春秋時代147 東周霊王(十) 鄭の内争 前563年(2)

今回は東周霊王九年の続きです。
 
[] 秋七月、楚の子囊と鄭の子耳が魯の西境を攻撃しました。
両軍は兵を還してから䔥(宋の邑)を包囲します。
八月丙寅(十一日)、䔥が陥落しました。
 
九月、鄭の子耳が宋の北境を攻撃しました。
 
魯の仲孫蔑が言いました「鄭には災禍が起きる。師が争うこと甚だしい(戦争が多すぎる)。周(天子)でも争いを控えるものなのだから、鄭ならなおさらそうしなければならない。(鄭簡公はまだ幼いから)禍は執政をしている三士(子駟・子国・子耳)に起きるだろう。」
 
[] 諸侯の戦が続いているため、莒が魯の東境を攻めました。
 
[] 晋侯(悼公)・魯公(襄公)・宋公(平公)・衛侯(献公)・曹伯(成公)と莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子および斉の世子(太子)・光が鄭を攻めました。
斉の崔杼が世子・光に対して積極的に攻撃に参加するよう勧めます。
己酉(二十五日)、連合軍が牛首(鄭地)に駐軍しました。
 
[] 鄭の子駟は尉止と対立していたため、諸侯の軍と戦う時、尉止の兵車を削減しました。戦闘が始まり、尉止が敵の捕虜を得ると、戦功を争う子駟は「尉止の車は礼に背いている(まだ車が多すぎる)」と糾弾し、捕虜を献上させませんでした。捕虜の献上は戦功の報告にあたります。
以前、子駟が田地の水溝を造りました。大規模な水利工程だったようです。司氏、堵氏、侯氏、子師氏が田地を奪われました。
尉氏と田を奪われた四氏は協力して不逞の者(志を得ていない者)を集め、子駟に殺された公子(子狐、子熙、子侯、子丁。東周霊王七年・前565年参照)徒と謀反を企むようになりました。
 
当時、子駟(公子・騑)が当国、子国(公子・発)が司馬、子耳(公孫・輒)が司空、子孔(公子・嘉)が司徒を勤めていました。
冬十月戊辰(十四日)、尉止、司臣、侯晋、堵女父、子師僕が徒党を率いて宮内に侵入します。
早朝、尉止の勢力は西宮を襲って子駟、子国、子耳を殺し、鄭簡公を連れて北宮に入りました。子孔は陰謀を知っていたため、事前に逃走しました。
 
子西(公孫夏。子駟の子)は異変の報告を受けると備えをせず家を飛び出し、父・子駟の死体を収めて叛乱集団を追いました。尉止等が北宮に入ると、子西は屋敷に帰って甲(兵)を集めます。しかし臣妾(男女の奴隷)の多くが逃走し、器物もほとんどがなくなっていたため、兵を集めることができませんでした。
子産(子国の子)は異変を聞くと門に警護の兵を置いて人の出入りを禁止し、群司(諸官員)を配置し、府庫を閉じて物資を守り、守備を固めてから、士兵を率いて家を出ました。兵車十七乗を従えています。父・子国の死体を収めてから北宮を攻めました。
子蟜(公孫・蠆)が国人を率いて子産を援け、尉止と子師僕を殺しました。尉止等に従った徒党も全て殺されます。侯晋は晋に奔り、堵女父、司臣、尉翩(尉止の子)、司斉(司臣の子)は宋に奔りました。
 
子孔が当国として政権を掌握し、自分に権力を集中させる載書(盟書)を作りました。官員の地位・職責を定めて、子孔が出す政令・法令に従わせます。
更に子孔は大夫、諸司(諸官員)、門子(卿の嫡子)で自分に従わない者は誅殺しようとしました。子産が殺戮を止めるように進言し、子孔の専制が約束された盟書も焼くように勧めましたが、子孔はこう答えました「盟書によって国を定めたのに、衆人が怒ったからといって(反対したからといって)それを焼いたら、衆人に政事を任せることになる。そのようなことでは国政はできない。」
子産が言いました「衆人の怒りには背けないものであり、専権を成し遂げるのは困難なことです。二つの難をあわせて国を安定させるのは、危険な道です。盟書を焼いて衆人を安心させれば、逆にあなたは欲する物を得ることができ、衆人も安定します。専制の望みは達成することが困難で、衆人に背けば禍を招きます。私の言葉に従うべきです。」
子孔は盟書を倉門(東南門)の外で焼き、人心を安定させました。

以上は『春秋左氏伝(襄公十年)』の記述です。『史記・鄭世家』では異なる記述になっています。
当時、鄭で実権を握っていた子駟は鄭簡公を殺して自ら国君になろうとしました。
それを知った子孔が尉止等を使って、子駟を殺しました。
ところが子孔も国君になろうとします。子産が諌めて言いました「子駟は専横が甚だしく、謀反を謀ったために誅されました。今、あなたもその真似をしたら、国を治めることができません。」
子孔は子産の意見を聞いて、簡公の相として国政を預かるようになりました。

しかし、この子孔も専横が目立ち、約十年後に殺されることになります。

[十一] 諸侯が鄭の要地・虎牢(北制)を占拠しました。
晋軍が梧と制(どちらも虎牢附近)に城を築き、士魴と魏絳が守りました。鄭に圧力をかけるためです。
その結果、ついに鄭が晋と講和しました。
 
[十二] 楚の子囊(公子・貞)が鄭を援けるために北上していました。
十一月、晋を中心とする諸侯の軍が鄭の周りを通って南に向かい、陽陵(鄭地)に至ります。
楚軍に撤兵の動きはありません。
晋の知罃(荀罃。知武子)が言いました「我々が退けば楚を驕らせることができる。驕った相手なら戦うことができる。」
しかし欒黶が退却に反対して言いました「楚から逃げるのは晋の恥です。諸侯を集めながら恥を増やすくらいなら、死んだ方がいい。私は一人でも進軍します。」
晋軍は前進しました。
己亥(十六日)、晋・楚両軍が潁水を挟んで対峙しました。
 
鄭の子矯が言いました「諸侯には戦う気がなく撤兵するつもりだ。我々も敢えて楚と戦うことはない。我々が晋に従っても彼らは撤兵する。従わなくても撤兵する。諸侯が兵を退いたら、楚は必ず鄭を包囲する。どちらにしても諸侯が兵を退くのなら、我々は速く楚に帰順して楚師を退かせた方がいい。」
鄭軍は夜の間に潁水の南に渡り、楚と盟を結びました。
 
欒黶が鄭軍を攻撃しようとしましたが、荀罃が反対して言いました「我が軍には楚を防ぐ力がなく、鄭を守る力もない。鄭に何の罪があるというのだ。我々は師を還し、鄭に楚を怨ませるべきだ(鄭が楚に服従したら、楚は鄭に様々な要求をするはずなので、関係が悪化するという意味です)。今、鄭の師を討てば、楚が必ず援ける。楚と戦ってもしも勝てなかったら諸侯の笑い者になるだけだ。勝利が確信できないのなら、撤兵するべきだ。」
丁未(二十四日)、晋と諸侯の連合軍が兵を退き、鄭の北境を侵して還りました。
楚も兵を退きました。

この戦い(晋を中心とする諸侯が牛首に駐軍して鄭を攻め、潁水で楚と対峙した戦い)を晋悼公三駕の「一駕」といいます。「駕」は出兵の意味です。 

[十三] 魯襄公が鄭討伐から帰国しました。
 
[十四] 周の王叔陳生と伯輿(どちらも周王の卿士)が政権を争いました。霊王が伯輿を援けたため、王叔陳生は怒って出奔し、黄河に至りました。霊王は王叔陳生を呼び戻し、王叔陳生と敵対していた史狡を殺してなだめます。しかし王叔陳生は成周に帰らず、黄河沿岸に住みました。
 
晋悼公が范宣子)を派遣して王室の争いを調停させました。王叔陳生と伯輿が互いに訴えます。
は王庭で王叔陳生の宰(家臣の長)と伯輿の大夫・瑕禽の証言を聴きました。王叔の宰が言いました「篳門(柴門)閨竇(小戸)の人(身分が賤しい者。伯輿を指します)が上にいる者を凌駕しようとしているので、上の者は苦労しています。」
瑕禽が言いました「昔、平王が東遷した時、七姓(伯輿の先祖を含む七つの姓の大臣)が王に従い、祭祀で用いる犠牲を準備しました。平王は七姓を頼り、騂旄赤毛の牛。犠牲)の盟によって『代々職責を失ってはならない(世世無失職)』という言葉を与えました。篳門閨竇がいなければ、東に来ることはできなかったでしょう。平王はなぜ彼等を頼りにしたというのでしょうか。最近、王叔が相になってから、賄賂が横行し、刑罰は寵臣に任されています。官の師旅(属吏)は巨額の賄賂に堪えることができず、このような状況で我々が篳門閨竇にならないはずがありません。大国(晋)はよくお考えください。下にいる者が直でなければ、正(公正)とはいえません。」
が言いました「天子が助ける者を寡君(晋君)も助けるだけだ。」
王叔氏と伯輿の双方に訴状を提出させました。しかし王叔氏は伯輿より有利な文書を提出できませんでした。恐らく霊王が伯輿を援けたためです。
結局、王叔陳生は晋に出奔しました。
周王室では単靖公(頃公の子)が卿士になり、王室を補佐することになりました。
 
 
 
次回に続きます。