春秋時代146 東周霊王(九) 偪陽攻略 前563年(1)

今回は東周霊王九年です。二回に分けます。
 
霊王九年
563年 戉戍
 
[] 春、晋侯(悼公)・魯公(襄公)・宋公(平公)・衛侯(献公)・曹伯(成公)と莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子および斉の世子・光(『史記・斉太公世家』はこの年に公子・光が太子になったとしています)呉子(寿夢)と会すことになりました。
 
三月癸丑(二十五日)、斉の高厚が世子・光の相(補佐役)となり、先行して鍾離で諸侯と会いました。しかしその時の態度が不敬だったため、晋の士弱(士荘子がこう言いました「高子が太子の相として諸侯に会うのは、本来、社稷の衛(守り)となるためだ。しかしその態度が不敬では、社稷を棄てることになる。禍から逃れることはできないだろう。
 
夏四月戊午(初一日)、中原諸侯と呉子(寿夢)が柤(楚地)で会しました。
 
[] 晋の荀偃と士偪陽を占領して宋の賢臣・向戌の封邑にすることを請いました。偪陽は姓の小国です。『資治通鑑外紀』は子爵の国としていますが、これは『春秋左氏伝』に偪陽の国君が「偪陽子」と書かれているためです。但し、「子」は通常、子爵の意味を持ちますが、夷狄の主の意味もあるので、偪陽子が子爵かどうかははっきりしません。
荀罃は拒否してこう言いました「偪陽は小城だが堅固だ。勝っても武とはいえないが、負けたら笑い者になる。」
しかし荀偃と士が頑なに攻撃を要求したため、荀罃はやむなく同意しました。
 
丙寅(初九日)、晋が偪陽を包囲しましたが、なかなか攻略できません。
同日、魯の孟氏の家臣・秦父が人力で重車(荷車)を牽いて戦場に到着しました(人力で重車を牽いたというのは、秦父の勇力を表しています)
諸侯の士が場門を攻撃すると、偪陽の守備兵がわざと城門を開けました。諸侯の士が開いた門に攻め入ります。すると、偪陽の守備兵は諸侯の兵を城内に閉じ込めるため、懸門を下ろし始めました。既に城内に入った士卒は混乱に陥りましたが、魯の郰人・紇(郰は魯の邑。紇は郰邑大夫・叔梁紇で、孔子の父)が両腕を挙げて門を支えたため、城内に進入した士卒は脱出することができました。
 
魯の狄虒彌(または「狄斯彌」)が大車の車輪を立てて、皮製の甲を被せて櫓(大盾)とし、左手で持ちました。右手には戟を持ち、一隊を指揮しています。「一隊」の人数は、十五人、百人、二百人等の諸説があります。
この様子を見た魯の仲孫蔑(孟献子)が言いました「『詩(邶風・簡兮)』に見られる『虎のように力がある(有力如虎)』という者のようだ。」
 
城を守る将が城壁の上から布を垂らしました。それを見つけた秦父が布をつかんで城壁を登ります。ところが堞(城壁の低くなっている場所)に至ったところで布が切られたため、秦父は城下に転落しました。守将が再び布を垂らすと、秦父は立ち上がってまた城壁を登ります。しかしやはり城下に落とされました。これが三回繰り返された時、守将はその勇気に敬意を表しました。
城を攻略することができない諸侯の士兵は一時退きました。秦父は切られた布を帯びて三日間、陣中で巡示しました。勇を誇示して士気を挙げるためです。
 
諸侯の軍が偪陽を攻撃して久しくなります。
荀偃と士荀罃に言いました「もうすぐ雨が降ります。兵を還すのが困難になるので、今のうちに退却するべきです。」
荀罃は怒って机を投げつけました。机は「几」とも書き、肘掛のようなものです。但し、楊伯峻の『春秋左伝注』によると、「几」は大きくて投げにくいので、弩を撃つための「機」を投げた可能性もある、と解説されています。
荀罃が投げた机は荀偃と士の間を飛びました。
荀罃が言いました「汝等は二事偪陽を攻撃することと、向戌に与えること)を決定してから余に報告した。余は軍令の混乱を恐れたから、汝等に反対しなかったのだ。汝等は国君を煩わせ、諸侯の師を起こし、老夫(荀罃)をここまで引っ張って来たのに、武を堅持することなく、余に退却の責任を押し付けるのは、後々になって『あの時、退却していなければ攻略できた』とでも言うつもりか。老弱の余にまた罪を負わせるのか(荀罃は邲の戦いで楚の捕虜になっています。今回、兵を動かしたのに成果がなければ、罪を重ねることになります)。今日から七日間で攻略できなかったら、汝等の首を取って謝罪する!」
 
五月庚寅(初四日)、荀偃と士が卒(歩兵)を率いて偪陽城を攻撃しました。二人とも陣頭に立ち、自ら矢石を浴びます。
甲午(初八日)、ついに偪陽が滅びました。
 
晋は偪陽を宋の向戌に与えようとしましたが、向戌が辞退して言いました「貴君が宋国を鎮撫し、偪陽によって寡君(宋平公)の領土を広げるというのなら、我々群臣も安心できます。これ以上大きな賜はありません。しかしもしも臣下に与えるというのなら、臣下が諸侯の師を起こして自分の封邑を得たことになります。これ以上大きな罪はないので、死を請わせていただきます。」
晋は偪陽を宋平公に与えました。
 
宋平公が楚丘で晋悼公をもてなし、『桑林』の楽舞を披露しようとしました。商王朝を開いた成湯を称える内容です。
荀罃が辞退すると、荀偃と士が言いました「諸侯の中では宋と魯において儀礼を観ることができます。魯には『禘楽』があり、賓客を招待したり大祭を開く時に用います。宋が『桑林』で国君をもてなすのに、問題がありますか(魯では賓客が『禘楽』を観ることができます。晋君が宋で『桑林』を観ても問題ないはずです)。」
そこで、『桑林』が奏でられ、舞いが始まりました。楽師が旌夏(旗の一種)を掲げ、楽人を従えて入場します。晋悼公は特殊な形をした旌夏を観ると恐れて房正室の東西にある部屋)に入ってしまいました。そのため、旌夏をはずして『桑林』の楽舞を続けました。
 
晋悼公一行が帰国し、著雍(晋地)に入った時、悼公が病にかかりました。卜いをすると「桑林の神」が見えます。荀偃と士は宋国に戻って祈祷を請おうとしましたが、荀罃がこう言いました「元々、我々は『桑林』の儀礼を断ったのに、彼等が敢えてそれを行った。もしも鬼神がいるのなら、彼等に咎を与えるはずだ。」
 
暫くして悼公の病が恢復したため、偪陽子(偪陽の国君)を連れて晋都に還り、「夷俘(夷の捕虜)」と名付けて武宮(晋の太祖廟。武公廟)に献上しました。
偪陽は姓の国です。晋悼公は使者を派遣して周の内史に姓の族嗣を選ばせ、霍人(晋の邑名)偪陽の祭祀を継続させました
 
[] 魯襄公と魯軍が帰国しました。仲孫蔑(孟献子)が秦父を車右に任命しました。
父は秦丕茲(または「秦不茲」。秦商。丕茲は字)を産み、秦丕茲は後年、仲尼孔子に仕えて弟子になりました。
 
[] 六月、楚の公子・貞(子囊)と鄭の公孫輒(子耳)が宋を攻めて訾毋(宋地)に駐軍しました。
庚午(十四日)、楚・鄭連合軍が宋を包囲し、桐門(北門)を攻撃しました。
 
[] 晋の荀罃が秦を攻めました。昨年の報復です。
 
[] 衛献公が宋を援けるため、襄牛(衛地)に駐軍しました。
鄭の子展が子駟に言いました「衛を撃つべきです。そうしなければ楚と親しくなれません。既に晋の罪を得たのに、楚の罪まで得たら、国を守ることはできません。」
子駟が言いました「国が疲弊している。」
子展が言いました「二大国から罪を得たら必ず滅亡します。疲弊は滅亡ほどひどい状態ではありません。」
諸大夫は子展の意見に賛成しました。
そこで、鄭の皇耳(皇戌の子)が軍を率いて衛を侵しました。
 
衛の孫林父孫文子)が鄭との戦いを卜いました。卜兆(亀の甲羅の亀裂)を定姜(姜氏。衛定公の妻。献公の母)に見せると、定姜は繇辞(卜兆を解説する辞)を問いました。孫林父が言いました「今回の繇辞は『兆は山陵のようであり、ある者が出征したら、その雄を失う(兆如山陵,有夫出征,而喪其雄)』です。」
定姜が言いました「征者が雄を失うということは、禦寇(防御する者)の利となります。」
衛は鄭軍を迎撃し、孫蒯(孫林父の子)が鄭の皇耳を犬丘で捕えました。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代147 東周霊王(十) 鄭の内争 前563年(2)