春秋時代148 東周霊王(十一) 魯の三軍編成 前562年(1)

今回は東周霊王十年です。二回に分けます。
 
霊王十年
562年 己亥
 
[] 魯の季孫宿(季武子)が三軍を編成する計画を叔孫豹(叔孫穆子)に話しました。楊伯峻の『春秋左伝注』によると、叔孫豹に相談したのは魯襄公が幼かったためだけではなく、叔孫氏が代々司馬として軍政を担っていたからのようです。
季孫宿が言いました「三軍を作ることに同意してください。各家(季孫氏・叔孫氏・孟孫氏)が一軍を管理することにしましょう。」
叔孫豹が言いました「政権はすぐ子(あなた)に渡ります。(三軍を作ったら)子はうまく政事をすることができないでしょう。」
楊伯峻の『春秋左伝注』によると、季孫氏は代々上卿として魯の政治を行っていましたが、季孫宿がまだ若いため、この時は叔孫豹が政権を握っていました。老齢の叔孫豹はやがて季孫宿に政権を返すことになります。しかしその時に季孫宿が政権と軍権の両権を握るようになったら、季孫氏の専横が始まるため、叔孫豹は三家が団結できなくなることを心配したようです。
結局、季孫宿が頑なに請願したため、叔孫豹は盟を結んで政治を乱さないように約束させることにしました。
僖閎(僖公廟の大門)で盟を結び、五父の衢(大通の名)で呪詛が行われます。呪詛は盟に背いた者に禍を与えるためです。
 
春正月、魯が三軍を作りました。
 
以上は『春秋左氏伝(襄公十一年)』の記述です。三軍建設に関して、『国語・魯語下』にも記述があります。
季武子季孫夙。季孫宿)三軍編成を主張しましたが、叔孫穆子叔孫豹)が反対して言いました「いけません。天子の師六軍の衆)が作られたら、(諸侯で王の卿士を担当する者)がそれを指揮して不徳の者を征伐します。元侯(大国の主君)の師(三軍の衆)が作られたら、卿がそれを指揮し、天子(王師)に従って不義を討伐します。諸侯(次国の主君)は卿(命卿。天子から任命された卿。大国の諸侯には三卿がおり、二卿は天子から、一卿は国君から任命されました)がいても軍(三軍)を持たず、教衛(訓練を受けた武衛の士)を率いて元侯を補佐します。伯爵・子爵・男爵は大夫がいても卿(命卿)を持たず(小国は二卿だけで、どちらも国君に任命されました)、賦(兵車・甲士)を率いて諸侯(大国)に従います。こうすることで上が下を征伐し、下には姦悪がなくなるのです。今、我々は小侯の国であり、大国(斉・楚)の間にいます。貢賦(兵車・甲士)を準備して大国に供給しても、なお彼等から討伐されることを恐れなければならない立場にいるのに、自ら元侯がやるべきこと(三軍を擁すこと)を行ったら、大国を怒らせてしまうでしょう。三軍を編制するべきではありません。」
季孫夙は諫言に従わず、中軍を作りました。
この後、斉と楚が代わる代わる魯を攻撃するようになり、襄公と昭公の代になって魯は楚に入朝しなければならなくなりました。
 
『春秋左氏伝』も『国語』も三軍建設の経緯については記述がありますが、三軍の詳しい内容についてはほとんど触れていません。
楊伯峻の『春秋左伝注』の解説によると、一軍は一万二千五百人を擁します。これ以前の魯にいくつの軍があったのかははっきりしませんが、『国語』の記述(中軍を作ったという部分)を見ると、恐らく元は上下二軍だったところに中軍を増やして三軍にしたようです。
季孫氏・叔孫氏・孟孫氏の三家がそれぞれ国の一軍を擁すことになり、三家はそれまで持っていた私軍を解散させました。これ以前は、国軍の兵は魯の郊遂から集められ、卿大夫の私兵は自分の邑から集められていました。
三軍編成後、季孫氏は私邑の奴隷を全て開放して自由民とし、その中で兵を提供する邑を「役邑」として季氏の一軍を補充させました。季孫氏の一軍に参加した者は税を免除し、参加しない者は税を倍にすることで、兵源と財源を確保しました。
孟孫氏は私邑の兵の半数を臣(奴隷兵)にしました。自由民の子や弟も含まれます。
叔孫氏の私邑の兵は元々奴隷兵でした。一軍を擁してからも、私邑の兵を全て奴隷兵にしました。
 
これ以外にも三軍の内容に関しては諸説があります。東周景王八年・前537年に中軍が廃止されるので、そこで改めて述べることにします。
 
今回の三軍編制によって三桓が魯の軍権を掌握するようになりました。この後、三桓の専横が激しくなり、魯公室が衰退していくことになります。
 
[] 夏四月、魯が郊祭を四回卜い、不吉と出たため郊祭を行いませんでした。
 
[] 周・蔡・宋・楚に隣接する鄭は中原に覇を称えるための必争の地でした。かつては晋と秦が鄭を争い、今は晋と楚が鄭を争っています。
鄭の人々は晋と楚を憂いました。
鄭の諸大夫が言いました「晋に従わなければ国が亡ぶだろう。楚は晋よりも弱いが、晋には今すぐ我が国を奪おうというつもりはない。もし晋が我が国を本気で奪おうとしたら、楚は晋を避けるはずだ。晋師に死力を尽くして我が国を攻撃させて、楚が晋にかなわないことがはっきりすれば、我々は晋との関係を固めることができる。」
子展公孫舍之。子展は字。公子・喜の子)が言いました「宋を挑発すれば諸侯が宋を援けに来る。そこで我が国が諸侯と盟を結べば、楚師が出て来る。我々がまた楚に従えば、晋の怒りは甚だしくなり、頻繁に攻めて来るだろう。そうなったら楚は晋に抵抗できず、我々は晋との関係を固めることができる。」
大夫は納得し、国境の(官吏)に宋を挑発させました。
宋は向戌に鄭を攻撃させて大きな戦果を上げます。
 
子展が言いました「師を発して本格的に宋を討つ時が来た。我々が宋を討てば、諸侯が力を尽くして我が国を攻撃する。我々は諸侯の命に従い、同時に楚に報告しよう。楚師が到着したら再び楚と盟し、晋師にも厚く賄賂を贈れば、禍(連年の戦争)から逃れることができる。」
鄭の子展宋を侵しました。
 
[] 晋侯(悼公)、魯公(襄公)、宋公(平公)、衛侯(献公)、曹伯(成公)と斉の世子・光、莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯、小邾子が鄭を討伐しました。
己亥(十九日)、斉の太子・光と宋の向戌が先に鄭に入り、東門を攻撃します。その夜、晋の荀罃が鄭の西郊に至り、東進して許国の故地を攻めました。衛の孫林父は鄭の北境を攻めます。
 
六月、諸侯が北林(棐)で合流し、向(鄭地)に駐軍しました。
その後、西北に回って瑣(鄭地)に陣を構え、鄭都を包囲します。また、南方の楚を威嚇するため、南門に兵を集めて武威を示しました。
更に後続の軍が西から済隧黄河の支流)を渡りました。
鄭人は恐れて諸侯と講和します。

晋と諸侯連合軍の今回の出征を晋悼公三駕の「二駕」といいます。 

秋七月己未(初十日)、鄭と諸侯が亳(または「京」。鄭地)の城北で盟を結びました。
晋の士。范宣子)が言いました「盟書に慎重にならなければ、諸侯を失うことになる(二年前の戲の盟で造られた盟書を批判しています)。諸侯を疲弊させて成功を得ることがなかったら、二心を持たれても当然だ。」
載書(盟書)にはこう書かれました「同盟した国は、穀物を留めることなく(隣国で災害があったら救済し)、利益(山川の利)を独占することなく、姦(他国の罪人)を守ることなく、慝(邪悪の者)を留めることなく、災患を救済し、禍乱を憐れみ、好悪を共通にし、王室を助けることを誓う。この命に逆らう者がいたら、司慎・司盟(どちらも天神)、名山・名川、群神・群祀(各種の鬼神)、先王・先公、七姓十二国(姫姓の晋・魯・衛・曹・滕、子姓の宋、姜姓の斉、己姓の莒、曹姓の邾と小邾、任姓の薛、姒姓の杞。または盟主の晋を除いて姫姓の鄭が入るのかもしれません)の祖と明神が誅滅し、その民を失わせ、その君を殺して族を亡ぼし、その国を崩壊させる。」
 
[] 魯襄公が鄭討伐から帰国しました。
 
 
 
次回に続きます。