春秋時代142 東周霊王(五) 鄭釐公暗殺 前566年

今回は東周霊王六年です。
 
霊王六年
566年 乙未
 
[] 春、郯子が魯に来朝しました。魯襄公即位後、初めての朝見です(本年は魯襄公七年です)
 
[] 夏四月、魯が郊祭(郊外で行う天の祭り)について三回卜いましたが、どれも不吉と出たため、牲(犠牲の牛)を殺さず、郊祭も行いませんでした。
 
仲孫蔑(孟献子)が言いました「私は今回初めて卜筮に意味があることを知った。郊とは后稷を祀って農事を祈るものだ(郊祭では、周王室の先祖である后稷を天に配して儀式を行いました)。だから啓二十四節気の一つ)を越えたら郊祭を行い、郊祭が終わったら農耕が始まる。今回は既に農耕を開始してから郊を卜ったのだから、不吉と出るのは当然だ。」
 
[] 小邾の穆公が魯に来朝しました。小邾も魯襄公即位後、初めての朝見です。
 
[] 魯の南遺が費の宰(県宰)になりました。費は季氏の邑です。
叔仲帯(昭伯。恵伯の孫)が隧正(徒役を管轄する官)に任命されると、季氏と関係を結ぶため、南遺にこう言いました「あなたが費の築城を請えば、私が多数の役夫を手配しましょう。」
季氏は費に城を築きました。
 
[] 秋、魯の季孫宿(季武子)が衛に行きました。東周簡王十四年(前572年)に衛の公孫剽(子叔)が魯に聘問しました。今回、季孫宿が衛に行ったのは答礼のためです。
六年経ってやっと衛を聘問したため、季孫宿は衛献公に遅くなったことを謝罪し、二心がないことを説明しました。
 
[] 八月、魯で螽害がありました。
 
[] 冬十月、晋の韓厥(韓献子)が告老(退職)しました。韓厥の長子である韓無忌には廃疾(不治の病)がありましたが、韓厥は韓無忌に卿の位を継がせようとしました。しかし韓無忌は辞退して言いました「『詩』にはこうあります『朝晩、会いたくないわけではありません。道の露水が多いのです(「豈不夙夜。謂行多露。」『国風・召南・行露』。恋愛中の男女の詩の一部です。男が女に会おうとするのに、女は礼教を守ってなかなか会おうとせず、それを露水のせいにしました。韓無忌は自分自身に病があるため、頻繁に国君に会って仕えることが困難だと伝えるために、この詩を引用しました)。』また、こうもあります『自ら恭しく事を行わなければ、民の信を得ることはできない(「弗躬弗親,庶民弗信。」『小雅・節南山』。病の身である韓無忌は、政務が不便なので信を得ることができないという意味です)。』無忌(私)は不才なので、卿の位を他の者に譲るべきだと考えます。起(韓起。韓宣子。韓無忌の弟)が相応しいでしょう。彼は田蘇(晋の賢人)と交流があり、田蘇も『起は仁を好む』と評価しています。『詩(小雅・小明』にはこういう句もあります『忠実かつ恭敬に汝の位に臨み、誠実実直を好む。神はそれを知り、大福を汝にもたらす(靖共爾位,好是正直。神之聴之,介爾景福)。』民を慈しむことを徳といい、直を正す(真を守る)ことを正といい、曲を正すことを直といい、三者(徳・正・直)を和すことを仁といいます。このようであれば神がその徳を知って福を降します。彼を卿に立てるべきです。」
庚戌(初九日)、韓厥は韓起を入朝させ、自身は引退しました。
晋悼公は韓無忌の仁を称えて公族大夫の主席に任命しました。韓無忌は公族穆子とよばれます。
 
以上は『春秋左氏伝(襄公七年)』を元にしました。『国語・晋語七』には少し異なる記述があります。
韓献子(韓厥)が告老したため、悼公が公族穆子韓無忌)に跡を継がせて入朝を命じようとしました。しかし韓無忌は辞退して言いました「厲公の乱(東周簡王十二年・574年参照)では、臣は公族でありながら死ぬことができませんでした。『功庸(国に対する功績は功、民に対する功績は庸)がない者は、高位にいることができない(無功庸者,不敢居高位)』といいます。今、無忌(私)の智は国君を匡正することができず、禍難を招いてしまいました。また、その仁は国君を救うことができず、その勇は国君のために死ぬことができませんでした。君朝(国君の朝廷)を辱めて韓宗(韓氏の宗族)を損なうことはできません。辞退をお許しください。」
これを聞いた悼公は「雖に遭って国君のために死ぬことはできなかったが、謙譲することはできた。賞しないわけにはいかない」と言って、韓無忌を公族大夫の長に任命しました。

史記・韓世家』はこの年に「が告した。献が死に、宣子(韓起)が代わった。宣子(州邑。地名)に遷った」と書いています。

[] 衛の孫林父が魯を聘問し、季孫宿(季武子)の言(魯の聘問が遅れたことの謝罪と説明)に答謝して、孫良夫(孫桓子)の盟(東周定王十九年・前588年参照)を温めました。
壬戌(二十一日)、魯襄公と孫林父が盟を結びます。
魯襄公が殿上に登ると、孫林父も並んで登りました。相(賓客をもてなす時、国君を補佐する役)の叔孫豹(叔孫穆子。穆叔)が小走りで進み出て、孫林父に言いました「諸侯の会において、寡君(魯君)が衛君の後ろを歩いたことはありません(魯君と衛君は地位が対等なので並んで歩きます)。しかし今、吾子(あなた)は寡君の後ろを歩こうとしません(衛君でも魯君と同列なのに、衛君の臣下であるあなたが、なぜ魯君と並べるのですか)。寡君には自分の過ちがわかりません(なぜあなたが魯君を軽視するのか理解できません。何か罪を犯したのでしょうか)。吾子は少し止まるべきです。」
しかし孫林父は何も答えず、改める様子もありませんでした。
 
後に叔孫豹が言いました「孫子は必ず亡ぶ。臣でありながら君と対等に振る舞い、過ちを犯しても反省しない。これは滅亡の本だ。『詩(国風・召南・羔羊)』には『朝廷から帰って食事をする。自由で気ままなものだ(退食自公,委蛇委蛇)』とあるが、これは国君に対して従順な者の姿だ。横暴なのに委蛇(自由気まま)だったら、必ず倒れる。」
 
[] 楚の公子・貞(子囊)が陳を包囲しました。
 
十二月、晋侯(悼公)・魯公(襄公)・宋公(平公)・陳侯(哀公)・衛侯(献公)・曹伯(成公)・莒子・邾子が(鄭地)で会見し、陳救援を謀りました。
 
[] 鄭釐公(僖公)がまだ太子だった時、子罕と共に晋に行きましたが(東周簡王十一年・鄭成公十年・前575年)、子罕に礼を用いませんでした。後に子豊と楚に行きましたが、やはり礼を用いませんでした。
鄭釐公元年(東周霊王二年・前570年)、釐公が晋を朝見した時、子豊が晋に釐公の無礼を訴えて廃位させようとしました。しかし子罕が諫めて止めさせました。
に諸侯が集まると、釐公も会に参加するために向かいました。子駟が相(国君の補佐)として釐公に従います。この時も釐公が礼を用いなかったため、侍者が釐公を諫めました。しかし釐公は諫言を聞かす、侍者が再び諫めると殺してしまいました。
 
丙戌(十六日)、釐公が(鄭地)に到着した時、子駟が人を使って釐公を殺しました。
『春秋左氏伝(襄公七年)』は子駟が賊を使って夜の間に釐公を殺したとしています。『史記・鄭世家』には「厨人が薬殺した」とあるので、『春秋左氏伝』の賊というのは厨人(料理担当)を指し、毒薬によって殺害したようです。
子駟は諸侯に「瘧疾(急死)した」と伝えました。
釐公の在位年数は五年です。子の嘉が即位しました。これを簡公といいます。この時わずか五歳でした。
 
[十一] 陳の人々は楚に包囲されて不安の中にいます。そこで、慶虎と慶寅(どちらも陳で政権を握る大夫)が楚軍にこう言いました「我々が公子・黄(陳哀公の弟)を派遣するので、それを捕えてください。」
楚軍はこれに同意します。
二慶はに使者を送り、会見に参加している陳哀公にこう伝えました「楚人が公子・黄を捕えました。主君が帰らなければ、群臣は社稷・宗廟を惜しむことなく、他の考えを抱くことになるでしょう(陳哀公の留守中に楚が公子・黄を陳君に立てたら、群臣はそれに従うことになるでしょう)。」
哀公はの会から逃げ帰りました。元々、陳救援のために集まった諸侯ですが、陳哀公が帰ったため、会は中止されたようです。
史記』の『陳杞世家』と『十二諸侯年表』を見ると、楚軍も兵を還したようです。
 
 
 
次回に続きます。