春秋時代144 東周霊王(七) 宋の火災 前564年(1)

今回は東周霊王八年です。二回に分けます。
 
霊王八年
564年 丁酉
 
[] 春、宋で火災がありました。『春秋』経文には「宋災」と書かれています。「火」は人為的な火事、「災」は天が降した火災といわれているので(東周定王十四年・593年参照)、今回の火災は「天災」とみなされたようです。但し、原因不明の火事も「災」に含まれていたはずです。
尚、『春秋公羊伝(襄公九年)』では、「大きな火事を『災』、小さな火事を『火』と書く」と解説しており、『春秋左氏伝』の解釈とは異なります。
 
宋では楽喜(子罕)が司城として政事を行っていました(宋には右師・左師・司馬・司徒・司城・司寇がおり、楽喜は五番目でしたが、賢才と仁徳によって政権を握っていました)
今回の火災が起きた時、楽喜は大夫・伯氏に里巷(城民の居住地)を管轄させました。伯氏は火が至っていない場所に急行すると、小さな家屋を破壊し、大きな家屋には泥水を塗り、土や水を運ぶ道具を集め、作業の内容にあわせて人員を配置し、水を溜め、土を積み、城郭を巡視して守りが疎かになっている場所を修築し(火災に乗じて侵攻する敵に備えるためです)、火道(火の向き、勢い)を明確にして人々を非難させました。
一方の楽喜は、司徒・華臣(華元の子)に正徒(正規の兵)を集めさせ、隧正(隧は国都の遠郊です。城外を郊、その外を隧といいました。隧正は隧の長です)に命じて郊保(郊外の堡塁)の兵を城内の火災現場に派遣させました。また、華閲(華元の子)右官(右師・華元の官属)を指揮させ、左師・向戌に左官を指揮させ、司寇(法官)・楽遄に刑具を準備させました(火災に乗じて起きる犯罪に対応させるためです)。それぞれの官が職責を尽くします。
同時に楽喜は司馬・皇鄖(字は椒。東郷為人の子)に命じ、校正(司馬の属官。馬を管理します)に馬を牽いて脱出させ、工正(司馬の属官)に車を移動させ、甲兵(武器・甲冑)を準備して武庫を守らせました。その後、太宰・西鉏吾に国庫を守らせました。命を受けた西鉏吾は司宮(宮中の宦官)と巷伯(宮中の巷路を管轄する宦官)に公宮を警備させました。
同じ頃、二師(右師・華元と左師・向戌)は四人の郷正(郷大夫)に祭祀を行わせ、祝宗が馬を殺して四墉(四城)の神を祭り、西門の外で盤庚商王朝の王。宋人の先祖)を祀りました。
 
晋悼公が士弱荘子。士渥濁の子)に問いました「宋の火災によって天道を知ることができると聞いたが、それはなぜだ。」
士弱が答えました「古の火正(官名。火星を祭る官)は、大火(火星)を祭る時、(大火を)(心宿)か咮(柳宿)に配しました。火星がこの二つの星の間にあったからです。そのため、咮は鶉火、心は大火とよばれました。陶唐氏(帝堯)の火正・閼伯は商丘に住み、大火を祀って火星から紀時(時節を確定すること)しました。相土商王朝の先祖)がそれを受け継いだため、商は大火を祭祀の主星にしました。その後、商人は禍敗の予兆を火から得るようになり、火によって天道を知ることができると信じるようになったのです。」
悼公が聞きました「本当に火から予兆を得ることができるのか?」
士弱が答えました「大切なのは道です。国が乱れても、天が予兆を与えなければ知ることができません(火災等を予兆として頼っていたら、天が災害を起こさなければ禍乱を知ることができなくなります)。」
 
[] 夏、魯の季孫宿(季武子)が晋に行きました。前年の士范宣子)の聘問に対する答礼です。
 
[] 魯の宣公夫人・姜氏(穆姜。成公の母。襄公の祖母)は叔孫僑如と姦通して季氏や孟氏を排斥しようとしましたが、失敗しました(東周簡王十一年・前575年参照)。叔孫僑如は出奔し、穆姜は東宮に入れられます。
東宮に入ったばかりの時、筮で占うと「艮之八」という卦が出ました。史(太史)が言いました「これは『艮』が『隨』に変わるという卦です(易は難しいので詳しいことはよくわかりません)。『隨』は『出る』という意味です(「随」は「人に従って行く」という意味があり、「出る」に通じるようです)。あなたはすぐに東宮から出るべきです。」
しかし穆姜はこう言いました「その必要はありません。『周易』によると『隨』は『元・亨・利・貞』であり『咎(災難)がない』と解釈されています。『元』は体の長(最も高い場所。頭)です。『亨(享)』は嘉の会(慶祝の宴。享宴)です。『利』は義の和(公の利を行うことを義といい、義が和せば利になると考えられていました)です。『貞』は事の幹です(貞とは言行が一致していることです。貞であれば事を成功させることができます)。仁を体現できれば人を動かすことができ、嘉徳(美徳)をもてば礼にかなうことができ、物を利すれば義を和すことができ、貞を固めれば事を成すことができます。このようであれば、侮られることがなく、『隨』の卦が出た時、咎を受けなくてすむのです。しかし私は婦人でありながら乱に加わりました。元々下位(国君の下。または女の身)にいながら、不仁を行ったので、『元(体の長。転じて国の長)』とはいえません。国家を安静にすることができなかったので、『亨』とはいえません(動乱の間は嘉の会を開くことができません)。乱を起こして自分の身を害したのですから、『利』とはいえません。本位(成公の母であり、未亡人である立場)を棄てて姣(美麗)を求めたので、『貞』とはいえません。四徳がある者は『隨』の卦が出た時、咎から免れることができますが、私には一つの徳もないので、『隨』の卦は当てはまりません。私は自ら悪を選びました。必ず咎を受けます。私はここで死ぬはずです。出て行く必要はありません。」
 
五月辛酉(二十九日)、穆姜が東宮で死にました。
 
[] 六月、鄭簡公が楚に朝見しました。
 
[] 秦景公が士楚に送って出兵を請いました。晋を攻撃するためです。楚共王が同意すると、子囊が反対して言いました「いけません。今の我々に晋と争う力はありません。晋君は能力に応じて人材を用いているので、賢人が抜擢から漏れることがありません。その官員は政令を妄りに変えることなく、卿は善人に譲り、大夫は職責を守り、士は教化を競い、庶人は農事に力を尽くし、商工や皁隸(賤役)も職業を変えることがありません(社会が安定しているという意味です)。韓厥が告老(引退)したら知罃が政事を受け継ぎました。范は中行偃よりも若いのに、その上に位置して中軍の佐を勤めています(中行偃は上軍の将です)。韓起は欒黶よりも若いのに、欒黶、士魴の上に位置して上軍の佐を勤めています(欒黶と士魴は韓起に上軍の佐を譲ったようです)。魏絳は功績が多いのに、趙武を賢人と認めてその佐になりました(趙武は新軍の将、魏絳は佐です)。君明(国君が賢明)・臣忠(臣下が忠直)で、しかも上が譲って下が尽力している今の晋は、敵としてはならず、逆に彼等に仕えてこそ安全を得ることができます。王はよく考えるべきです。」
しかし共王は「わしは既に秦に同意した。たとえ晋に及ばないとしても、出師する必要がある」と答えました。
 
秋、楚共王が武城に駐軍して秦の後援となりました。
秦が晋を攻撃します。
この年、ちょうど飢饉が晋を襲ったため、晋は反撃できませんでした
 
[] 八月癸未(二十三日)、魯が小君・穆姜を埋葬しました。
 
 
 
次回に続きます。