春秋時代149 東周霊王(十二) 䔥の会 前562年(2)

今回は東周霊王十年の続きです。
 
[] 楚の子囊が秦に出兵を請いました。秦の右大夫・詹が軍を率いて楚共王に従い、鄭を討伐します。
晋と盟を結んだばかりの鄭簡公は、楚軍を迎え入れて服従しました。
丙子(二十七日)、楚と鄭が宋を攻撃しました。
 
[] 九月、晋侯(悼公)、魯公(襄公)、宋公(平公)、衛侯(献公)、曹伯(成公)、斉の世子・光、莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯、小邾子が再び鄭を攻撃しました。
鄭はまた晋に帰順します。
鄭簡公は良霄(伯有。公孫輒の子)と大宰・石●(「毚」の下の「兎」が「大」)を楚に派遣し、晋に服従することを報告してこう言いました「孤(私。鄭簡公)社稷を守るため、楚君を想うことができなくなりました(楚に仕えることができなくなりました)。貴君には玉帛で晋を鎮めていただきたく(財物を贈って晋と和を結んでほしい)、それができないようなら、武力によって威を振るわせることが(晋と決着をつけてほしい)、孤の願いです。」
楚は鄭の行人(使者)二人(良霄と石●)を捕えました。
 
諸侯が鄭の東門で武威を示しました。楚に出兵の動きがないため、鄭は王子伯駢を送って晋に和を請います。
甲戌(二十六日)、晋の趙武が鄭国に入って簡公と盟を結びました。

晋と諸侯の今回の出兵を晋悼公三駕の「三駕」といいます。
 
冬十月丁亥(初九日)、鄭の子展が鄭城を出て晋悼公と盟を結びました。
 
十二月戊寅(初一日)、諸侯が䔥魚で会しました。鄭が正式に晋に帰順します。
庚辰(初三日)、晋悼公が鄭の捕虜を釈放し、礼を用いて帰国させました。鄭を探るための斥候も撤収し、鄭での略奪を禁止します。また、叔肸(羊舌肸。叔向)を使ってこの三事を諸侯の軍にも命じました。
命を受けた魯襄公が臧孫紇を送って晋悼公に応えました「同盟した国の中で、小国に罪があったら大国がそれを討伐し、成果を挙げたら小国を赦すものです。(罪のある鄭を討伐し、鄭が既に帰順したので)寡君は晋の命に従います。」
 
[] 鄭が晋悼公に師悝・師觸・師蠲(三人とも楽師)、広車と(どちらも兵車)各十五乗(合計三十乗)、武器を整えた他の兵車と併せて百乗、および歌鍾二架と鏄・磐(全て楽器)、女楽二八(十六人)を贈りました。
晋悼公は楽器と女楽の半分を魏絳に下賜してこう言いました「子(あなた)は寡人()に諸戎狄と和すことで諸華(中原諸国)を正すことができると教えた。そのおかげで、八年間で諸侯を九合することができた(東周霊王三年・前569年に諸戎と和してから足掛け八年。戚・城棣・・邢丘・戲・柤・虎牢・亳・䔥の会)。今は音楽が和すように、諸侯が和諧している。よって、子(あなた)と楽(音楽。喜び)を共にしたいと思う。」
魏絳が辞退して言いました「戎狄と和したのは国の福であり、八年の間で諸侯を九合できたのは、主君の霊(威霊)と二三子(群臣)の功労によるものです。臣に何の力があるというのでしょうか。臣は、主君が楽(喜び)を享受しながら、終わりも考慮できることを願います(覇業を成すことができましたが、油断することなく気を引き締めてください)。『詩(小雅・采菽)』にはこうあります『諸侯公卿が皆喜ぶ。天子を助けて国を鎮める。諸侯公卿が皆喜ぶ。福も禄も享受する。周辺を治めて、服従させる(楽只君子,殿天子之邦。楽只君子,福禄攸同。便蕃左右,亦是帥従)。』楽(音楽)によって徳を安定させ、義によって徳に応じ、礼によって徳を行い、信によって徳を守り、仁によって徳を奨励するものです。そうしてから、邦国を鎮め、福禄を共に享受し、遠人周辺諸国の人々)を招くことができます。これが楽(喜び。楽しみ)というものです。『書(佚書)』にはこうあります『安定した時に危難を思う(居安思危)。』危難を思うことができれば備えができ、備えがあれば患がなくなります。(今はめでたい時ですが)これらの事を敢えて諫言させていただきます。」
悼公が言いました「子(あなた)の教えに逆らうことはできない。しかし子がいなかったら寡人は戎の対応を誤り、黄河を渡ることもできなかった(鄭を服従させることもできなかった)。賞とは国の典(きまり)であり、盟府に記録されるものだ。廃してはならない。子はこれを受け入れよ。」
魏絳は賞賜を受け入れ、金石の楽鍾・鏄や磐の音楽)を擁すようになりました
 
以上は『春秋左氏伝(襄公十一年)』を元にしました。『国語・晋語七』にも記述があります。
悼公が鄭を討伐し、䔥魚に駐軍しました。鄭伯・嘉(簡公)は女(美女)・工(楽師)・妾(使女。婢女)合計三十人と、女楽二八(十六人)、歌鍾二列、宝鎛(小鐘)および輅(広車)・車車)各十五乗を献上しました。
悼公は魏絳に女楽一八(八人)、歌鍾一列を与えて言いました「子(あなた)が寡人に諸戎狄との講和を教え、諸華(中原諸国)を正させてから八年が経ったが、その間に七回諸侯を集めることができた(『春秋左氏伝』と若干異なります。この七回は戚、邢丘、戲、柤、亳城北と今回の䔥魚を指すようです)寡人には達成できない志はない。子と共に楽しもうと思う。」
しかし魏絳は辞退して言いました「戎狄と和したのは主君の幸です。八年の間に諸侯を七回糾合できたのは主君の霊(神。威霊)と二三子(諸卿大夫)の労によるものです。臣がそれらを受け取るわけにはいきません。
悼公が言いました「子がいなければ寡人は戎の対応を誤り、黄河を越えることもできなかった。二三子に何の功労があるというのだ。子はこれらを受け取るべきだ。」
当時の君子(知識人)は「悼公は善(臣下の長所)を認めて覚えていることができた」と評価しました。
 
史記・魏世家』によると、この頃、魏が拠点を遷しました。
かつて晋文公の時代に魏犨(武子)が魏氏を継いで大夫になり、魏の地を治めました。
その後、魏犨の子・魏悼子が霍に遷りました。
魏悼子が死んで子の魏絳の代になり、安邑に遷りました。戦国時代初期まで安邑は魏の都として繁栄します。
 
[] 『国語・晋語七』に晋悼公に関する故事が紹介されています。
悼公と司馬侯(叔侯。女斉。汝叔斉。司馬は官名。晋の大夫)が楼台に登って遠くを眺めました。
悼公が言いました「実に楽しいものだ。」
司馬侯が言いました「高いところから下を見渡すのは、確かに楽しいことです。しかし徳義の楽しみには及びません。」
悼公が問いました「徳義とは何だ
司馬侯が言いました「諸侯の行いとは、いつも天子の側にいるのと同じで(恭敬慎重でなければならず)、善ならば行い、悪ならば戒めるものです。これを徳義といいます(善を善とみなして行うことを徳、悪を悪として遠ざけることを義といいます「善善為徳。悪悪為義矣」)。」
悼公が問いました「誰ならそれができるか?」
司馬侯が答えました「羊舌肸叔向)春秋(歴史。人事の善悪の記録)を修めました。」
悼公は叔向を召して太子・彪(後の平公)の傅(教育官)に任命しました
 
[] 魯襄公が䔥の会から帰国しました。
 
[] 秦の庶長(爵名)・鮑と庶長・武が軍を率いて晋を攻撃しました。出兵の名目は鄭救援のためです。庶長・鮑が先に晋地に入りました。
晋の士魴が対抗しましたが、秦軍が少なかったため防備を怠りました。
壬午(初五日)、庶長・武が輔氏で黄河を渡り、庶長・鮑と共に晋軍を挟撃しました。
己丑(十二日)、秦と晋が櫟で戦い、晋が敗れました。敵を軽視したために招いた敗北でした。
 
 
 
次回に続きます。