に従いませんでした。
これを聞いた魯の臧孫紇(臧武仲)はこう言いました「陳が楚に服さなかったら、必ず滅びることになる。大国が礼を行ったのに帰服しないようでは、大国でも咎(禍)を受けるものだ。小国ならなおさらだ。」
 

夏、楚の彭名が陳の無礼を譴責して再び進攻しました。

[] 夏、魯の叔孫豹(穆叔)が晋に行きました。荀罃(知武子)の聘問(東周簡王十四年・前572年参照)に応えるためです。
晋悼公は叔孫豹をもてなして『肆夏(曲名。詳細は不明です。諸説あります)』の三曲を金奏しました。金奏というのは鐘や鎛で演奏して鼓で節をつけることです。しかし叔孫豹は答拝をしません。
(楽人)が『文王』の三首詩経・大雅の文王、大明、緜)を歌っても、叔孫豹は答拝しません。
『鹿鳴』の三首詩経・小雅の鹿鳴、四牡、皇皇者華)を歌うと、叔孫豹はやっと三拝しました(一首ごとに一拝です)
韓厥が行人(賓客を接待する官)・子員に通じて叔孫豹に問いました「子(あなた)が君命によって敝邑に訪れたので、先君の礼を用い、音楽を献じて吾子(あなた)をもてなしました。しかし吾子は大を棄て、細(小)を重ねて拝しました。これは何の礼によるものですか。」
叔孫豹が言いました「『三夏(肆夏の三曲)』は天子が元侯(牧伯。諸侯の長)をもてなすための曲なので、使臣が聞くべきではありません。『文王』は両君が相見した時の音楽なので、使臣が関わってはなりません。『鹿鳴』は国君が寡君(魯君)を嘉するためのものです(『鹿鳴』には「素晴らしい賓客が来た(我有嘉賓)」等の句があります)。拝さないわけにはいきません。『四牡』は国君が使臣を労う詩です。重ねて拝さないわけにはいきません。『皇皇者華』は国君が使臣に『忠信の者に意見を求めよ(必諮于周)』と教える内容です。『善(忠信の人)を訪ねて意見を聞くことを咨といい、親戚に聞くことを詢といい、礼について聞くことを度といい、政事について聞くことを諏といい、困難について聞くことを謀という(訪問于善為咨,咨親為詢,咨礼為度,咨事為諏,咨難為謀)』といわれています。臣はこの五善を得ることができました。三拝しないわけにはいきません。」
 
[] 秋七月戊子(二十八日)、魯の夫人・姒氏(定姒。成公の妾で襄公の母)が死にました。
姒氏の死体は廟に置かれず(周代の礼では、死者は廟に置かれて葬儀を待ちました)、櫬(内棺)もなく、虞祭(死者の霊が安らかになることを祈る儀式)も行いませんでした。
二年前に斉姜(姜氏)を成公夫人として葬儀・埋葬したため、妾だった定姒の葬儀は疎かにされたようです。
 
この様子を見て、匠慶(工人)が季孫行父(季文子)に言いました「あなたは正卿でありながら、小君(国君の母)の喪を成そうとしません。これでは国君が生母を葬送できません。国君が成長したら、誰が咎を受けるでしょう。」
以前、季孫行父は蒲圃の東門の外に六本の檟木(良木)を植えました。匠慶が棺用の木を求めると、季孫行父は「簡単に造れ」と命じましたが、匠慶は蒲圃から檟木を伐って立派な棺を作り、季孫行父もそれを止めませんでした。
 
[] 陳が成公を埋葬しました。
 
[] 八月辛亥(二十二日)、魯が小君・定姒(定は諡号を埋葬しました。
 
[] 冬、魯襄公が晋に行って聴政しました。聴政というのは政事についての意見を聞くことと、朝見や貢物等の要求を聞くことという意味があります。
晋悼公が宴を開いて魯襄公をもてなすと、魯襄公は小国のを魯の附庸国にすることを請いました。晋悼公が拒否したため、魯の仲孫蔑が言いました「寡君は仇讎(斉・楚)に近接していますが、貴君に仕えることを願い、官命(晋君の命)に背いたこともありません。は貴国の司馬に賦(税。貢物)を納めたことがありませんが(晋の司馬は諸侯の賦を管理していました)、執事(晋の執政者)は朝も夕も敝邑(魯)に命じています(賦を要求しています)。敝邑は小さいので、要求に応えることができず、罪を得ることになるでしょう。よって寡君は助けを借りたいと願っているのです。」
晋悼公は同意しました。
 
[] 楚が頓(陳附近の小国)を使って陳を討たせました。
陳は逆に頓を包囲しました。
資治通鑑外紀』によると、頓は姫姓で子爵の国です。
 
[] 晋悼公は善政を行い、その名声は戎にも届きました。
そこで、無終子・嘉父(無終は山戎の国名。嘉父は国君の名)が孟楽を晋に派遣し、魏絳(魏荘子との関係を使って虎豹の皮を献上しました。晋と諸戎の講和が目的です。
以下、『国語・晋語七』の記述です。
悼公が魏絳に言いました「戎と狄は親がなく(親しい者がなく。または親しむことができず)貪婪だ。討伐した方がいい。」
魏絳が反対して言いました「戎に対して師(軍)を労し、諸華(中原諸侯)を失うようなら、たとえ功を立てたとしても、獣を得て人を失うようなものです。そもそも戎と狄は集まって生活しており、財貨を重んじ土地を軽んじています。財貨を与えて土地を得ることができるのなら、一つ目の利になります。国境の耕農(農民)が警戒を必要としなくなるのなら、二つ目の利になります。戎と狄が晋に仕えれば、四鄰諸国が恐れを抱きます。これが三つ目の利となります。主君はよく考えるべきです。」
悼公は魏絳の進言に納得し、魏絳を派遣して諸戎を鎮撫させました。
諸戎の脅威がなくなったおかげで、悼公は伯(覇者)の地位に登ることができました
 
魏絳の進言は、『春秋左氏伝(襄公四年)』に詳しく書かれていますが、長いので別の場所で紹介します。

春秋時代 魏絳の進言

 
[] 冬十月、邾と莒がを攻めました。
魯の臧紇臧孫紇。臧武仲)を援けるために邾に深く進攻しましたが、狐駘で敗戦します。
魯の国人は髽という髪型で敗北した魯軍を出迎えました。髽は本来、婦人が喪に服す時の髪型で、麻で髪を結いました。麻は入手しやすく、結い方も簡単だったため、狐駘の敗戦の情報が魯に届くと、婦人だけでなく多くの国人がこの髪型にして死者を迎え入れたようです。それだけ戦死者が多かったことを意味します。
 
魯の人々は小国の邾に大敗した臧孫紇を謗って歌を作りました「狐裘(貴重な皮服)を着る臧は、狐駘(狐裘に近い音です)で敗戦を導いた。我が君はまだ子供で、朱儒(侏儒。背が低い人。または国君の傍で娯楽を提供する役者。ここでは臧孫紇)を使っている。朱儒よ、朱儒よ、あなたが我々を邾に負けさせた(臧之狐裘,敗我于狐駘。我君小子,朱儒是使。朱儒朱儒,使我敗于邾)
 
 
 
次回に続きます。