春秋時代141 東周霊王(四) 季孫行父 莱滅亡 前568~567年
今回は東周霊王四年です。
霊王四年
前568年 癸巳
[一] 春、魯襄公が晋から還りました。
[二] 当時、周王室は戎族の脅威を受けていました。
周霊王が晋に協力を求めるため、卿士・王叔陳生を晋に派遣しました。しかし晋は王叔陳生を捕えました。
晋の士魴が京師に行き、「王叔は戎に対して二心を抱いており、使者としての使命を疎かにしました」と報告しました。
実際には、昨年、晋は戎と盟を結んだばかりだったため、周の要請に応えることができず、王叔陳生の二心を口実にして出兵を拒否したようです。
[三] 夏、鄭釐公が公子・発(子国)を魯に送って聘問させました。釐公の即位を報告するためです。
その後、公子・発は斉に行きました。
[四] 魯の叔孫豹と鄫国の世子・巫が晋に行きました。鄫国が正式に魯の附庸国になりました。
晋は呉のために諸侯を集めることにしました。まず、魯と衛に命じて呉と会見させます。
[六] 秋、魯が大雩(雨乞いの儀式)を行いました。旱だったためです。
[七] 二年前、陳が楚に背いたため、楚が陳を譴責し、その理由を問いました。陳は「令尹・子辛(公子・壬夫。楚の大夫)が私欲のために搾取したからです(東周霊王二年・前570年)」と訴えました。
共王は子辛を殺しました。
しかし陳は楚に服従しませんでした。
[八] 九月丙午(二十三日)、晋侯(悼公)、魯公(襄公)、宋公(平公)、陳侯(哀公)、衛侯(献公)、鄭伯(釐公)、曹伯(成公)と莒子、邾子、滕子(成公)、薛伯、斉の世子・光、呉人(寿越?)、鄫人が戚で会しました。
呉と諸侯の交流のためです。
魯の叔孫豹(穆叔)は、鄫を魯の属国にしておくのは魯にとって利がないと考え、鄫大夫を独立した一国の代表として会に参加させました。翌年、鄫は莒に滅ぼされます。魯は莒が鄫を攻めることを知っており、鄫を保護する力がないと判断したため、属国から外したのかもしれません。
この会で、晋は諸侯に陳の戍(防衛)を命じました。
魯襄公が戚の会から還りました。
[九] 楚で子囊(公子・貞の字)が令尹になりました。
晋の范匄(范宣子)が言いました「我々は陳を失うだろう。楚は二心のある国を討伐し、子囊を抜擢した。必ず行い(子辛の暴虐)を改め、迅速に陳を討伐するはずだ。陳は楚に隣接しており、民は朝も夕も兵患を憂いている。楚に帰順しないはずがない。陳を守るのは我が国の責任ではないのだから、陳を手放した方が後のためになるだろう」
冬、晋の命を受けた諸侯が兵を出して陳を守りました。
すると楚の子囊が陳を攻撃しました。
十一月甲午(十二日)、晋侯(悼公)、魯公(襄公)、宋公(平公)、衛侯(献公)、曹伯(成公)、莒子、邾子、滕子、薛伯、斉の世子・光が城棣で会し、陳救援に向かいました。
[十] 十二月、魯襄公が城棣から還りました。
[十一] 辛未(二十日)、魯の季孫行父(季文子)が死にました。
大夫の葬礼に従って襄公自ら葬儀に参加します。
宰(家宰。家臣の長)が家中の器物を集めて葬具を準備しました。妾には帛(絹)を着ている者がなく、馬には余分な餌がなく、金玉財宝の蓄えもなく、同じ器物が複数あるということもありませんでした。
君子は季文子が三君(宣公・成公・襄公)に仕えながら財を貯めなかった忠心を称えました。
季孫行父に関して、『国語・魯語上』に記述があります。
仲孫它(子服它。孝伯。仲孫蔑の子。魯の大夫)が諫めて言いました「子(あなた)は魯の上卿であり、二君の相を勤めてきました。妾が帛を着ることなく、馬が粟を食べることがないようでは、人々は子が吝嗇だと思い、国も栄華を損なうことになります。」
季孫行父が言いました「私も華侈でありたいと思う。しかし国人を観ると、多くの父兄は粗末な物を食べ、粗末な服を着ている。だから私にはできないのだ。人の父兄が粗末な物を食べたり着たりしているのに、私が妾や馬に贅沢をさせたら、国君の相として相応しいといえまい。そもそも、徳によって国に光華をもたらすというのは聞いたことがあるが、妾や馬で国の栄華を誇示するというのは聞いたことがない。」
後に季孫行父がこの事を仲孫蔑に話すと、仲孫蔑は仲孫它を七日間拘束しました。
仲孫它は反省し、その妾も粗末な服を身に着け、馬も雑草を食べるようになりました。
季孫行父は「過ちを知って改めることができる者は、民の上に立つことができる」と言って仲孫它を上大夫に抜擢しました。
霊王五年
前567年 甲午
[一] 春三月壬午(二日)、杞桓公が死にました。
[二] 宋の華弱(または「華溺」)と楽轡(字は子蕩)は幼い頃から仲がよく、親しい関係にありましたが、成長すると互いにけなしあい、中傷するようになりました。華氏も楽氏も宋戴公の子孫です。
ある日の朝廷で、楽轡が怒って弓を華弱の首にかけ、枷のようにしました。それを見た平公が言いました「司武(司馬。軍政を掌る官。華弱を指します)でありながら朝廷で首枷をつけられるとは、我が国が他国に勝利するのは困難だろう。」
平公は華弱を宋から追放することにしました。
夏、華弱が魯に出奔します。
司城・子罕(戴公の子孫)が言いました「同罪なのに罰が異なるようでは、刑とはいえません。朝廷で専横し、人を辱めることほど大きな罪があるでしょうか。」
子罕は楽轡も追放しようとします。
すると楽轡は子罕の屋敷の門に矢を射てこう言いました「数日で汝もわしに従うことになるぞ(汝もわしと同じように追放されることになるぞ)!」
子罕は楽轡を恐れて以前と同じように接することにしました。
[三] 秋、杞が桓公を埋葬しました。
[四] 滕子(滕国の主)が魯に来朝しました。魯襄公即位後、六年経ってやっと行った朝見です。
[五] 莒が魯の属国・鄫を滅ぼしました。
『春秋左氏伝(襄公六年)』は鄫が滅亡した理由を「賄賂に頼ったため(恃賂也)」としています。しかし鄫が誰に賄賂を贈っていたのかはわかりません。莒に賄賂を贈って友好関係を結んでいたので、防備を怠ったのかもしれません。
[六] 冬、魯の叔孫豹(穆叔)が邾に行って聘問しました。
二年前、邾が鄫を攻め、魯が鄫を援けるために出兵したため、邾と魯は敵対していました。しかし鄫が既に滅んだため、魯は邾と修好しました。
[七] 晋が魯に鄫滅亡の責任を問い、魯討伐の準備をしました。魯は鄫を属国にしていたためです。
魯の季孫宿(または「季孫夙」)が晋の処置を仰ぐため、晋を訪問しました。
季孫宿は前年死んだ季孫行父の子です。卿の位を継ぎましたが、この時の魯の政治は仲孫蔑が行っています。
[八] 昨年の夏四月、斉の晏弱が東陽に城を築き(東周霊王元年・前571年にも東陽に築城しています。昨年四月に完成したのか、改めて城を築いたのかは分かりません)、萊国を包囲しました。
甲寅(楊伯峻『春秋左伝注』によると、昨年四月に甲寅の日はありません)、莱城の周りに土山が造られ、堞(女牆。城壁の低くなった部分)の高さに迫ります。
本年三月乙未(十五日。包囲が一年近くに及びました)、莱の王湫(斉の国佐が殺された時、莱に奔りました。東周簡王十三年・前573年参照)が莱軍と正輿子(莱の大夫)、棠(莱城東南の邑)人を率いて斉軍を迎撃しましたが、斉軍が大勝しました。
丁未(二十七日)、斉軍が萊に入ります。萊の共公・浮柔は棠に逃げました。正輿子と王湫は莒に奔りましたが、莒人は二人を殺しました。
四月、斉の陳無宇が萊の宗器を襄宮(襄公廟。または「恵宮」の誤りで恵公廟)に献上しました。晏弱は棠を包囲します。
萊の民は郳に遷されます。旧莱国の土地は斉の群臣に分配されることになり、高厚(高固の子)と崔杼が土地を分割して境界を定めました。
『春秋左氏伝』は莱国の滅亡を「謀略に頼ったため(恃謀也)」と書いています。東周霊王元年(前571年)、莱は斉の攻撃を受けましたが、霊公の寵臣・夙沙衛に賄賂を贈って難から逃れることができました。その後も莱は国を守る備えをせず、賄賂等の手段で戦いを回避できると考えていたようです。
次回に続きます。