春秋時代 魏絳の進言

晋と諸戎が講和しました。

春秋時代140 東周霊王(三) 狐駘の戦い 前569年

本編では『国語』を元に書きましたが、ここでは『春秋左氏伝(襄公四年)』の内容を紹介します。

 

無終子(無終国の主)・嘉父が孟楽を派遣して諸戎と晋の講和を求めました。

晋悼公が言いました「戎狄は親がなく貪婪だ。講和の必要はない。討伐するべきだ。」
魏絳が反対していました「諸侯が晋に帰順したばかりで、陳も新たに和しました。彼等は我が国の動向を観察しています。我が国に徳があれば睦みますが、そうでなければ二心を抱くでしょう。我々が戎に師を用いたら、楚が陳を攻撃しても援けることができず、陳を棄てることになります。その結果、諸華が必ず叛します。戎は禽獣です。戎を得て華を失うようなことになってはなりません。『夏訓』に有窮氏の后羿の話があります。」
悼公が聞きました「后羿がどうした?」

魏絳が故事を語りました「昔、夏王朝が衰えた時、后羿が鉏から窮石に遷り、夏民の支持を得て政治を行いました。しかし后羿は射術の腕にたより、民事を修めず、狩猟に明け暮れ、武羅、伯困、熊、尨圉といった賢臣を棄て、寒浞を用いました。寒浞は伯明氏(寒は部族名。伯明氏は主の名で、伯明と同じ)に産まれた出来の悪い子弟だったため、伯明后寒(寒后・伯明。「寒国の主・伯明」という意味)に棄てられました。しかし夷羿后羿がこれを拾って信任し、相にしたのです。ところが寒浞は、内後宮内)では媚を売り后羿の妻妾と姦通しました)、外では賄賂を使い(人心を買い)、民を愚弄し、羿を狩猟に夢中にさせました。詐術と姦計によって国家を奪おうとし、内外が寒浞に帰順します。一方の羿は行いを改めることなく、狩りから帰るところを家衆(后羿の家衆で寒浞に買収された者達)に殺され、その子も窮門(窮石城門)で殺されました。この時、靡という者が有鬲氏に逃げました。

寒浞は羿の室(妻妾)と姦通して澆とを産みました。讒慝詐偽(姦悪な能力)に頼り、民に徳を施さず、澆に師を率いて斟灌氏と斟鄩氏を滅ぼさせてから、澆を過に、戈に住ませます。

しかしその後、逃走した靡が有鬲氏で二国(斟灌氏と斟鄩氏)の遺民を集め、ついに寒浞を倒し、少康を立てました。少康は澆を過で滅ぼし、后杼が戈で滅ぼし、有窮氏が滅亡します。この滅亡は人心を失ったために招いたのです。

周代に入ってから、辛甲が大史(太史)として百官を任命し、群臣に王(文王・武王)の過失を諫めさせました。『虞人之箴(「虞人」は狩猟を掌る官。「箴」は訓戒)』にはこうあります『偉大な禹の功績により、九州が分割され、九道が開かれ、民は室と廟をもち(「室」は家屋で生前の場所、「廟」は宗廟で死後の場所です)、獣にも茂った草があり、それぞれの居場所が定まって干渉することがなくなりました。しかし夷羿后羿が帝になってからは、狩猟に明け暮れ、国の憂いを忘れ、考えるのは禽獣のことだけになりました。武(狩猟)を頻繁にしてはなりません。夏家夏王朝のように国を大きくすることができないからです羿のように国を大きくすることができず、逆に滅亡を招くからです)。以上の事を、獣臣(狩猟を掌る官。虞人)が僕(天子の近臣)にお伝えします(身分が低い官員は直接天子に諫言できないため、僕に伝えられました)。』これが『虞箴』に残された戒めです。教訓にしなければなりません。」

悼公は狩猟が好きだったため、魏絳はこのような諫言をしました。

 
悼公が聞きました「戎と和すことが最善の策か?」

魏絳が答えました「戎との和には五利があります。戎狄は荐(草地)に住み、財貨を重視して土地を軽んじています。戎と和せば土地を買うことができます。これが一つ目です。辺境の脅威がなくなれば、民が田野で安心して作業し、穡人(恐らく辺境の農地を管理する人)も功を成すことができます。これが二つ目です。戎狄が晋に仕えれば、四鄰を震えさせ、諸侯に威懐を示すことができます。これが三つ目です。徳によって戎を鎮めることができれば、師徒(将士)を煩わせることなく、甲兵(武器)を損なうこともありません。これが四つ目です。后羿を教訓とし、徳度(道徳・法度)を用いれば、遠国が来朝し、近隣の国が安定します。これが五つ目です。主公はこれらの事をよく考えるべきです。」

悼公は納得し、魏絳を派遣して諸戎と盟を結ばせました。

また、民事に力を尽くし、時節に応じて狩猟を行うことにしました。

 
この後、悼公は晋の覇業を回復させます。